ただひたすらに泣き続ける
そのときは唐突にやってきた。気配さえ感じさせず、影さえ見せず――予想さえ、させなかった。
メイドたちの悲鳴も、大臣たちの怒声も、吹き飛ぶ人影も倒れ行く人も。全てその瞬間にならなければ分からなかった。
倒れた人から流れ出る血が、広く広く床に血溜まりを作る。
見知った男が血に染まっていくのを、エリスは他人事のように見ていた。何が起こったのかすぐには理解できず呆然としていた。
人々に王妃と呼ばれている人物は、細身のナイフを持った腕をだらりとたらしている。ナイフの先から血が一滴、静かに落ちた。
「お慕い、しておりましたのに」
ポツリと彼女は言った。倒れている人物を見つめ、感情の抜け落ちた声で呟く。血溜まりの中心に倒れた人物は小さく呻いた。それでやっとエリスは事態を把握する。
「ダンテっ」
「大丈夫だ」
何が、と口が動くのに、エリスはそれ以上言えなかった。
同じナイフをこちらへも向け、王妃はにっと顔を歪める。いつも穏やかでも上品だと思っていた顔が崩れた。
「ジルベールを産み、王妃としてあなたを支えていたわたくしの、どこが不満でしたの……?」
こんな人間ごときに心を奪われ、『賢者』の地位まで与えて。
「数百年をともにした、あなたを慕い続けたわたくしを、蔑ろにして」
ナイフの先がエリスに向けられる。エリスは一歩下がり、しかしそれ以上動くことはなかった。
「あなたさえ、いかなったら」
わたくしはまだ愛されていたのに。近づくナイフを見ながらも、エリスが考えていたことは別のことだった。
『この人を自分は傷つけたのだ』と、『優しかったこの人を壊したのは自分だ』と。それならば。
殺されても仕方がないのかもしれないと。
エリスはそう思って目を閉じた。数年前ならば死を覚悟したときでさえ、しっかりと開いていた瞳を閉じた。
しかし襲ってくるはずの痛みは泣く、代わりに温かな腕に抱き上げられる。
「生きろと、言ったはずだ」
耳元で強く言われた。体の芯を震わせるような深い声だった。
「急所を外したことが、せめてもの救いだな」
エリスを抱き寄せ、苦く笑う。服から滴り落ちる血が、それを信じさせなかった。ダンテがどうここまで来たのか分かってしまうくらい、血の跡が床についていた。
自分の服さえ濡らす血を、エリスは何とか止めようと手で押さえた。それでも少しずつ溢れ出る血は手を伝い、制限なく床へと落ちていく。
「大丈夫だ、すぐには死なない」
『すぐには』? と聞き返したかった。
しかしダンテはその言葉さえ許さず、王妃に向き直る。僅かな哀れみを含んだ視線に王妃は顔を歪める。
泣く寸前の顔をしながらも、ダンテを見る瞳はあくまで冷静だった。
「エリスを、狙わせたのもお前だな。そしてエリスを殺すのに失敗すると、今度は俺を狙う」
慎重にやっていたようだが、俺の周りの者は優秀なんだ。たかだか王妃の浅知恵が通用すると思うか?
お前の周りにいる人間だって、所詮は半端者だろう。
「何故急所を刺さなかった?」
「すぐ、死なれたくなかったのです」
――ゆっくり、毒に侵されてくださいませ。
「わたしくの受けた苦しみを少しでも味わってくださいませ」
「エリス、泣くな」
部屋の中で、声になるのはその音だけ。
あとは小さな啜り泣きが聞こえるだけだ。それだけの音が静かな部屋に反響し続けた。壁に染み込むことなく、消えることなく響き続ける。
「エリス、頼むから」
いつもの厳しい声ではない、愛しむ声で呼びかける。
「どうせ死ぬなら」
泣き声の合間に、声が零れる。子供が我侭を通そうとしているかのようだった。
冷静で、滅多なことでは表情を表に出さない少女がぼろぼろと涙を流している。
「刺されたときに死ねばよかったのよ」
いつあなたが死ぬのかビクビクしないで済む。
明日だろうか、明後日だろうか――もしかしたら次の瞬間かもしれない、といつ来るかもしれない『そのとき』に恐れなくて済む。
「毒が中和できなかった私は」
あなたがまだ生きているのに、まだこうして傍にいるのに。こんなに、温かく私を抱きしめているのに、『助けられなかった』と自分自身を責めなきゃいけない。
生きているのに、あなたが死ぬことを確信していなきゃいけない。覚悟しなくちゃいけない。
「お前のせいではないだろう」
エリスの頬を包み、親指で涙を拭い去るが、エリスは泣き止まなかった。泣くことが贖罪になるとでも言うように、絶えず涙を流し続ける。
ベッドのシーツの白が淡く湿った。
「ジルに話すだけの時間を与えてくれたし、痛みもない。医者ではないお前にしては上等だ」
だから泣くな。最後に見る顔が、泣き顔だと逝きにくいだろう?
わしゃわしゃと、艶やかな長い髪を遠慮なくかき乱した。
エリスは泣きながら、しかしその手をぎゅっと握り締める。まだ暖かく、力強かった。これから死ぬなんて、考えたくなかった。
「術……っ。術、解いてよ」
エリスはダンテに掴みかかった。
弱々しい力で、それでも決してその手を離すことなく。絶対に離さないと、強く握り締める。それでもダンテは笑った。
「約束を忘れたのか?」
「あなただって、約束を破ったじゃない」
あと数百年は一緒にいてくれると言ったのに。泣かさないと、言ったのに。愛してると、そう言ったのに。
泣き続けるエリスを抱きしめて、ダンテは少しだけ眉を顰めた。何かを後悔するような、そこにある心残りに気付いたような、そんな顔だった。
「素直に泣くようになったお前を、残して逝くのは不安だな」
小さな声で、ほんの少し零れたダンテの本音だった。
本当のことを言えば、置いて逝きたくなかった。いつまでも、一緒にいたかった。我儘だと、自分勝手だと知っていた。
「俺がいなくなったら、お前は誰の前で泣く?」
心配なら、逝かなければいいのに。
心配なら、連れて逝けばいいのに。
「なぁ、エリス。前にも言ったが、俺は置いて逝かれることを恐れていた」
大切な人間がいなくなることが、何よりも怖くて、恐ろしかった。
「その『恐怖』を、お前に押し付けた俺を、お前はどうする?」
「恨むわ」
間髪いれず、言葉の余韻さえ断ち切るように、響かぬうちにエリスは言った。ダンテの胸に抱かれても、瞳の光が消えてしまいそうだった。
「愛した分だけ、信じた分だけ、あなたを恨む」
それが最後の会話だった。
別れ間際の口付けはとても甘く、今迄で一番苦く感じた。
ただ幸せだった口付けとも、欲望のままに交わした口付けとも違う。別れの儀式のようだった。
せめて今だけは幸せでいようと。せめて今だけは全て忘れてしまおうと。
ただただ、優しいだけの口付けをした。
『愛してる』
そんな言葉も、言えなかった。唯一の証明だと思っていた言葉さえ、彼に手向けることはできなかった。