終焉の間の扉
そのときのわたしはまだ知らない。
このとき、大臣たちがジルになんと言ったか、知らなかった。ジルがどんな気持ちでそのとき、一人で大臣たちと話していたか、知りようもなかった。
「陛下ご決断を!!」
大臣たちが言い募る。
「ジル様!」
「陛下!」
声が重なる。
「このままではなりませぬぞ」
「人間と対等で条約を結ぶなど、言語道断」
「五百年前も結局は崩れ去ったのですから」
決して、自分の意見を聞かない声たちが。
ずっと、側にいたはずなのに。自分の考えなど、性格など知り尽くしているはずの声たちが。
どうして、分かっていながらそれを口にするんだろう。
俺は、そんなことをしたいわけじゃない。……人間も、彼女と同じ人間も大切なのに。
「その前に結んだ条約でさえ、百年したら廃れたのですから」
「だから、結局前代の勇者がここへ来たのですから。結ぶだけ無駄なのです」
「人の生は短い。百年もすれば結んだ人間たちは死に絶え、そして事情も知らぬ人間が勝手をする」
「支配してこそです」
それが正しいのか、そうでないのか、知る術は自分にない。
「我らは人間らよりも優れているのですから」
「ここで、あの勇者を殺してしまえば戦争になったとて負けはしません」
「戦争にならないように来たのだ。殺してどうする」
ただ、少女の声が、繰り返されるのに。
結べば、争わなくて済むと言った、彼女の声が。
「もし条約を結ぶのに失敗したら、どうするおつもりです。七百年前のようにまた闘うのですか? また民に血を流させるのですか?」
「そうでは……」
それが正しいと、どうして声を大にして言えないのだろう。
彼女の言う通りなんだ、と主張できない。
「また民を殺すのですか?」
声を大にしても、届かないのかもしれないけれど。届かないけれど。
民は、殺せない……。だけど人も、殺したくない。
彼女と同じ、人間を手にかけたくない。
「……っ」
天秤にかけてしまうのか、自分は。民と人間の命を。
彼女の、命さえ?
もうすぐ……終わる。
この苦しみも、恨みも、全て消える。あと少しで。
全てを終わらせるのは、あの小さかった魔王。あの人の、息子であったジル。『あの人』と同じ、国を、民を愛している魔王。
仕上げはあの娘だろう。あの娘が“YES”と言わなければ全てお終い。
さぁ、はじめようか。終焉の幕開けだ。美しくも寂しい、終焉の始まり。
『ねえ、ダンテ。私はあなたを愛していたわ』
あなたのためなら人間を裏切ったと言われてもよかった。
私を悪魔の娘だと言った奴らに何を言われてもよかった。
『だからこそ、殺してしまいたいほど憎んだ』
あなたが死んだからこそ、『殺してしまいたい』と言うのよ?
『ねぇ、ダンテ……』
私はあなたに何かできていたのかしら。この国にでなく、あなたに。誰でもない、あなたに。
『とても、憎んでいたわ。そして同じだけ』
私はあなたを愛したの。
「ユキノ。今日は書庫の整理を手伝ってください」
「え、いや」
わたし今からあなたの大切な魔王陛下を教育しに行くんですけど。その帰りにルークのところへ寄るんですけど?!
その反論はノアの一睨みで飲み込んだ。お願いですからそんな怖い顔しないで下さい。
……最近わたしへ送られてくる殺気も増してません? いや、もうこんなの増えられても困るんですけど。
もともと殺気は送られてきてたけどね。どうしてでしょうか。
「魔王陛下はあなたのようにお暇な方ではないんですよ」
それは失礼致しました。書庫の整理だろうと何だろうと、お手伝いいたしますとも。
そう投げやりに答えると、『よろしくお願いします。まぁ、今日一日で終わるなんて思わないで下さいね』と返された。
え、そんなにあるんですか。
連れて来られたそこは、図書室のすぐ隣にある資料室だった。
ふわりと埃が舞っていて、窓から差し込む光を取り込み白く光っている。こもるような空気に小さく咳き込みながら、ノアを見た。
「で? どこを整理――」
『あなた何してるの?』
またあの声だ。
『呑気にこんなことしてる場合じゃないでしょ』
だから何? 何言ってるの? 全然分からない。
『二人とも、死んじゃうわよ』
ニヤリと『彼女』が笑った気がした。
見たこともないのに、何となく分かってしまってどきりとする。誰かも分からないのに、彼女の声はわたしの中へ侵入する。
『あの二人が死んでも、いいの?』
そこまで考えて、それ以上考えられずに扉から出て行こうとした。
『二人』が誰だか分かってしまった。ジルとルークのことだと一瞬で気付いてしまった。――もしかしたら、気付かなければよかったのかもしれない。
もし気付かなければ、わたしの選ぶ未来は変わっていたかもしれない。
しかし、そんなこと考えもせずわたしは扉に手を掛けた。この部屋から出なければいけない。
「ユキノ」
しかし突如捕まれて引き戻される。ぱっと振り向くと、苦々しい顔をしたノアがいた。
いつもは絶対に見ないような顔がそこにあった。モノクルの奥の瞳が嫌に真剣だった。
「あなた、何に気がついたんですか?」
分からない、分からないけれど、ここにいるだけではいけない気がした。
何かしなければいけない気がした。何とか振りほどこうとするのにノアの手は強くわたしの手首を掴んで放しはしなかった。
「放して!」
「私はあなたをここから出すわけには行きません。それに」
それにあなたも予想しているはずです。
何が起ころうとしているのか。
「あなたは本物の賢者ではありません。……行っても、無駄ですよ」
そんなこと、言われなくても分かっていた。
何度となくわたしが自分自身に言い続けていた言葉なのだから。今更他人から言われなくたって自覚しているつもりだ。
わたしが行ったって何かが変わるわけじゃない。両国の関係がどうにかなるわけじゃない。
「それでも」
それでも。
「『わたし(ユキノ)は行かなくちゃいけないの』」
彼女の声と重なった。次いで目の前に人が現れる。
美しく長い黒髪もそのままに、黒い瞳はこちらへ向けて。写真で見た賢者様。『本物』の賢者様がそこにいた。
「エリファレット・メルザス」
呆然と、ノアが口に名前をのせると、賢者様は淡く笑った。
『アラ? 私の名前、知ってたの?』
名前も、顔も知られていないと大臣たちが言っていたのを思い出した。
「……っ」
回答に詰まると、賢者様はなお一層艶やかに微笑する。
「あなたが、声の主?」
恐る恐る聞くと、賢者様はこちらを向いた。長い髪がふわりと翻る。本当に美人で、賢者を語ってごめんなさい、と謝ってしまいそうになる。
「そうよ。初めて顔を合わせるわね。ユキノ」
優しくて、それと同じくらい怖かった。
『どうして』と口が動く。どうして、たびたびわたしに話しかけたりしたのか分からなかった。どうしてノアに襲われたときあんなことを言ったのかも分からない。
『あなたに、してほしいことがあったの』
まぁ、もういいんだけど。
そう言って笑う彼女は寂しそうで、それでも嬉しそうだった。
『それで? ユキノ。行くんでしょ?』
そこで気付いた。ここでこんなことしている余裕なんてなかったのだった。
そう思い、再び扉に手を掛ける。しかし、手を捕まれたままで、それ以上は進めなかった。
「行かせません」
「ノア、放して」
「無理です」
「放してったら」
「だから、無理で……」
途中で言葉は途切れ、捕まれていた手も自由になった。
そして、後ろでパンパンと手を叩く音と、ふぅという妙にやりきった感のあるため息が聞こえる。
『これくらいしなきゃね。吸血鬼には』
怖くて後ろを振り向けないんですけど。何したんでしょうか、賢者様。
でも、見たい。どうやって大人しくさせたのか、非常に興味がある。……今度何かやられたら、やりたいという思いも無きにしも非ず。
怖いもの見たさでわたしは思わず後ろを見た。見なかったほうがよかったのかもしれない。
そこには、にんにくがついた紐でグルグルまきにされ、首からロザリオ(多分、滴っているのは聖水)がかけられたノアがいた。
ご愁傷様です。えっと、でも、ちょっと思う。
ざまあみろ。普段の行いが悪いから、こういう罰が当たるんだ。
青白い顔は本当に『蒼白』という感じで、目を回している。――ちょっと同情するかもしれない。さっきあんなことを思ったけど、さすがにちょっと可哀想だと思う。
『じゃぁ、行きましょうか。邪魔者も静かになったし』
いえいえ、静かになったんじゃなくって、静かにさせたんでしょ。
『行きましょう。殺し合いの場に』
その言葉に、心臓が大きく動いた。
まさしく、殺し合いをしているかもしれないと思っていたときに、その言葉はなかなか威力がある。
ノアが止めたのもそれが理由かもしれない。
「案内、してくれますか?」
そう聞くと、賢者様は万人が見蕩れる笑顔で『ええ』と頷いた。
進もう。終焉の間に。
そこで待ち受けているのが何か、あなたはもう、分かっているはず。
さぁ、行こう。死の待つ間に。
そこは血塗られた地獄だ。そこへ行く覚悟があるのなら、きっと何かがあなたを待っているはず。
泣いても笑っても、結果は変わらないけれど。
そこへきっと、あなたが欲しがっている、真実があるはず。