その痛みは代償
「先代の賢者は傍若無人な方だったと聞いていましたけど、今代の賢者様はお優しいですね」
僕たち人間には、まだ新しい賢者様が現れたことが知らされていなかったのですが(ノアの情報操作か)よかったです。
「賢者と聞くと、人として生まれながら魔王と手を結んだ人間の恥と思ってしまいますけど、きっと先代の方も何か思うことがあったんですね」
はっきりとそう言われても、知らないので何も言えないんですけど……?
それに『優しい』と言われて、心臓がはねた。まさかわたしのことを優しいという人が現れようとは、人間、ものは言いようだと思う。
「本当によかったです。ユキノ様が賢者様で」
えっと、良心を苛む発言ばかり止めてもらえますか? そろそろ。
「あの――。ユキノって呼んでもらっていいから。敬語止めてもらえます? わたし、本当に大した存在じゃないんで」
話し方に素が交じってるけど、この際気にしない。敬語はほどほどが一番。敬われるのも、ほどほどが一番。あまり行き過ぎると申し訳なさが先にたつ。
「ですが、ユキノ様は」
「わたしも勇者様って呼びますよ?」
そう言うとルークはやっと『では、ユキノと呼び……呼ぶ』と言った。
「その代わり、ユキノも『ルーク』って呼んでくれるかな?
僕二十歳だし、そんなに年齢変わらないよね?」
頷きかけて、固まった。
「はたち?!」
嘘でしょう? 冗談ですよね? 見えませんよ、二十歳に。高校生で通りますよ。余裕で。
「え、ユキノ何歳?」
「十六」
「嘘?!」
それはどういうふうに受け取ったらいいですか? 老けてると言いたいんでしょうか?
「イヤ、ユキノ大人びてるから」
フォローがフォローに聞こえない悲しさを、どうやって解消したらいいのでしょうか。生まれてこの方、年上に見られたことなかったんで分かりません。
「ユキノ」
夕方、というかもう夜。電源をつけていない携帯電話を開けたり、閉じたりしているといいきなりドアが開かれた。
思わずもっていた携帯を落としそうになり……そのまま落とした。
「ジル」
入ってきた人物を恨みがましそうに見つめると、ジルは一瞬だけひるむ。が、すぐに部屋に入り、こちらへ向かってきた。心なしか天使のようなお顔が怖いです。
「ユキノ」
いやに真剣に、名前を呼ばれた。
性質が悪く、聞いた人間が動けないようになる声が、わたしの名を呼んだ。追い詰められている気がしてならない……実際、追い詰められているわけだけど。
ぐいっと腕を引っ張られて、いきなり抱きしめられた。
いい男に抱きしめられているという実感よりも早く、自分が今何をしているのか分からないという考えの方が早くわたしの中を占める。
ふわりと妙に安心した。
「生きた心地が、しなかった」
ぽつりと言われて、あぁと頷いた。
「ルークがわたしを殺すと思った?」
「殺すことはないと思った」
だが人はひどく脆い。俺たちに比べて人はとても壊れやすい。
「身体も精神も」
ぎゅっと力を入れられて、その力の強さに眉を顰める。
その力の強さが心配の大きさなら、心配をかけてしまったわたしはその痛みを甘んじて受けなければいけないのだろう。
『痛い』という言葉が出ず、出すことなく呑み込んだ。
「人と俺たちは違う」
当たり前のことだ。わたしがいつも身に沁みて感じていることだ。
「知ってる」
だからだろうか。
「俺はいつか、気がついたら……ユキノがいなくなってるんじゃないかと思う」
それは正しい。
わたしはもともと、この世界の人間ではないのだから。いずれ時が来れば元に戻るだろう。いつか、帰れるだろう。
そう、いつか分からないけど、その『何時か』はきっと来ると信じている。
「俺はそのとき、どうすると思う?」
聞かれて一番に、寂しそうに笑うジルの姿が浮かんだ。
「わたしを、探さないと思う」
「ユキノが、望んでいなくなったら、そうだろうな」
俺は臆病だから。
その意味が図れず、ジルの腕の中で首を傾げると、ジルは『分からなくていい』と笑った。
『分からなくていい』のに、どうしてわたしに言ったりしたんだろう。
「ユキノ。俺は、民にとっても人間にとっても理解ある王でいたい」
それは間違っているか?
「いいえ」
それは一番、あなたらしい考え方だと思う。
「民だけよければいいと、思いたくない」
「知ってる」
魔王らしくない魔王サマのあなただから。
「誰も傷ついてほしくないという俺の考えは――甘いだけか」
甘いの、だと思う。
誰もが傷つかず、事を解決するにはもうすでに血を流しすぎたのだ。この闘いは。
「偽善な、だけなのか?」
誰も傷つかない戦い。そもそもそれが矛盾なのだから。
その考えは初めから矛盾に満ちているはずだ。戦いは血を流すものだ。だから戦いと言う。
血を流さない戦いなんて、ありえないのだと思う。
「平等な条約なら、人もきっと条約を結ぶと思う」
だけど、ジルにこんなことを言うわたしは、そんなジルの助けになりたいと思っているのだろうか。
「条約を結べば、人もあなたたちも、ある程度は闘わずに済む。五百年前のように」
抱きしめられた体が痛い。力の強さに目を瞑り、ジルの背中を二度叩いた。
「ジル。わたしたちは、思ったよりもずっと簡単に手を結ぶことができると思う」
そう思ってしまうのは、平和な国で暮らしていたからなのかと疑問に思う。
多分、そうなのだろう。戦争を知らない。親でさえ、その現実を知らないのだから、子どものわたしたちがそれを知るはずもない。
「人も、あなたたちもむやみに殺し合いはしたくないのなら、どうして手を結ぶことができないの?」
「互いに、牽制する支配者がいないからだ」
五百年前、条約を結べたのは、賢者が現れたからだけではなかった。
「人間と俺たちの側、魔族側両方に優れた支配者がいたからこそ、牽制しあえた」
双方が互いに監視し、力の拡大を許さなかったから。
それだけの力をお互い持ちつつ、それを闘いに使いたくなかったからこそ条約は成立し、共に栄えた。
「だが今は違う」
「そんな……」
「俺にそんな力はない」
父のような力は俺にない。俺に父のような支配力はない。
「俺は自分の心を偽ってまで、国のために何かすることはできない」
ジルの迷いがわたしには見えなかった。
民を大切だと、自分は魔王だからと言った彼もジルのはずで、わたしにはジルが立派な魔王に見えるのに、何がいけないのか分からない。
だけど多分、わたしには見えない何かがジルの中にはあるのだろう。
「じゃぁ、ジルは……人々が傷つけあって、血を流して、それで平和が」
「そうではない!!」
ジルがわたしの言葉を遮った。体に回る手の力がいよいよ強くなる。
「血を流して手に入れた平穏は、本当の意味での平和ではない」
ジルの声が苦々しく響く。
闘うことも、条約を結ぶことも選べないジルが、納得する答えは存在するのだろうか。わたしはどう返したらよいか分からず沈黙した。
「どうしたいの?」
「分からない」
数百年生きているはずのジルでも分からない方法が、二十年も生きていないわたしに分かるはずもなかった。
「ユキノ」
「お帰りなさい。ノアレス様」
わざとらしく言うと、ノアは一瞬だけ目をすがめ、それからわたしを睨みつけた。
「どういうつもりですか? あんな人間を中に入れるとは」
アレの持っている剣の気配を感じるだけで、気分が悪くなりますよ、まったく。
そう鬱陶しげに呟いてから、ノアはさらりと髪をかき上げた。
――そんな仕草も似合う美丈夫ぶりは相変わらずですね。ノア。心の中で呟きつつも、口に出したが最後たぶん生きて帰れないのでため息として出した。
「仕方ないの。色々あっ」
あったんだから、という前にノアがわたしの肩を掴み、壁に押しやった。
人気のない廊下に、ドンと鈍い音が響く。この感覚は前にも味わった。……もう勘弁してほしいんですけど。
「ユキノ、あなたは賢者です」
凄みのある声に、体が反応する。ビクリと肩を震わせれば、ノアは面白そうに笑った。本当に、この人、加虐趣味がある。絶対ある。
強めに押さえつけられた左肩がギシリときしんだ気がする。
「それが何を意味するか、あなたはまだ分かっていないようですね」
何を意味するか? 今まで知っている以上のことがある、とノアは言いたいのか。
「あなたはこちらへ来た時点で、人間の裏切り者。しかしこちらでもあなたは完全な味方として見られていない」
そんなこと薄々気付いている。
確かに賢者の存在は魔王にとって不可欠だろう。しかし、それを喜ぶだけの人たちではないこともまた分かっていた。
大臣の態度を見て、予想が確信に変わった。ただそれだけ。
「つまりあなたは、勇者を殺せる理由にもなりえる。どうしてだか分かりますか?」
「わたしを殺して、ルークが殺したとでも難癖つけるつもり?」
裏切り者を許さない勇者が賢者を殺した。
「それでルークを殺す?」
馬鹿げている。
そう呟くと、今度は両手で壁に押し付けられた。両肩は壁に縫い付けられ、身動きが取れない。そして人間という弱い肉体は外からの力に悲鳴を上げる。
「理由なんて、意外にくだらないものです」
勇者さえいなければ、戦争になったとて負けることなどありません。
「勇者を殺すのです。犠牲は数十人には上るでしょう」
……しかし。
「戦争になったときの数百人、数千人の犠牲を思えば安いモノでしょう?」
ここであなたを殺しても、大臣たちが喜ぶだけです。私は何の罪にも問われたりしない。勇者を殺し、人間と戦い、今度こそ人間を支配できる。
「ジルが、それを望むと、実行すると思っているの?」
「私たちは魔王の命令だけで動いているのではありません。魔王陛下にとって一番よいと思われることを」
「それはあなたたちの勝手な想像でしょう?!」
押さえつけられて動かない肩を無理矢理動かして、ノアを押しのけようとした。
しかし反対に手を捕まれ、より一層体を近づけられる。端整な顔が間近に迫り、顔を背けた。
「賢者も人の子でしたね」
わずかに赤くなっているであろう顔が朱に染まっていくのが分かった。
赤くなった顔を見られたことが屈辱だった。でも慣れていないのだからしょうがない。心拍数が上がらないことを祈るのみだ。
ジルが、抱きしめたときは、こんなこと思わなかったのに。
ただただ、温かい熱にくるまれていると思っていただけなのに。そこでジルの言葉が浮かんだ。
「あなたたちの身勝手な予想が、いつもジルを傷つけているのに」
どうして誰も気がつかないの?
「わたしよりずっと、ジルの近くにいるのにどうして」
誰もジルの悩みが分からないの?
手の痛みとは別の痛みに眉をしかめ、次いで涙をこぼした。ここへ来て三度目の涙。私らしくなくて少し驚いた。随分と表情を押し隠すことが下手になった。
わたしの涙を見て、小さく目を見開きノアは手の力を緩める。その隙にノアの体を押しのけた。
「あなたたちがそんなこと言うからジルが」
不意にジルの言葉を思い出した。
『父のような力は俺にはない』
――そして心が沈んだ。あんなに国のことを考えているジルが、どうしてあんな言葉を口にしなければいけなかったのだろうか、と。