0.46 過日 ちがう世界に住んでいる錯覚が
「————っ!」
息が物理的に止まったのを感じて、オレは微かに覚醒する。
一瞬。
間を置いて、背後から誰かに口を塞がれている事に気が付いた。
背筋が凍った。
怖い。
誰だ。誰だ。誰だ。
やめろ! 誰だ!
やめて……。
離して————
と。
瞬間。
思いきり振り上げようとした腕が、強い力でぐっと押さえ付けられた。
「『一也』」
その聲に、はっとする。
聲と同時に耳馴染んだ音が頭に響いて、それが音叉の音だと、段々理解が追い付き始める。
音が顳顬から振動して、頭の奥に、直接響く。
『一也』
優しい、聲がする。
聞いたの事ない聲だった。
けれど、深く。
オレの空っぽになっていた芯に注がれるその聲は、確かにシノさんのものだった。
「『大丈夫』」
聲がする。
「『シノだよ。レン』」
自分の気が動転していたことを、客観的に認識する。
体から力が抜ける。腕が、下にだらっと下がった。
オレの口を抑えていたシノさんの手が、少しずつ、ゆっくり離されて。
オレは自分の呼吸を思い出す。
乾いて張り付いた喉から、ひゅっ、と息が漏れた。
『……シュンさん』
聲を、どうにか、返してみる。
同時に固唾を飲み込んで、申し訳程度に潤った喉に酸素を流し込んだ。
『そうだよ、一也』
聲が返ってくる。
『安心して。僕がそばにいる』
音叉が顳顬から離されて、聲の名残だけがオレの芯に強く響く。
『あの聲に応えないで』
腕が強く掴まれた気がした。
『僕だけに応えて』
「『一也』」
瞬間。
一気に、意識が浮上する。
覚醒したと思っていた感覚が全く霞んだものだったと思い知らされる。
何枚も張っていた膜が一気に剥がされるみたいに。
深海から一気に引き上げられて、息を思い切り吸うように。
世界が途端に、何倍にも、クリアに感じられる。
今までの事が、全て一瞬の出来事だったかのように。
そして。視界に、今まで見ていた倉庫の光景が戻ってくる。
死体がある。
死体に、一人の男が近付いていく。
その手には何か、得体の知れない————
————そうだ! アイツ、 腕を持っていたんだ!
オレが正気に戻ったその時。
無意識に勢いよく動き出そうとしたオレを、シノさんが強く押さえつけて、耳元で「落ち着け」と呟いた。
「無闇に動くな」
その冷たい声に、オレは思わず息が止まる。
死にそうな程速く脈打っていた心臓が、少しずつ落ち着いて、オレの頭も冷静さを取り戻す。
そして、オレが起こした一連の行動を思い出して、途端に冷や汗が吹き出した。
「アイツが何をするのか確認してから確保する」
ごめんなさい、という言葉を飲み込んで、オレは「はい」とだけ返事を返した。
奥歯をギュッと噛み締める。
丹に飲み込まれた。
初めて、屯所に行ったあの日のように。
どうして。訓練ではきちんと離脱出来ていたのに。
何をやってるんだ。
こんな大事な時に。
足手まといどころか、任務の邪魔でしかないじゃないか。
けれど。今は自責なんかしている場合じゃない。
オレは深く息をする。そして、努めて自分を落ち着けた。
オレから離れて男の様子を伺うように死体の方を覗き込むシノさんの横から、オレもそっと顔を出した。
逆光で顔はよく見えない。
男は死体の前に座り込んで、懐から何かを取り出した。
首に掛かった紐に括られた、何か、丸い輪っかみたいだ。
そして、男はそれを自分の額に当てて、持っていた腕を地面に丁寧に置いた。
男が口を開いた。
『Ll uiji』
何を言っているのか聞き取れなかった。
けれど、しばらく聞き耳を立てた時、それが異国の言語、もしくは何かの呪文みたいにオレには思えた。
『See ha n-i! Klld Ttn g.
Ch uanlllar-r Gwill hanJhng-h am.
Gwill hanG goo.
Gwill har-rissll d YI yng-nr Kisslld Ttn g.
juSoi n-dl I N l Soi n-dln Nn ln Eum g,
Ill YongeollSoi n-dln J e,
yng-nr Soi n Yon golllK-dl I J ellney Soi n-dl.
IllikkSoi n-dlog zalwe Yuh e,
Hjmn Hea balllSoi n-dlkl Ag e』
どこの言葉だろう。
アイツはこの国の人間じゃないのか?
オレは疑ってよくよく目を凝らして男を観察する。
中肉中背。暗い色のTシャツに、Gパン姿。特徴と言えるような部分は見出せない。
『Je bal n-i! l』
男が声高らかに叫んだ。
そして、目の前の死体に深く礼をするように頭を下げる。
何をしてるんだ。
まるで黒魔術の儀式だ。
男は暫く頭を下げた後、ゆっくりと頭を上げて、目の前に置いていた例の腕にもう一度手を伸ばした。
それから、掴んだそれを、口元に運んで。
男は、それを。
「——っ!」
食べた。




