87 ハンナさんは暗躍していた
六年前。
それは、狼男でも出てきそうな綺麗な満月の夜で起きた事だった。
何処にでもある辺境の平原に『彼女』は立っていた。両手を広げ声を上げた。
「それではルパ族の皆様……」
格式ある姿勢に柔らかい表情は教養を感じられる。
つい簡単に心開いてしまいそうだが、目の前で屯っているルパ族の面々は『彼女』を信じ切れずに訝し気な視線を向けていた。
特に、実質的な代表であるヴァン・ベルドはそれが顕著だ。胡散臭そうな視線を向けて、とてもご機嫌とは言い難い。
元々駒の様に利用されていたのだから、仕方ないといえば仕方ない。
それでも構わず続ける『彼女』は、かなり図太い神経の持ち主であると思われる。
「反乱成功、おめでとうございますっ!」
「ふん。ワシ等は貴様らの手の平の上で踊ってやったに過ぎん」
背後は業火に包まれる違法風俗街。
マフィアと結託して荒稼ぎしていたパノプテス家の最後の光景だった。
当主のアルゴスは行方不明であるが、後でゆっくり探せば良いというのが『彼女』の考えであると聞かされている。
「あらあら。そうでもありませんわよ?」
「どうだか。『これ』の出どころからして怪しいもんじゃわい」
言ってヴァンが取り出したのは、『彼女』から渡された布切れ……エミリーの臭いが付いたハンカチだった。
実はこのハンカチ、エミリー本人のものである。
それは『彼女』が昔の付き合いで得ていたものだが、エミリーが襲われるところまでシナリオ通りではないのかと疑われていた。
「正直なところ、それこそ逆ですわね。
此処の風俗街は前々から厄介とは思われていましたが、我が家の坊ちゃまの大切な人に手を出したという事で、本格的に痛い目を見て貰おうといった図式でして。
ラッキーダスト家の暗部当主【ハンナ・フォン・アンタレス】の名において誓わせて頂きます」
そう言って『彼女』……ハンナ・フォン・アンタレスは朱色に照らされたメイド服を軽く摘まんで礼をする。
無理矢理納得したヴァンは腕を組む仕草をし、しかし片腕しか動かない。
此度の反乱で片手を失っていた事に気付くと改めてハンナへ向き合った。
「それで、今度こそワシらはそなた等王国の住人と平等の立場で接してくれるのかね」
「ええ。それはもう。
貴方達の姫君に貴族に匹敵する社会的立場を約束しましょう。町もひとつ、アセナ様名義でお渡ししましょう。
そうなれば自然と貴方達に手を出せる貴族は滅多に居なくなる構図になりますわ」
「なるほどのう」
片手で顎を摩り一拍。
「だが、それは本当に平等なのか?役職名を言ってみてくれんかの」
「あらあら。そうですね、伝えなければ確かに不平等というもの。
アセナ様に渡す役職は『寵姫』ですわ」
「なっ!」
ヴァンは胸倉を掴もうと一歩踏み出す。ヴァンの国で寵姫というのは、情欲に塗れた貴族が女を連れ去る為の常とう手段だからだ。
しかしハンナは一歩も引かない。
何故なら、ヴァンの突貫はこの反乱において人質のアセナ脱走を成功させた重要な協力者の握力によって止められていたのだから。
眼窩に嵌められた義眼が鬼火の様に紅く灯る。
十五の少女とは思えないその力はどこからくるのか。
怪しく光り続けるそのオーパーツの能力によるのかも知れないし、彼女の心の力なのかも知れない。
「エミリー殿……」
「大丈夫だよ。ねえ、ハンナさん。それってあのアダマス君の寵姫って意味だろう?」
「ええ」
聞くとエミリーは何処か安心したように右眼の光をぼやけさせた。先程まではっきりしていた魂の色が嘘のように、存在を儚く感じさせる。
彼女は腕を放し、白い首筋をヴァンに見せる。細いそれは、表情も相まって今にも折れてしまいそうだった。
「なら、大丈夫だ。彼は望まない事はしないから。
ヴァンさん……どうしても信用出来ないなら、私のこの首、切り落としちゃって下さい。裏切られ続けた貴方にとって彼女を信頼出来ないのは仕方ないでしょう。
でも、それと同じくらい私の大切な人が、情欲に狂った愚者に見られるのはとても辛い事なのです」
「む、むう。エミリー殿が言うなら……」
ルパ族の被害者でもある彼女にそう言われればヴァンは口籠もるしかなくて、一歩引く。
「そんな面白そうなヤツなんだ……あ、前にアタシに話してくれた指輪の彼っ⁉」
「うん。そう。ちょっと人付き合いが苦手だけど、良い子なんだ」
ヴァンの代わりに前に出た、ボロボロのドレス姿のアセナはエミリーの手を指差した。
エミリーの左薬指に嵌められた玩具の指輪が闇を背景に強調される。
「ならさ、アタシと一緒に来てよ!エミリーはもう十分酷い目にあった。十分幸せになる権利がある筈だ!いやっ、幸せになるべきだ。
これはアタシの罪滅ぼしの意味もある」
差し出された人差し指を解いていき、握手の形へ。
しかしエミリーは微笑みを返して手の平をその上へ置くと、押して拒否を現した。
アセナは半口を開け、否定されたのだと虚無感に襲われた。
それを否定するのは、当事者のエミリーだ。
「別にアセナが嫌いとかじゃないんだ。ただね、私さ、汚れちゃったから……。
子供が作れなくなって!眼孔を汚いモノで犯されて!そして幾つもの犠牲の上に生き恥を晒しているんだ!
仮に周りの皆は大丈夫と言っても、私には彼の元に戻る勇気がまだなくってさあ!
……だからアセナ、私の心の整理が付くまで、先に彼の面倒を見ててくれないかな」
言って彼女は両手で手を握ると、年相応のはにかんだ笑顔を浮かべた。
ツウとアセナの片目から一滴だけ涙が流れて握られた手に落ちる。
「ありがとう……」
眼を合わせられないアセナは、下を向いてそれしか言えなかった。
その後エミリーはハンナに紹介状を書いて貰い、学園都市に入学。そこで四年の人生を研究のみに費やす事になる。
◆
そして現在。
ボクをお姫様抱っこするアセナの後ろからエミリー先生が出て来る。
彼女は手を振りながら軽くヴァン氏に話しかける。
「やっほヴァンさん。お久しぶりっちょ」
「お元気そうで何よりで。雰囲気が変わりましたな」
「時は人を変えるからねえ」
そういえばエミリー先生も何気に町に来るのはじめてなんだよなあ。
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