492 俺の名を言ってみろ!!
これは『大人の物語』である。
アダマスの視点から離れた、子供の触れてはいけない世界。
では何を以て、大人とするのか。
それは政治や金銭などではなく、『感情』の形にあるのだろう。
アズマはジャムシドに連れられ、新聞紙置き場にやって来た。
ソファーのアダマス達には背中を向けているので、顔は見えない。
「なあ、アズマ」
「ん、なんだ」
「ちょっと、こっちを向いてくれないか」
「はあ、なん……だ!?」
アズマが見たのは形容しがたい『怖くて悲しい』表情だった。
あらゆる形の憎悪が表情筋を動かして形成されるそれは、生まれた時から裏社会に居るアズマが見ても上位に入るおぞましさだった。
故に敢えて形容するなら『こんな顔、見た事がない』と言うべきなのかも知れない。
直ぐ傍にある、平和な世界を壊さないよう小声で語る。
「大した事は言わん。ミアズマから足を洗え」
「知っているのか……」
「新聞屋だからな。
そして、これは最大限の譲歩と妥協だ」
ジャムシドは新聞紙が固定されている、上にかけるタイプのレールを無意識の内に摘まんでいた。
そして無意識のまま、力が入る。
──メキャ。
鋼鉄のフレームが飴のように曲がった。
職業柄、いざという時に取り外して武器にするよう設計された強度のレールだった。
これを出来るという事は、例えばライフル銃と戦った際に砲身を摘まめば無力化出来るという事でもある。
因みにその気になれば馬より速く走れるので、ショットガン程度の射程なら、構えて引き金を引くより速く無力化が可能だ。
外の見張りが銃などという『軟弱な玩具』よりも剣を好むのは、こういった理由もあった。
ジャムシドはルパ族の中では『平均的』な成人男性だ。
嘗ての平原の覇者・ルパ族という超人軍団の『普通』なのだ。
後ろから、シャルの声が聞こえた。
純粋で、疑う事も知らない、心配する気持ちから成る言葉だった。
「今、変な音がしたけどどうしたのじゃ?手伝うかや?」
ジャムシドは気持ちを無理やり胸の内に引っ込ませて声だけで応じる。
口調は何時も通りだが、決して振り返りはしない。
顔を見せたくないから。
「ん、ああ。大丈夫だ。
レールが安モンだからガタがきてなあ。
まあ、手で曲げて直せるから大丈夫だ」
勿論、安物などではない。
壊れないよう鍛造して仕上げた一品だ。数打ちの剣程度ならへし折るくらいの強度は持っている。
彼は後ろを向いたまま、そのレールを掲げる。そして両手で曲げて真っすぐに戻して見せた。
飛んで来るのは「おおっ、力持ちなのじゃ!凄いのじゃ!」と、無邪気な称賛。
そして子供らしく、再びお菓子タイムに戻っていく。
ベビーカステラでは量が足りないので、セリンが自前のお菓子を追加したのだ。
ジャムシドは、再びアズマに言葉をかける。
「ウチのルパ族は、お前の組織のせいで全てを失った。
財産も、家も、誇りも失った。お嬢なんて家族も失った。
俺はおめえらのつまらん実験のせいで、十代前半には左の視力を失った。
そして、何度もセリンを喪いかけた。
そういう面では、俺は運が良かったんだと思う……リミッターになってくれるアイツが居なくなっていたら、俺は俺を保てる自信がねえ。
肉体がひび割れて、中からドス黒いモンが出てきちまいそうだ」
亡命してから山賊紛いの犯罪行為をやらされていた時、ミアズマが関わっていたのは知っている。
そしてルパ族が大平原から追放されたのは同盟していた部族が裏切った背後に、ミアズマが居たという事にも、気付きつつある。
裏切った民族は、元の侵略民族としての体制を作り、近い内に陸続きのこの国へ戦争を仕掛けるだろう。
だが、それはどうでも良い。
問題なのは、変わった事より奪われた事なのだから。
そしてそれは、もう取り返せない。
仮に裏切った部族を皆殺しにして大平原に戻っても、もはやそれは『元通り』ではないのである。
ジャムシドは、地獄の底から響くような低く暗い声で言った。
「正直俺は、お前の首を脊髄ごと引っこ抜いて、脊椎を首無しの身体に巻き付けて、腸をロープに吊り上げた晒し者にしてやりてえ気分だよ。
でも、おめえらの無責任な大将が平気で踏み躙っている『人間の決まり』が、『今だけ』お前を守っていやがるからそう出来ねえ。
あいにく自我を保って中間管理職をやっている『今の俺』は、人間のルールに従う理性を誇りとしているんでな。
……いいか、これは最後のチャンスだ。
侯爵様は、お前の利用価値を測っている。そして見切りが付いたら、『人間の決まり』なんて簡単に消え去る」
彼の身体は平均的ではあるが、際立って家族に優しい人間である。
顔の傷も、家族を守る為に自ら飛び込んで負った傷だ。
故に危険でもあった。
その『地雷』に触れた時は、肉体の弱さを補って何処までも勇敢で残虐になれる爆発性を秘めているのだから。
ガシャリと大きめの音を出して、レールを元に戻した。
「その首を繋げたままにしたければ、足を洗え。
病気を理由に死ぬ死ぬ言って周りを心配させるんなら、俺がやってやる。
テメェに俺達の『死』の百分の一でも分けてやれば、命の大切さが理解出来るか試してやろうか?」
スーツの上から、丸太の様な腕の輪郭がクッキリと浮かび上がっていた。
アズマは無表情を装うとしたが、表情のインパクトが引き金となったのか、つい息を呑んだのだった。
「殺すぞ……こら」
此処に居たのがあまり口を出さないアズマだったのは一種の幸運だった。
もしもヤクモのように争いを求める人間なら「ギャンギャン吠えるなよ、飼い犬が」とでも挑発して、直ぐ背後に隣り合う平和な世界は崩れていただろう。
尤も、そんな事をする人間だったら警告という『優しい対応』はしなかっただろうが。
アダマスの冒険は、大人たちの醜い争いの『氷山の一角』。
その距離は水面を隔てた程度の差でしかないが故に、驚く程身近にあるのだ。
◆
「ほれ、見つかったぞ」
新たに追加されたお菓子を食べていると、ジャムシドが新聞を持ってやって来た。
何時も通り、怖い顔つきだけど優しいお兄さんとしての表情だ。
そういえば、アセナがお姉ちゃんみたいな立場だから、お兄さんっていうのもあながち間違っていないんだなあ。
昔からちょくちょく会っている関係だし。
「……要件は済んだ?」
そういえばと、思っていた事を口にする。
二人がボク達から離れる事で、何かしらの密会が行われた可能性は高い。
「ああ、ちょっと小言を言ってやった」
「ふ~ん?」
「あはは、ジャムシドってばあんなルックスで神経質な性格しているから」
そう言ってセリンが笑い飛ばすと、ジャムシドは口を尖らせた。
そのやり取りには、父上達『大人』がたまにやる、演技を思わせる違和感が僅かにあった。
まるでセリンは、ボク達が深入りしないように割り込んでいるように見えたのだ。
彼等の言っている事に間違いはない。
ただ、もしかしたら、ボクが知識で知っているだけでは理解できない感情が存在しているのかも知れないな。
読んで頂きありがとう御座います。
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