429 微妙に距離のある人と二人きりになっている時
パブの玄関前に吊り下げられたランタンが、年季の入ったドアノブを照らしていた。
掴めばやや冷たく凸凹とした触感を覚える。
捻って開ければカランと青銅のドアベルが鳴り、舞台を店内へ移す。
先ず目に入るのは、木製の床に背の高い机と椅子。
なんか前もカフェバーにフィッシュアンドチップスを食べに行った時、こんな椅子だったな。
背の低いシャルは頑張ってよじ登っていた思い出。
普段は見慣れない癖に、こういう所ではよく見る。
奥にはカウンターがあって、店主らしき男性の背後には沢山の酒瓶が並べられている。
特に飲む訳でもないので、瓶のデザインがお洒落と思う以外に思うところはない。
敢えて言うなら、店主の男がやたら屈強な身体付きをしていて顔に傷跡とかあって、過去に何かありそうな雰囲気なだけか。
小説だとよくある設定だよなぁ。
カウンターの内側には、従来の通り固定式の大きな蓄音機が置いてある。
クルクルと回るレコードを針が読み取り、明るいジャズがBGMとして、大きなラッパから流される。
グリーン女史に見せて貰った携帯型と音質に差はない。
カウンターには二人の先客が、此方に背中を向けて座っていた。
一人は焦げ茶色のスーツと女性らしい柔らかなラインは、間違いなくベアトリス女史。
そしてもう一人は、タンクトップにホットパンツという薄着と健康的な身体のライン。
狼耳に、炎のように赤い髪。
「アセナが居るのじゃ!」
シャルの声に応えるように、彼女は椅子を回して此方を見た。
その頬は真っ赤で、表情筋はベロベロに緩み切っている。
手にあるグラスには炭酸の泡が浮いていて、雰囲気的に、炭酸水で割った酒である事が読み取れた。
ボク達とは別に、領主直属の秘密警察として連続殺人事件の調査を進めていた筈なんだけどなあ。
取り敢えずと口を動かす。
「よ〜う、いらっさ〜い」
やたら明るいのは酔いが回っているからであろう。
色々とツッコミどころはあるが、優先順位上位からいってみよう。
書類仕事だって、困った時は一番上から片付けていけばいいのだ。
「どうしてギルド長と一緒に?」
「ひょれは〜……侯爵様からの命令で〜……、護衛と切り裂きジャックの意見交換をする為なのだ〜、ぶひゃひゃひゃひゃ!」
「さいですか」
こんなに酒が回っていて護衛もクソも無いと思うが、夕方とはいえ日の出ている時間の二番街。
実際安全な場所という事なのだろう。
彼女はチョイチョイとボクを近寄らせ、ギュウッと力強く抱き締めた。
かかる息は酒臭い。
「アダマス〜、やっと来た〜!
共通の話題とか無い上に、話しちゃいけない事とか多くて大変だったよぉ。
もう飲むしかないじゃないかよぉ!」
つまり護衛は建前で、父上からの指示による、切り裂きジャックに対する意見交換が主だと推測出来る。
だが、それ以後はボク達を待つだけの時間になったのだろう。
特に話すような事もなく、黙って酒ばっかり飲んでいたら呑兵衛が完成したと。
でも、そんな状態でさえ口を滑らす事はないのは流石だと思う。
柔らかな弾力のある筋肉を直に感じつつ、隣のベアトリス女史に視線をやった。
彼女も同様、キュッと椅子を回してボクを見た。
手には果物で飾られた高そうなカクテルがあり、あまり飲んでいなさそうに見える。
だからなのか、アセナと同じ状況だというのに酔ってなさそうだ。
「で、どんな感じです?」
ベアトリス女史は指を三本立てて、一つずつ追っていく。
「ん〜……話し合って、重要な情報は三つだな。
1つ。切り裂きジャックは一人ずつ襲っている。
2つ。目撃者が居ないのは、切り裂きジャック側がそうなるよう仕組んでいるからだと思われる」
最後に一本が残ったところで深刻そうな顔をした。
トーンが落ちた声が、音楽の中でもクリアに耳道へ入っていく。
「後は……あ、そうだ」
ところが緊張状態は、思い付きにより一瞬で解き放たれる。
パチクリと開いた目は翡翠とエメラルド程度には別物のようで、ボクを改めて見ると別の場面であると感じられた。
彼女にとっては、それが本題なのかも知れない。
「グリーンはさ、元気だったか?」
「ええ。これ以上ない平穏を享受しておりました」
少し顎を引いた表情は、あまり変化はない。
だが口元は緩み、目は潤む。
確かに微笑んでいたのだ。
「そうかぁ……それは良かった。
後は、そうだな。携帯蓄音機はどんな感じだったよ」
「一応販売前なのですが、まあ良いでしょう。試作機は出来ていましたね。
ただ携帯という割には大きく重く。手軽さがないので、既存の蓄音機を買い直すメリットが少ないのが今後の課題ですかね」
「大ヒットが確信出来ないのがキツイか。
当初の夢そのものは叶えているんだが、そこに至るまでに犠牲にした物の採算が取れないしなあ」
ハアと、娘を心配する母親の様な深い溜息。
けれど顔を上げた時にはキリリとした元のギルド長の顔に戻っていた。
「じゃあ、続きに移るよ」
「ほへ?それだけなのじゃ?」
シャルがポカンと口を開いて、軽く驚く。
彼女はアセナの隣の席に座るエミリー先生の膝の上に座って、豆菓子を食べながら頭を撫でられていた。
深刻な割には普通の質問だったからなのだろう。
でも、ボクの周りにはそういう人が多いから、なんとなく予想が付いていたのである。
それに加えて風俗業界は、引退した後に上手くやれているか不安になる事もあるのだろう。
嬢に感情移入するなど、クラシックな風俗店経営者に言わせたら「甘い」と言われそうな思想であるが、ボクはベアトリス女史の考えの方が好きだった。
其方の方が人間の運営する正しい意味の『サービス業』であると感じられるのだ。
「ん、それだけさ」
エミリー先生と一緒にシャルの頭を撫でて、軽く頬にキスをする。
口に感じる肌はフワフワしていて、女の子の甘い臭いがした。
しかしベアトリス女史の指は一本残っている。
故に話の続きが紡がれる。
「そして最後。
今後、狙われる可能性が高いのは、発見者であるイオリと『娼婦』が二人きりになっている場面と思われるって事さ」
「え、それって……」
「ああ。グリーンとイオリ。
二人が一緒に居る時に狙われる可能性があるという事だね」
融資者と職人という関係から二人きりになる可能性は高いだろう。
ナイトクラブに居る際は、警戒レベルをもう一段階上げた方が良い。
だが一方で、残酷な事であるとも気付く。
だって、切り裂きジャックを誘き寄せる『囮』としても使えるという事なのだから。
出来ればこのカードを使いたくはない。
だが、この捜査は思わぬ展開を迎える。
『切り裂きジャック』が、予想外の行動に出たのである。
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