402 アンピトリテ・レオンハートの物語の終わり
青空の元、萌黄色の芝生で覆われた敷地をドラゴンが歩む。
その中において白煉瓦で組まれた研究所は、ひとつのアクセントになっていた。
面が朝日を反射し、建物の清潔感を際立たせる。
「ほら、此処がリフォームした私達の家だ。大きくなったでしょ」
「あ……う……」
「ふふ、ありがとう」
牧場の上を、ジョナサンを乗せた車椅子が渡る。
芝生に付いた車輪の跡は、新たに敷かれた道そのものであった。
しかし進路は面舵いっぱい。まだ研究所には入らず、裏手に回り込む。
「ほら、お父さんのお帰りだよ」
そこに在ったのは、黒御影石で出来た墓だった。
刻まれた名の苗字は『レオンハート』。
手入れは丁寧で艶がある。
間違いなく、夫婦がかつて喪った娘のものである。
しかし毎日『彼女』の墓と向き合っているピーたんは切ない感傷に浸ろうとしない。
気と声を大きくして、ジョナサンの肩を強く叩く。
「取り敢えず今日は挨拶だけ。
元に戻ったら、毎日の墓洗いを一緒にやって貰うよ」
「あぅ……」
ジョナサンはプルプルと身体を震わす。力の入れ方から、立ち上がろうとしているのが解る。
ピーたんが手伝おうと手を添えようとした瞬間、彼は芝生の上に仰向けに倒れた。
けれども気にすることなく、やややつれた顔を芝生だらけにして這って進む。
どこからそんな力が湧いてくるのか。もはやピーたんは手伝おうとしなかった。
ナメクジの様に捻りくねった不細工な道を背後に作り、墓石に抱き着くと顔を寄せる。石にはいっぱいの涙がついている。
「たらいまぁ……」
感謝、後悔、喜び、達成、哀しみ、愛情……。聞き取り辛い言葉には色々な気持ちが込められて、そのひとつひとつが重い。
許す許さないは彼が決める事。
故に謝罪よりも優先させる『ただいま』は、どんなに姿が変わっても『何時も通り』であろうとしたと思われる。
やっとスタート地点に『戻れた』のだから。
さて、と。
ボク達も膝を曲げて指を組み、墓石に祈りを捧げていた。
なんでだろうなあ。彼女は特に接点の無い他人であるし、彼女としても突然押しかければ困るだろうなあ。
それでも、なんとなくやっておきたい。
人として、やらなければいけない気がするのである。
◆
来るのは三度目となる、研究所の貴賓室。
しかし今回は、壁に古い絵画が飾られている。港を背景とした、家族の絵である。
先ほどピーたんが奥から持ってきたものだ。
聞けばこの貴賓室、昔の家の間取りそのままを残した物らしい。
ジョナサンにとっては懐かしくもトラウマを感じる光景ではないだろうか。
彼の方を見れば、想像を裏切らず気分を悪そうにしていた。
それでも絵画を真っすぐと見て、額縁のガラスに手を添える。
「ジョナサン。おやつだよ」
彼の背中に、ピーたんの声がかけられた。
反射的に振り向くと、机の上にシフォンケーキと紅茶が置かれている。
紅茶はディンブラ。
赤燈の色合いに、少しスモーキーさも感じる甘い香りと、スッとした味わいが特徴的だ。
甘いお菓子によく合うのである。
はじめはシャルとボクでお菓子作りの雑用を手伝って、エミリー先生が紅茶を淹れるという案も出したのだが、全部一人でやりたいとの事。
一人で墓石に這って行ったジョナサンといい、なんだかんだで似たもの夫婦である。
ジョナサンは車椅子を動かそうとするが、ピーたんに先回りされてハンドルを握られた。
くるりと回され、ケーキと向き合う。
「さっき無理したんだから、無理に動かなくていい。少しは私を頼ってくれ」
生クリームのみで飾られたケーキを、小さなフォークで細かく切る。
そしてジョナサンに餌付けするように食べさせた。所謂「あーん」である。
咀嚼はかなりゆったりとしたもので、じんわりと味わっているようだった。
「おいひい……」
「お前の為に百年以上修業したからなあ。そう言って貰わなければ困る」
そう言ってもう一口、更にもう一口。
美味い物には無言になるの法則とでも言おうか。
途中からお茶会特有のワイワイとした雰囲気はなく、しかし味わい深い無言の空間が作られた。
そのズッシリとした趣きは、軽いお喋りよりもちゃんとした「コミュニケーション」になっていたのだった。
そして数分後。
ボク達皆はケーキを食べ終えていた。
ケーキの後に紅茶を飲んだので舌はスッキリ。量もこれくらいで丁度いいと感じられる。
なのに、もっと後味があっても良いじゃないかと思える不思議な気持ちだった。
けれど物語の終わりとはそんな物なのだろう。
また食べたくなったのなら今度来れば良い。それが人の縁という物だ。
「これからどうするんだい?」
「この人の寝室を復活させて、街の墓場にある彼の上司のお墓参りにも行こうと思う。
今回アダマスの関わった『私の物語』は此処で終わりかも知れないが、まだまだやる事は残っているんだ。お前だって、領主代理としてこの地でやる事はいっぱいある」
言ってピーたんは、スチャリとぐるぐる眼鏡をかけた。
ジィと見ているジョナサンにチョップを一筋。
「うるさいな、お前がこの眼鏡をかけた方が良いって言ったんだろ。
言っとくけど、周りにはこのキャラで通しているからカルチャーギャップに覚悟しなよ」
ジョナサンは幸せそうに苦笑い。
そんな当たり前の、夫婦の朝だった。