296 おかあさんといっしょ
大真珠湖。船着き場にて。
ハート形のショルダーバックを抱えたシャルは上を見上げていた。その感情は驚きと好奇心。恐れの様なものはまるでなし。
まるで大きさを測るかのように、小さな四肢を広げる。
「おっきな船なのじゃ!」
仰る通りです妹様。
彼女の視線の向こうには大きな船が浮かんでいた。
特徴的なのは両脇に付いている水車型の外輪で、これを蒸気機関で回す事によって推力を得る。
蒸気船の中では原始的な推進機関であるが、底が浅い河川ではスクリューより便利だ。
外洋ではなく内陸水路を渡る物なので正確には蒸気ボートなのだが、シャルは船だと言っているので、そう呼ぶことにする。ボクがそう判断した。
領都ラッキーダストと旧都オリオンを繋ぐ定期船だ。
機械特有の安定した速度によって出来る時刻表に沿った運航によって、港と都市を行き来する商人の道として重宝される。
後は、今日のボクらみたく海に行ってみたいという観光客が乗ったりするね。一時間もしない内に到着するし。
「そういえばシャルちゃんは船に乗るの、はじめてだったわね」
「うむなのじゃ、お義母様」
シャルに声を掛けたのは母上……テアノ・フォン・ラッキーダストだ。
この人は侯爵夫人という立場だけあって、流行を作る立場にありドレスや髪型が、エミリー先生のドレスのデザインに負けず劣らず多様である。
今日は緑のドレスを着ていて、髪のお団子は頭の下の方に作られている。日差しが強くなったら帽子でも被るつもりなのだろうか。
何故居るのかといえば緋サソリ事件の時に激昂する母上からエミリー先生を庇った時、確かに『今度、一緒にどこか遊びにでも』とボクは言った。
想像以上に楽しみにしていたそうで、旅行鞄に入れるものも既に決まっていたらしく準備は比較的早かった。
侯爵夫人という立場なので準備したのはメイドさん達だが。
そして此処に母上が居る事は、旅行が楽しい以外にもメリットがあった。
「さて、久々にアダマスと一緒にお仕事ね。腕が鳴るわあ」
「態々このような雑事にありがとうございます」
「あらあら、そんな畏まらなくても良いじゃない。親子でしょう?」
「これもまた教育と父上に教わっているので」
「全く、ゴートはロクな事しないわね」
母上は珍しくハイテンションだった。普段の硬い仕事から離れた影響で色々な枷が外れたが故と思われる。
今回の彼女の表向きの出張理由は『領主代理補佐』だ。普段から領主秘書をしているので、能力的には何の問題もない。
普段はハンナさん任せにしている仕事を肩代わりしている訳で、逆に今日のハンナさんはその穴埋めで父上の秘書として、領主の館で留守番をしている。
しかしその分、無防備なところも見える。すると母上は口角を吊り上げてズイと顔を近づけてきた。
「あらその眼、『贅沢三昧で世間知らずな侯爵夫人が召使も付けないで大丈夫かよ』って思っているわね」
「そこまでは思っていませんが、ニュアンスはそんな感じです。読心術も無しによく解りましたね」
「学園都市からゴートに振り回され続けていればこれ位はね。
まあ、大丈夫よ。学園都市は大体の事を自分でやる必要があるからそこまで何でも出来ない訳じゃないし、『使用人の代わり』だって連れてきている」
彼女は顎をしゃくると、向こう側に居る二つの人影から声が張り上げられた。
今まではハンナさんという超人が万能に仕事をしていたが、今回はそのポジションに母上が居るので埋め合わせが必要なのだ。
「アセナ!エミリー!しっかりやるのよ」
「「はっ!」」
その正体はいつもの二人だった。
この二人は声が重なる事自体が珍しくないので、重なっていても分かり易い。人数の少なさから完全な分業には出来ないが、世話役にエミリー先生、護衛としてアセナといったところ。
エミリー先生の服装は液体金属の形を変えた、スタンダードに見えて胸元が開かれていたり微妙に邪道系な黒いメイド服。
アセナは秘密警察としてワイシャツにベストという男装然とした恰好である。
緋サソリ戦の時はスラックスだったが、今日はタイトスカートで下にパンストといった装い。尻尾はスカートの後ろに入った切れ目に入れてボタンとベルトで留めるタイプだ。
ハンナさんに「タイトスカートでも良いかもな」と、あの日何となく思っていた事を呟いたら即座に変更されたのである。流石ハンナさんやでぇ。
ちょっとバーテンダーっぽくも見えたが、きっとアセナの事なので普通に特技として修得してる筈。
今回はお忍びじゃなくて、領主代行としての仕事だから服装も変わるのである。なので、ボクとシャルも貴族用の正式な服だった。
ドレスのシャルが外に居るとか珍しいかも。
因みにエミリー先生としてはデートを母上に仕切られて不満ではないかと思いきや「アダマス君がオリオンに行く理由なんてそれ位だし、予想範囲かな」らしい。
そして「それに奥様の世話をするという事は、君の世話をするという事でもある。お着替えとかい~っぱいしてあげるからねえ。ウヘヘヘヘ~」と、ワキワキ両手の指を動かしながら涎を垂らしていた。
先生が幸せそうで何よりです。
「さて、と。母上とシャルは此方をどうぞ」
ボクは両手に三本持っていたアイスクリームをそれぞれに渡す。形はコーンに乗った白くて丸い物で、味はバニラ。
「あら、気が効くわね」
「折角の家族旅行ですから」
「うふふ、やっぱ貴方はタラシねえ」
母上は、そのボクに似た顔で妖艶に微笑みながらアイスをぺろりと舐めた。
「それにしても冷蔵庫なんてないのに屋台で作れるものなのね」
「ああ、これは昔からある技術……というか、庶民の知恵でして……」
大真珠湖はデートスポットという事で、こういったお菓子を売る屋台が多々見られる。
構造としては冷蔵能力のある小さな空間に予め作っておいたアイスクリームを入れている物だ。
バケツ程度の小さな空間なので機械式の冷蔵庫にする必要もなく、ちゃんとした断熱材を使えば氷室の原理で溶かさず保存が可能なのである。
そんな他愛もない会話をしていたら、船に乗る時間になっていた。
因みにアセナとエミリー先生の手にもアイスは握られていた。そもそも買いに行ったのはあの二人となのだから。