291 15時半のボート遊び
新章開始です
どんぶらこ、どんぶらこ。
庭園内の太い水路には、一隻のボートが浮かんでいた。
白く塗装されているが素材は木製。屋根もない二人乗りの小さい物だ。頑張れば成人四人はいけるが、それでも小さな事には変わりなし。
ウチの観光客が大真珠湖で遊ぶ際によく使われるタイプである。
乗っているのは三人。
はじめの二人は胡坐を掻いて座るボク。
そして胡坐の中央に可愛らしくスッポリと収まった状態で、チョコンと座る妹のシャル。
彼女は最近貰ったスケッチブックとクレヨンを使い、ボートに乗るボク達三人をゴリゴリと描いていた。
11歳の年相応といった感じの温かい絵柄で、大人には描けない独特の良さがあった。描かれている皆が笑顔という事は、きっと楽しんでいるのだろう。
この水路はゲストの方々に景観を楽しんで貰えるよう、出来るだけ自然物に溶け込む工夫をしており、ちゃんと背景も緑豊かに描かれている。
そして最後の一人は、ボクの向かいで膝を崩した横座りをしているエミリー先生だ。
彼女はボクを、両頬に両手を当ててネットリとした視線で眺めていた。
率先して漕ぎ手をやりたいと言ったのはこういう狙いだったか。
彼女は一度精神が病んで以来、母性と性欲が入り混じる難儀な性格になってしまったので、ボク達みたいな子供同士の絡みは『大好物』なのだと思われる。
ちょっとヨダレ垂れているし。
まあ良いんだけどね。そういうのも彼女の良い所ではあるし、婚約者だし、それで楽しいなら好きなだけ見て下さいな。
けれども興奮を続けるのは一呼吸が必要といったところか。
ふと彼女は、青いが涼しい午後の空を仰いだ。
「ふう……。なんか今日は良い日過ぎてこんなに幸せで良いのかなって思えるね」
「エミリー先生は幾ら幸せになっても良いですよ。それに、教師としての仕事とシャルの様子を見るので結構忙しかったのでは」
さて、おさらい。
父上は領主館の別館で修業場という貴族育成学校を経営している訳だが、たまにシャルが他の貴族の子供に馴染む為、不定期で通学をしている。
その際、シャルが上手くやれているか見る為にエミリー先生が臨時教師をするのだ。
前々からたまに臨時で入っていたので違和感がないのと、ボクという大失敗した前例があるので父上の立場ではこれが丁度いい塩梅なのである。
今日のデートは、その放課後に誘ったという訳だ。
ただし修業場での仕事は、エミリー先生に『趣味の範疇ではない仕事』が増える事も意味していた。
けれども彼女は百合の咲くような微笑を浮かべる。身体を伸ばす。
「そうでもないなぁ。結構のんびりしたものさ。
正規の職員って訳でもないから纏める書類は少ないし、行先が決まっているなら会議も苦ではないしね。錬金術士ギルドと違ってね」
笑顔のままに錬金術士ギルドと修業場での会議を比べ、毒づいた。
実は彼女は、最新技術故に数少ない『錬気術の権威』としてギルドの会議に出席する事が多々ある。
思い出してみればボクも一度、其処へ『社会見学』をさせて貰った事があった。
保守的過ぎるものから骨董無稽なものなどの様々な意見が飛び交い、予算の取り合いで中々決着が付かなかったのを覚えている。
確かに彼女に同意出来る案件だ。
尚、エミリー先生は天才なので、虫型ロボで周りに悟られないようお喋りしながら誰よりも優れた改善案を出したもよう。
具体的には、ギルドに出席するような年寄りには聞こえない周波数であるモスキート音をロボットから発したり、液体金属の衣装を叩いてモールス信号を伝えたり等である。
「それにシャルちゃん良い子だし、みんなと物凄い馴染んでいてクラスの人気者って感じで私が面倒を見る事はないってのもあるしねえ」
シャルは気恥ずかしそうに、えへへと頭をにやけさせていた。
確かに楽しそうだ。でもなんだろう、少しモヤモヤする。
「そうなんですか。本当は先生の目に見えないところで色々な悩み事があるとか」
「あっはっは。アダマス君は修業場に良い思い出ないだろうからねえ。でも大丈夫さ、ちょっとシャルちゃん。確か、修業場でもお絵描きしていたよね。
だからアダマス君にソレを見せても良いかな。普段の君を見せたいんだ」
「むむっ。大丈夫ですじゃ」
そう言ってシャルは身体を回し、ボクと向き合う形になってスケッチブックを渡した。
ちょっとだけ人に絵を見せるのは恥ずかしいらしく、照れの感情も見える。先ほどまで絵を描く様子を見せていたのだが、それとこれとは別という事なのだろう。
「さあお兄様、ありのままの妾を見て欲しいのじゃ!」
「あっはっは、誤解されそうな台詞だあ」
「エミリー先生、そうですかの。妾は何時でもオーケーなのじゃ!」
両手を広げて顔を迫らせてくる。
ボクも別に良いっちゃ良いんだけど、後でね。片手で頭を撫でつつ、スケッチブックが互いに見えるように少し屈めた。
シャルが紙をめくって前のページに行くと、笑顔の彼女が真ん中に居て、その両脇には色々な生徒達が描かれている。
しかも漠然と『みんな』として捉えているのではなく、それぞれを特定出来る程度の個性が描かれていた。表情も様々だ。
シャルは指差しでそれぞれを紹介していく。
「パッツン髪のこやつはマーガレット。一番最初に友達になってくれた子で、色々な遊びを教えてくれるのじゃ。変人の部類じゃが、意外と恋愛に敏感だったりするのじゃ。
制服を羽織っているツンツンした黒髪のこやつはガンマ。威張ってばかりで偉そうなところがあるが、なんだかんだで面倒見がいいので友達が多い。
んで、ガンマの後ろに居る太いのがその友達の一人である……」
流石の記憶力だった。ウルゾンJのマニュアルを一発で暗記しただけある。活き活きとした表情の彼女は、恐らく全ての顔と名前と人柄を覚えているのだろう。
だがボクとして重要なのは、描かれている全員の表情は様々であれどシャルに悪意を持っていないと読み取れる事だ。
絵は気持ちを表すと言われているが、この絵を見ていると楽しくやっているのが分かる。全員が笑顔で無いのは、寧ろ『笑う』時は同じ顔でないという観察眼の表れだろう。
満面の笑みもあれば、ニヒルに笑っているのもある。
どうやら本当に大丈夫らしい。
その筈なのに、自分の中にはよく解らないモヤモヤした気持ちが残っていたのだった。