233 死んでも伝えたかった事
感覚らしい感覚がない。
虚無。
辺り一面は漆黒の闇とも見えれば薄ぼんやりとした真っ白な霧にも見える。フワフワと上下の区別がつかず浮いているのは、まるで宇宙に立っているかの様だった。
しかしこの状態が苦ではないのは、霧の如くぼんやりと考えるしか出来ないからだ。
つまり、これは夢なのだ。
視界に何かを入れている気もするのが、単に脳内の情報の整理に過ぎない。
夢の中でなら、ありえない事象に陥る事も、ありえない人と対面する事は珍しい事では無い。ピンクの象さんが二本足で大暴れしていたり。父上が巨大化したり。
そして、『自分自身』と対面したりもする。
ボクの目の前にはフワリと浮かぶ男の姿があった。年齢は二十中盤といったところ。
彼はボクと同じようにウェーブがかった金髪を揺らして腕を組む。
肩の力は抜けているが、ピリリとした凶暴さは抜けていない。臨戦態勢が標準の状態として染み付いているその姿は、理想的な戦士の姿であり平穏にとっての異物である。
顔だけなら、ボクが大人になったらこんな感じなのだろうかといった雰囲気がぼんやりとあった。
しかしその面には傷が刻まれ、なによりも目付きが違い過ぎる。
異質な目だ。
半ば笑っているそれは一瞬だけ父上を想起させるが、だからこそ所々の違和感を覚えて、父上の様な人はこんな風に笑わないと違うと断言出来た。
それもその筈で、あんな笑い方を出来るのは古今東西を探しても父上ただ一人だ。色々な感情が混ざり過ぎて、どう真似しても違和感がある。
ボクは彼に対し言葉をかけた。そして彼もボクに言葉を返す。この『ボク』は、ボクだけどボクじゃない。
「やあ、『ボク』」
「よお、『俺』」
そして、勇者アダムでもない。
『転生症』とは確かに嘗て生きた人間の知識を脳にインプットするが、決して本人になれる訳じゃない。
哲学的な回答をするなら、ボクは勇者アダムの考える事について理解は出来るが共感はしていない。もしも同じ立場で同じ武力を持っていたとしても、大剣一本持って特攻なんて絶対にやらないだろう。
『ボク』とは世界に二つと存在できない魔力に残った、記憶の残滓から作られたものに過ぎない存在だ。
脳が記憶の整理をする際に『異物』を自身の記憶として処理してしまうが為に、塑像力豊かな子供の脳が、無意識領域内に「この記憶の主はこのような感じではないだろうか」と想像で構築した『キャラクター』なのだ。
つまり知識だけある状態で、勇者アダムとしての実績なんてない。
それどころか人の記憶とは時に間違え、薄れゆくものなのだから本来の知識の持ち主である『勇者アダム』と似ているかですら怪しい。
遥かに年上で、しかも偉人の本当の顔付きや性格なんてボクが知るものか。所詮はボクの認識内で作られた架空の人物像だ。
記憶上のアダムもそういう自分に関するところは無頓着だったし。ハンナさんが尻ぬぐいしてくれたから良いものの、領主なら自分が死んだ後の事くらい考えろよ。このチンピラめ。
しかし、それ故に夢の中でこそ深く繋がり、まるで自分自身が嘗て夢の中の事象を行ったものだと勘違いする程、鮮明に表れる。
それこそ、転生症によって構築された人格が本物の自分なのだと、過去の患者達が勘違いする程に。
そして他の事例らしいが、症状を受け入れた人間の殆どは大人の脳になるにつれて『前世の記憶』を『本で読んだかのような只の知識』として吸収していく。
だからこうして『ボク』と会う事も、段々なくなっていくのかも知れない。まるで夢から覚めるかのように。
これが『転生』の正体だ。
魔力を魂と呼ぶのなら転生と呼べるのかも知れないがね。
例えばボク達のDNAは『三重』らせん構造になっていて、その内の一本が魔力を司る配列になっているのが学園都市の研究で明らかになっている。
胎児のDNAの魔力を司る塩基配列へ死者の魔力波長が何らかの形で吸収される事で知識を得るとの事。
しかも厄介な事に『生物の本体は遺伝子である』。と、考える人なら本当に同一人物であると考える場合もある。
こういった学者間による哲学的な認識の違いが転生症を中々『病気』として認められない難しさがあった。
打ち上げの後に読ませて貰ったエミリー先生の論文には、そのように書いてあった。
「あんな事件の後なのだからさっさと寝ろ」と、アセナや母上は言ってきたが、ボクの『前世』が切っ掛けとも言える故にどうしても気になったのだ。
それに、その場には論文を書いた本人が居た事もあって非常に解り易く、理解には寝る前の半時間も掛からなかった。
尚、脳が関わるので実験など邪推もしてしまったが彼女は気にしない様子で、義眼で長期的に脳波を取り、分析して答えを導いた事を語ってくれた。
只、論文発表以前に転生症を『知っている』者達の事情までは考慮していないとの事。
と、まあ。そんな訳で自問自答タイムに移ろうか。
思っていた事を、ひとつ。
「そろそろ、こういう場を設けてくる頃だとは思っていたよ」
「ほほお。どうしてまた。もしかしたら、記憶の再構築によって人二つの人格が偶々すれ違っただけかも知れないぞ」
何かを企んでいるかのように『ボク』はニヤニヤ笑っていた。これは、シャルと初めて会った時の父上の笑い方だな。
今度は違和感がない。あれは心の底からの笑いだったのだから、普通の人間でもする笑いなのだろう。とはいえ、これは単なるモーションのコピーだから別に何も企んではいないのだけど。
「誰かに夢の内容を案内されている様な気がしてね。
宰相には『こいつが宰相だ』ってピンときたけど、ハンナさんや魔王アンタレスに対してはそうでもなかった。
『ボク』は夢の内容を意図的に操作していたんだ。ボクが夢を見てどう感じるかを、コントロールする為にね」
無意識である夢の記憶は『ボク』の領域だ。だから夢の内容を操作出来るし、こうして会う事も出来る。
『勇者の最期』まで見せたという事は、これを通してちっぽけな脳の一部でしかない『ボク』は何かを訴えたかったという事になる。
『ボク』はカラカラ笑う。
「ガキの癖に小癪なもんだ」
「君だって同じ年齢だろ。思考のベクトルが違うだけだ」
だから『ボク』はフッと深く笑って一拍子付く。
「ああそうだ。確かにそうだ。じゃあ、言いたいことをわせて貰おうか」
誰もが人生に一度くらいはする表情だった。
自分自身の気持ちに決着を付けた事で、心の重しを下ろすことが出来た。まるで、寝る前に見たウィリアム氏のような表情だ。
「俺はハンナが好きだ。守ってやりたいんだ。
だから……だからハンナを幸せにしてやってくれ!強くならなくても良いけど、世界の誰よりもハンナを大切にしてくれ。
……それだけだ」
すると握手の為に手を差し伸べられる。
握り返す。
体温は感じないが、下腹の辺りから熱く込み上げて来る気持ちがあった。『ボク』も同じように感じているに違いない。
そうして出来上がった『ボク』の表情は安心でもあり、哀しみでもある。不思議とこの表情は見た事がない。野暮な事を言うのなら、脳の一部が「『ボク』ならこういう表情をするだろう」と作り出した仮初の表情なのかも知れない。
敢えて言うなら、あらゆる無念から解放された『ボク』自身の表情か。
「ああ、大丈夫さ。大切にするとも。ボクもハンナさんが大好きなのだからね。
ありがとう……やっぱり君は、どんな形になっても伝説の勇者だ」
「ヘッ……そうかい」
解り切った答えを聞いた『ボク』は、また深く。そして小さく笑った。
何れ只の知識として吸収される。『ボク』がボクとこうして会えるのも、もう、そう長くない。少なくとも『ボク』の見た目通りの体感時間だったら、あっという間だろう。
そんな事をなんとなく思った。