174 ハンナ・フォン・アンタレス
正確にはחנה(恩威、恵み)
画面の向こうで宰相が両膝を付いている間に『ボク』はUFOからの出陣の準備を完了させていた。装備とはいうものの簡単な物でしかないが。
左手には鋼鉄の小手。一応、肩当てまで延びてはいるがそこまでの防御力は見込めそうにない。
右手は革手袋の甲に鋼板を当てただけの物といった佇まい。
それ以外の防具は革鎧すら特にないという、これでもかという程に軽装を突き詰めた装備だった。戦士と呼ぶよりは狩人や盗賊といった方がしっくりくる。
それなのに背中の大剣は、速度を殺して威力を重視する重騎士のそれで、とてもアンバランスだった。
だが、この装備こそ『ボク』が『先読みの勇者』である事の証明でもある。
戦闘に全振りした読心術を使った回避術を活かす為に余分な装甲は省く。そして強力な魔物が出てきても独りで、しかお出来れば一撃で仕留められる為の大剣なのだ。
『ボク』は腕を握っては開き、装備の感触を確かめて具合を最終確認する。
準備を手伝いつつも『賢者の石』がそっと囁いた。
「ご主人様。今回は人間が相手なのですから、大剣である必要はないのでは?」
「ん、まあそうなんだけどな。折角最期の馬鹿騒ぎなんだ。何時も一緒に戦ってきたコイツを使ってやらないと、なんか勿体ない気がしてきてな。
此処で使ってやらないと、コイツは時代に取り残されちまう。まるで俺のようにな……」
ニカッと笑い、鞘の留め具を引っ張ってみせた。
そして、ついでとばかりに『賢者の石』の頭をそっと撫でた。
「だからこそ、お前は俺みたくなるんじゃないぞ」
そう言い残し、『ボク』は踵を返して階段を上ろうとする。行先は神殿の出入口……つまりUFOの真上だ。これから城へ単身乗り込む。
その直後の事だ。
『ボク』は背中から強く抱き着かれた。
「ご主人様っ!」
音が当たる。余りにも予想外過ぎてビクリと肩が跳ねてしまう。
骨まで響くそれは、初めて聞いた彼女の大声だった。
「せめて私に、私に名前を下さい!」
「ん。『後で』って言ったじゃん。ゆっくり待ってりゃあげるから、そこにど~んと座ってておくれ。そこなら安全だからさ」
「いえ、待てません。今、此処で付けて頂きます!貴方が『帰って来なくても』大丈夫なように」
ああ、バレていたか。『ボク』は帰ってくるつもりなんか無かった事に。
しかし『ボク』は後悔の色を少しも出さずに、ヤレヤレと彼女に振り向かずに溜息を落とした。そして階段の向こうの闇へ向かって語り掛ける。
「俺はこの国から『ラッキーダスト』という名を貰った。クソ貴族に「ラッキーだったな」と言われて終わる小さな幸運の屑も、集まれば『奇跡』となる。
チンピラに過ぎなかった俺が今此処に居るのは、正に奇跡の産物だ。良い名前だろう?
名前ってのはさ、個人を識別する記号であると同時にどうあって欲しいか。周りにはどう見えているかを表す物だと思っている」
『賢者の石』は只じっと、背中を見つめていた。
「俺は、国に反逆した大罪人だ。この国の歴史に勇者アダムなんていう名を残しちゃいけねえ。
ましてや、何の罪もない娘さんに名前なんて与えて人の世に後腐れを『楔』として存在し続けるなんてあっちゃいけねえんだ」
そう言って『ボク』は、流石に分かっただろうと苦笑いをしながら振り返る。
しかしそこにあったのは、未だ決意が色あせない若葉色の瞳があった。
「いいえ。それは人間の世界が決めた理屈です。
人の理屈で縛られない私くらいは貴方の『心』をずっと覚えていても良いではありませんか。私は、海底都市の魔王を継ぐ者なのですから」
自身の服をギュっと握っていた。多くの感情が溢れているのが分かる。
「誰にも知られず消えていくなんて、余りにも悲しすぎるじゃないですか……。
勇者と魔王。言葉では表せないどちらの真実も、名前としていっそ私に打ち込んで下さい。決して悪用はさせません!
これは私という一人の『人間』の願いなのです!」
聞いてボクは一瞬ポカンとする。
そして一拍の沈黙の後、再びニカリと笑って、彼女の頭を撫でた。
「そうか、ありがとうなあ。じゃあ、そうさな……『ハンナ』なんてどうだろうね」
「豊穣、ですか」
「ああ。お前の名前は今日から【ハンナ・アンタレス】。もしかしたら俺の代わりに領主になるかも知れんから貴族位を貰って【ハンナ・フォン・アンタレス】になるかもだけど。
俺の心に、そして俺たちの地に豊穣を与えてくれた女神様って意味さ。
……ありがとな」
『ボク』は下手糞なウインクをして、賢者の石改めハンナさんを見た。目を潤ませて此方を見ている。
そんな唇にそっと己の唇を合わせると、『ボク』は真剣な顔で向き合った。
「ひとつ約束してくれ、人間のハンナよ。
この先、お前はとてもとても長い人生を生きるだろう。なんせ寿命のない賢者の石だからな。
だが、俺に囚われるな。俺は決してお前を幸せに出来ない……幸せになるんだ!」
少し唖然とした表情になっていた。
こんな超巨大UFOを一人で操縦する超頭脳でもこういう反応をするんだ……。もしかしたら、だからこそなのかも知れないけど。
全ては理で動いてはいないのだから。
それでもハンナさんは顔を勢いよく上げて、真鍮色の長い髪を靡かせて声を張り上げたのである。
「ハイッ!」
その表情は朝日のように明るくて、希望に満ち溢れた物だった。確認した『ボク』は満足して階段を昇る。
「じゃあ、行ってくるよ。元気でな」
「はい。行ってらっしゃいませ」
「またね」とは言わない。
上に続く無機質に白い階段は、天への階段にも見える一方で、絞首台の階段にも見える。
「……良い旅を」
背中を見送るハンナさんはそう呟いて、一滴の涙を落とす。
研ぎ澄まされたボクの『読心術』は背中を向いていてもそれを知る事が出来たが、振り向く事は無かった。
理屈じゃないけど、ボクはこの時の彼女の雰囲気の変化で理解した。
この時この瞬間から、彼女は『賢者の石』からボクの知るハンナさんと同一人物になったという事を。
確かに種族は人間でないかも知れない。人によっては生き物と判断しないかも知れないだろう。宰相やウィリアム氏の様に効力のみに目を当てて『物』と考える人だって居る。
それでもボクはハンナさんを人間と扱い続けよう。
ちょっと不謹慎だけど、寧ろ彼女の事を知れて良かったなあと感じた。昔からハンナさんは素敵な人だったんだ。それ以外は特に変わる想いは無かったよ。