120 ボクと『ボク』
青空と広葉樹の海。
森林浴を味わうならば最適の環境なのだろうが、生憎と感覚が無い。
まるで一人称視点の映画を見ているようなこの気持ちに対して、ボクが「ああ、夢なんだな」と思い至るまでにそう時間はかからなかった。
しかし同時に妙なもので、空気の味や肌に触る草など。この時の『ボク』がどの様な感覚を肌で味わっていたかをボクは『覚えている』のだ。
それ故に、普通の夢以上にリアルな物である。
『ボク』は原生林の中を、使い古した革の靴で、熊の様にのしのしと歩く。
見回せば乱雑に、それ故に自由にねじ曲がって材木としては失格な広葉樹。幹には蔓植物が絡みついて上を目指す。
根の隙間に生える草は、足の踏み場も見えないほど生い茂る。目に見えるものは身長よりも背が高く、強く育った物が目立っていた。
そんな植物を乱暴に踏み慣らして獣道のような物を作りながら、『ボク』は一つの感動を味わう。
なんとなく言葉が漏れた。
「此処かい。
確かに【アンタレス】の言った通り、本当に神殿があったな」
『ボク』の目の前に見えるのは、遺跡などでたまに見かける様式の大分古い白亜の神殿だった。
規則正しく、幾重にも建てられた太い石柱が美しく、波をモチーフにした屋根の造形は、これといった芸術知識がなくてもつい見続けていたくなる。
しかし妙なことがひとつ。
この神殿、森のど真ん中にあるというのにまるで劣化の跡が無いのだ。それどころか蔓一本絡まっていない。
それの意味するところは一つである。
誰かが手入れをしているのだ。
こんな獣道すらない、未開拓地の古びた神殿を。である。
ぼんやりそう思っていると、どことなく女の声がした。
どちらかと言えば若く感じる、しかし落ち着いた声が直接脳内へ響いてくる。
優しく歌うように。
「お客様とは珍しい。
うふふ……このような辺境に如何御用でしょうか」
その人影は、突如として世界の歪みの向こう側からやって来た。
目の前の景色が『弛んだ』のだ。まるで水溜りに雫を落としたかのように。
波紋を描いた空間は水の質感のまま渦巻く。
すると中心から白い肌の人間の物と思われる手がゆっくりと二本伸びて、それぞれが次元の縁を『掴んで』中央を丸く広げる。
この時、腕が二本で良かったと思っているのは『ボク』だけではない筈。
次元干渉……。
海底に住まう魔物の様な桁外れの存在しか使わない、超高位の魔術だ。
しかも、たまに地上へ打ち上げられる海底でも浅瀬の魔物は、人間一人分の大きさの次元へ干渉するような強力な魔術は使えない。
つまり、この宙に空いた穴の向こう側に居る『ナニカ』は我々人間にとってとてつもなく危険な存在という事だ。
なので普段の『ボク』なら『職業』の都合上、背中の両手剣を引き抜いて出て来る前に叩き切っているところだが、そうしないのは、この場所を教えた友人との約束だから。
信じているぞ……アンタレス。
次元の穴が開き切ると、勢いよく中に居た何かは飛び出した。
それは予想通りというか意外というか、人間の姿だった。
空間に開いた次元が元通りになるにつれて段々明らかになる顔は、ダークブラウンの長い髪とレタスグリーンの優しい眼。
スッと通った鼻は二十代後半にも見えるし、睫毛が長くて大きい眼は十代中盤にも見える不思議な容姿をしていた。
白くきめ細かい肌を持つ身体は華奢で、しかし服は着ていない。故に上半身の豊かで形の良い女性の証が惜しげもなく見えていた。
そんな女が、宙でフワフワと脚を組むような形で浮いていたのだ。
美人だ。
少なくとも『ボク』が出会った女の中では一番の美人だ。こんな訳の分からない状況なのにも関わらず感心で溜息が出るのは男の性というものか。
だが、劣情は湧かなかった。
それは『ボク』の職業が魔物専門の殺し屋だから油断できないだとか、『下半身が人間のものじゃない』だからとか、そういう理由ではない。
人の要り込まない森に囲まれて、未知の白い神殿を背後に浮かぶ彼女が、余りにも神聖過ぎたから。
神という物を信じた事は無いが、聖女というものが存在するなら彼女のような姿をしているのだろう。だからつい、思いもよらない事を呟いてしまった。
その感動は神殿をはじめて見た時の比ではない。
「精霊……」
その一言を耳で拾った彼女は、『脚』を前に出して身を捻らして、スイと『ボク』の周りの空間を一周『泳ぐ』と、こつんと額同士をくっつけた。
良い臭いが漂っていたのを覚えている。
「あらあら。流石にそこまで高尚なものに例えられると照れてしまいますわ。
私の正体は、この下半身を見れば分るでしょう」
「ああ、なんか言ってしまっただけさ。許せ。
それにしても、本当に『人魚』って居たんだな。しかも泳ぐのは海中ではなく空中ときた。
それもなんか次元干渉かなんかなのかい?ドラゴンや巨鳥が飛ぶ時のように衝撃波や風力が生じている訳でも無さそうだし」
日光に反射する、マリンブルーの鱗に包まれた尾ひれを見上げながら言う。
しかし彼女はクスリと微笑むとヒレを揺らめかせて、また優雅に宙を泳いでみせた。
「出来なくもありませんが、これはそんな高尚なものではありませんかね。何だかんだで疲れますから。
これは脳内で超ひも理論を計算し続け、周囲の分子の斥力を強化して共鳴した波に乗る、単なる『強化魔術』ですわ。同様の演算が出来れば人間でも出来ます」
「……ふぅん?」
この時の『ボク』はよく分からないような感じだが、つまり無理だというのが今の科学の発達した世界のボクなら解る。
それって「常に宇宙を脳内で創造し続けろ」って事だから頭パンクしちゃうよ。
一応、蒸気機関で動く『電卓』っていう計算装置がなくもないけど、それを使っても無理だからね。
『ボク』は眉をしかめたまま、首をコキコキと鳴らした。
「まあ、俺はバカだし後でゆっくり考えるよ」
「あら釣れない」
「すまんな。さて、まだ名乗りがまだだったな。俺は【アダム】。姓はまだ無い。一応まあまあの成果を上げたから、これから国に貰いに行く途中でな。
お前さんは何て名前なんだい」
彼女は少し困ったような顔をして手をヒラヒラさせた。
すると、手が半分透けた。驚くが、直ぐに納得する。
「へえ、魔力の物質化現象か。
高密度の魔力は『世界の記憶』から嘗て存在した『誰か、もしくは何か』の記憶を読み込んで物体化するという……。人魚以上にレアな現象だ」
「はい。なので、実は私って正確には人魚ではなく、高エネルギー体を核とした思念体みたいなものでして。名前らしい名前は無いんですよね。
嘗て、こういう姿をした人魚が居るというのは分かるのですが」
「なるほどなぁ。そりゃ、ますます精霊っぽい。
まあ、取り敢えずあれだ。生物とか非生物とか関係ないから、アンタレスからなんて呼ばれていたかだけ教えてくれ。それから考えよう」
彼女は少し驚くと、眼を弓にして桃色の唇を微笑ませた。
無邪気に、そして楽しそうにひとつ咳払い。
「コホン。それでは……。【賢者の石】と、申します」
◆
そこでボクは目が覚めた。
やけにリアルな夢だった。こういった物を見る度に、自分が自分じゃない気分になる。
取り敢えずボクが【アダマス・フォン・ラッキーダスト】である証を探して周りを見回すと、思ったより近くに見つける事が出来た。
ボクの直ぐ隣だ。
「おはよう、シャル」
何時もの様に布団に忍び込んだ愛しき我が妹が、ボクを抱き枕にしてすやすやと可愛らしい寝息を立てていたのだった。