第64話 不安と信頼
「あぁ~、いい湯だった」
風呂から上がり上機嫌な俺。
こうやって屋敷の廊下を歩いていると、日本の温泉旅館に泊まった時を思い出す。
大浴場から宿泊室へ戻る時と、今の気分がとても似ている。
これでフルーツ牛乳でもあれば最高なのに。
実は以前、屋敷のシェフに作らせた事があった。
果物のフレッシュジュースは上手に作る人なのに、日本の温泉の自動販売機で売っているあの味は再現できなかった。
難しいレシピではないはずなのだが。これも異世界の壁というモノだろうか。
そんな事を考えながら、ふと窓の外を見る。
昼間は黒い雲が立ち込め小雨が降っていたが、いつの間にか雲はどこかへ去って行き、月が姿を現している。
明日は晴れそうだ。
「ただいま」
そう言いながら俺は自室の扉を開ける。
普通は自分の部屋に入る度にそんなこと言わないのだが、風呂上りの時だけはそう言いたくなる。
前世から染み付いた習慣なのだろうか。
「主さん、お帰りなさい」
シェリーが出迎えてくれる。
部屋の奥ではエセルがベッドメーキングをしている。
「今日の分の仕事、終わったよ」
シェリーが笑顔で報告する。
もしかして、そのために待っていてくれていたのだろうか。なんだか悪いな。
「お疲れ様。ありがとう」
俺はシェリーに感謝する。
シェリーが来てくれてから本当に仕事が楽になった。
「どういたしまして。それでは、おやすみなさい」
「おやすみ」
シェリーはお辞儀して軽やかな足取りで退室する。
室内には俺とエセル、二人きりになる。
「リック様、申し訳ございません」
突然、エセルが頭を下げて謝りだす。
「どうしたエセル?」
何かあったのだろうか。
シェリーと喧嘩でもしたのだろうか?いや、シェリーの様子だと、そんな事は無さそうだが。
「シェリーさんとお喋りをしていて、準備がまだ終わっていません」
なるほど、そういう事か。
いつもシェリーは俺が風呂から戻ってくる前に就寝の準備を済ませている。
「気にしないでくれ。俺はいつも快適に寝られるようにしてくれているエセルに感謝している」
前世日本人だった頃は、就寝の準備は全部自分でしていた。仕事で疲れ果て、着替えも消灯もせず寝落ちしてしまい満足な睡眠を得られない時もあった。
肉体そのものが違うが、前世と比べるとリックである今の方が朝起きた時の気分は爽快だ。
それはエセルのおかげだと思っている。
「ありがとうございます。そう言って頂けると嬉しいです」
エセルは深々と頭を下げる。
俺とエセルとの日常よくあるやり取り。
ただ、俺は違和感を覚える。
具体的に何かは分からない。なんだか、いつものエセルと様子が違う。
「何かあったのか」
俺は聞いてみる。
思い当たる節と言えば、ノーマを雇うと決めた件であるが、あれはエセルの進言だ。
「何もございません」
エセルが頭を上げるが、その表情は曇っている。
明らかにいつもと違う。
ここは突っ込んで聞いた方が良いのだろうか。
だけど、何も聞かずにそっとしておいて欲しい時だってある。
どうしたら良いのだろう。
「リック」
迷っているとエセルが俺の名前を呼ぶ。
「お願いがあります。どんな時でも………エセルを愛してください」
エセルは、どんなに大変な時でも窮地に陥った時でも弱気な姿を見せない。
いつも気丈に振舞っている。
だけど、彼女は涙もろい。
おそらく、その姿を見せるのは俺と二人きりの時だけだろう。
「すいません」
エセルの目から涙が流れている。
「リックを信じています。信じている。だけど………」
ハンカチで涙をぬぐうが、止め処なく流れている。
俺は己の浅はかさを呪う。
ノーマを雇う事をエセルが進言してきた時、それはエセルが全く問題ないというサインだと解釈していた。
しかし、それは違った。
俺はエセルの本心に気が付くべきだった。
いや違う。俺は気が付かないふりをして、エセルに甘えていたのだ。
それがエセルを不安にさせてしまった。
エセルの気持ちに寄り添うべきだった。
「心配するな」
エセルを抱きしめる。
「俺はエセルを愛している。何があっても愛し続ける。約束する」
上辺だけの言葉ではない。それが俺の本心だ。
「リック、その言葉信じて良いですか」
エセルの涙が止まり、表情が明るくなる。
「任せてくれ」
そう言って俺は顔をエセルに近づかせ、唇を重ねる。
「……んっ………ぁ………くぅ……」
重ね合う。
お互いの愛を確かめ合う時間。
長く重ね合った後、互いの唇が離れる。
いつもならこれで終わりである。
おやすみなさいになる。
しかし、今夜の俺はいつもよりエセルが愛おしく感じる。
このままでは気が収まらなかった。
「エセル、今夜は一緒に寝ないか」
「一緒にですか」
顔を赤くして俯く。
そんな姿が可愛らしい。
「嫌か」
「そ、そんな事ありません。エセルはその日が来ることを心待ちしておりました」
それなら決定だ。
俺は部屋の明かりを消す。
「後ろを向いていてください」
「分かった」
俺の背後で衣擦れの音が聞こえる。
「お待たせしました」
俺が振り向くとエセルが月明りに照らされている。
とても幻想的で美しい。
俺はエセルの二の腕に優しく触れる。
素肌の柔らかい感触が手のひらに伝わる。
「行こう」
「はい」
こうして俺はエセルをベッドへエスコートしたのであった。
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