第29話 家計管理
「それで主さん、家計管理って具体的に何をするのかな」
「エセル、あれを」
エセルに頼んで箱の中から、先とは別の書類を出してもらい、シェリーに渡す。
「色々と書類があるんだね。えーと、これは『申請書』?色んな人の署名があるね」
シェリーは初めて見るらしい。
やはり教会でもこの制度は使っていないんだな。
ウォーカー男爵家の屋敷のお金を使う時は、すべて俺の許可が必要になる。
俺が一から十まで全てを把握していれば問題ないが、この屋敷は広くて使用人が多い。俺が完璧に事態を把握する事は無理だ。
使用人が何らかの理由で屋敷のお金を使いたい時、この申請書に目的と金額を明記して提出し、俺が許可を出せば、その分のお金が使える仕組みだ。
日本の役所や会社だと起案書とか稟議書とかで呼ばれているが、それらとよく似ている。
………しかし、これは家計管理というレベルではないよな。
申請書はこの屋敷で働いている使用人であれば誰でも出す事が可能だが、俺の手元に届くまでに、執事長、メイド長、警備隊長、料理長など使用人達を監督する立場の管理者達が確認するので、申請の内容に問題があれば、その時点で申請を却下される場合も多々ある。
色々な人の手を渡るので、決まるまでに時間が掛かるといった弊害もあるが、自分の意見が通る可能性があると人間やる気が全然違う。
おかげで、ウォーカー男爵家の使用人達は、この屋敷を良い方向へ進ませるために、一人一人が一生懸命に考えている。
「面白い仕組みだね」
シェリーは感心している。
「そうだな」
俺も同感だ。
なにより、この仕組みが凄いのは、俺が発案したわけではないという事だ。
俺も前世、日本人だった頃は職場に稟議書の制度があったので、屋敷でも導入する事は出来たと思う。
しかし、この申請書の仕組みは俺が生まれた頃にはすでに出来上がっていた。
オリーヴ義姉さんの実家マイエット子爵家では導入されていないようだし、シェリーも知らなかったから教会も導入していないのだろう。
もしかしたら、ピーター父さんが考案したのかもしれない。
「ちなみにピーター様、ポール様、リック様、オリーヴ様は屋敷の予算とは別枠の予算があります」
エセルが補足説明をする。
簡単に言えばお小遣いだな。
「シェリーさんはリック様の予算から支払われています」
エセル、そこは話さなくても良いぞ。
「うち一人を雇える小遣いって、すごいね。住む世界が違うかな」
ほら、シェリーが呆れている。
「できればエセルもリック様のお金で雇って欲しいです。そうすれば、エセルにあんな事もこんな事もやりたい放題です」
顔を赤くして身をクネクネするエセル。
どんな桃色な妄想をしているのか。
「貞操は大切にしろ」
俺はあしらう。
もちろん、あんな事やこんな事には興味ある。
今はそんな場面ではないだろう。
「エセルは魅力ないですか」
エセルは残念そうな表情を浮かべるが、態度を見るとこれは明らかに俺を揶揄っている。
「この申請書、色々な事が書かれているね」
いつの間にかシェリーは箱の中から申請書を取り出して読み始めている。
俺とエセルの掛け合いは放置する事に決めたらしい。
「……俺達も仕事するか」
「……はい」
俺とエセルも仕事に戻る事にした。
「主さんは印章を使うんだね」
申請書に印章………ハンコの事だな………を押して決裁する俺を見てシェリーが言う。
「珍しいか」
「そうだね。教会でも見た事はあるけど、あまり機会は少なかったかな」
彼女の言う通り、この世界では署名、サインの方が圧倒的に多い。
「いちいちサインするのが面倒なんだ」
この世界の筆記用具だと羽ペンやペン先を鉄製にした金属ペンが使われているが、羽ペンは先端がすぐに摩耗して使えなくなるし、金属ペンは固すぎて紙を破いてしまう事があって使いづらい。
俺が前世日本人でハンコ文化に馴染んでいた事も大きいと思うが、ポンポンと押していける印章の方が楽で良いのだ。
ちなみにこの世界では鉛筆は開発されている。
これは前世の日本の物と遜色はなく使い易いが、書いた文字を消す事が出来るので重要な書類では使う事ができない。
なお、消しゴムは開発されていない。鉛筆文字を消す時は、消しゴムの代わりにパンを使う。確か、日本でも絵の素描にはパンを使って消していたはずだ。
話を戻そう。
シェリーが申請書を確認し、それを俺が決裁していく。
馬小屋の壊れた屋根の修理、便所の壊れた窓の修理、物置の壊れた扉の修理。今日は修理の申請書ばかりだな。
俺が次々と押印して決裁していくと、シェリーが「あれ?」と疑問形の声をあげる。
「どうした」
「この申請書、鍋を買いたいという内容なんだけど」
俺はシェリーが持っている書類を脇から覗き込む。
美味しい料理を作りたいので、鍋を一式購入したいという旨が書かれ、別紙には明細がある。
寸胴鍋
揚げ物鍋
土鍋
ミルクパン
ソースパン
フライパン……等々
色々な鍋を買うんだな。
まるで鍋の見本市みたいな一覧だ。
「これ全部合計すると金貨74枚だよ」
「なに!?」
日本の相場で例えると、金貨は1枚10万円に相当する。
つまり、金貨74枚×10万円=740万円となる。
鍋を買うのにどれだけ金を費やすんだ!
「シェリー、行くぞ」
「えっ、どこへかな?」
「厨房だ」
鍋にこれだけの大金を使うのはおかしい。
俺はシェリーを連れて厨房へ向かった。
「ふう。良かった」
厨房を出た俺は安堵する。
申請を出した料理人の説明によると、古の名匠が作った鍋が欲しかったそうだ。
その鍋を使えば、どんな肉も柔らかく焼き上がり、どんな魚も臭みが消え、どんな野菜もサクサクに揚がると言われる伝説の鍋一式だそうだ。
美味しい料理をつくって、屋敷の皆を笑顔にさせたい。
料理人はその一心で申請した。
そんな料理人の純粋な想いに対して俺は、鍋一式の購入を諦めてもらった。
「シェリーが見つけてくれて助かったよ」
「お役に立て何よりだよ」
屋敷の廊下を歩きながら俺はシェリーに礼を言う。
シェリーが気付かなかったら、たぶん俺は単なる鍋の購入だと思い、金額をろくに確認せず決裁したと思う。そして、後日、冷や汗をかいていただろう。
「実は、こういう事は多いんだ」
今回の件も申請を出した料理人は不純な動機は一切ない、ウォーカー男爵家の屋敷を良い方向へ進ませる為にはどうすれば良いか考えた結果だ。
この屋敷の使用人達はこうした想いは、尊重してあげたいという考えが強い。
色々な使用人達が申請書を確認しているのに俺のところまで届いたのは、そんな理由もある。
しかし、こんなにお金を使われたら予算オーバーだ。
鍋一式の購入を諦めてもらった時の料理人の悲しい顔は、見ていて俺の心も傷んだ。
もしも、料理人の想いを汲んで伝説の鍋一式の購入を決裁しても、屋敷のお金が無くなるので、食材の購入ができなくなる。
良い鍋を持っても、それを使う食材がない。
本末転倒だ。
どんなに素晴らしい理想や理念を持っていても、お金が無ければ出来ない事がある。
「貴族の息子というのも大変なんだね」
「まあな」
こんな苦労をしているのは俺と兄さんだけかもしれないが、人夫々立場夫々に苦労があると思う。
「主さん、疲れた時はうちの胸を揉んでも良いよ。顔と違って、ここは火傷していないから気持ち良いよ」
そう言って両手で胸を強調するシェリー。大きい胸がさらに大きく見える。
「もっと自分を大切にしろ」
俺は苦笑いする。
エセルといいシェリーといい、自分の体を安売りし過ぎだ。
「好きな人しか、そんな事をしないけどね」
シェリーが呟くが、どんな反応をして良いのか分からなかったので、俺は聞こえなかった振りをして歩く。
俺の部屋へ着く少し手前、俺は廊下の向こう側から歩いてくる一人のメイドとすれ違う。
メイドは立ち止まり俺にお辞儀をする。
「お疲れ様」
俺も挨拶をする。
この屋敷ではよく見られる光景。
だが、その瞬間、俺は違和感を覚える。
「あの……?」
俺と齢が似た頃のおかっぱ頭のメイドは俺にじっと見つめられて戸惑っている。
「主さん?」
シェリーも困惑している。
何だろうな。
少しの間、考え込むがようやく違和感の正体に気が付く。
「そのメイド服、ボロボロじゃないか」
おかっぱ頭のメイドの服は、濃紺を基調としているので一見すると分からないが、各所が継ぎ接ぎされているし、袖口も解れている。
「本当だ。かなり使い込まれているね」
俺に指摘されてシェリーも納得する。
「新調した方が良くないか」
メイド服は謂わば制服である。屋敷から支給されているので、申請すればすぐに新しいメイド服が貰える。
「しかし、メイド長から経費は抑えるように言われていますので」
恥ずかしいのかモジモジしながら答えるおかっぱ頭のメイド。
俺は衝撃を受ける。
「違うぞ。ボロボロのメイド服はお客様に失礼だし、袖口も解れは思わぬ事故を招くことがある」
前世での話だが、袖が解れていると機械に巻き込まれて大怪我をする危険があるという話を町工場の社長さんから聞いたことがある。
「経費を抑える事は大切だ。だが、必要な事を削るのは駄目だ」
経費削減を掲げ、必要なものまで削ってしまい悪循環に陥った事例を俺は前世でよく見て来た。
「このメイド服を新調する事は必要な事だ。今すぐ申請するんだ」
「はい」
おかっぱ頭のメイドは、俺に圧倒された様子で返事をしたのであった。
「お金の使い方って、案外奥が深いのかな」
「そうだな」
シェリーの言葉に俺は頷く。
使うべき時を自分で見極める。そして使う。
ピーター父さんが求める金銭感覚というのは、こういう事なのかもしれないな。




