星と蜜豆
「ようやく明日退院だな、善治」
病室に入るなり美晴は一言そう言った。ベッドの中で音楽雑誌に目を通していた善治は視線を上げて、ついでにひとつ首を鳴らした。
「ああ、耳が早いな美晴。そう言えば貰い物のケーキが冷蔵庫に入ってるんだけどお前食うか?」
「いや、遠慮しとく」
勝手知ったる様子でパイプ椅子をベッドの脇に引っ張り出し、美晴はどっかりと腰を降ろす。しかしその視線はどこか落ち着かなげにさ迷っていた。
「ふぅん、珍しいな。色気より食い気の美晴が」
善治が揶揄するように笑うのを、美晴はぴくりとまなじりを引きつらせ不満そうに睨みつける。
「食い気優先なのはお前だろ。ちょっと腹の具合が悪くてな」
「盲腸か」
「だからそれはお前だろうが」
「俺はすっかり治ったから退院するんだよ。それに盲腸を甘く見るなよ。俺は危うく死に掛けたんだ」
何が偉いわけでもないのに胸を張る善治に、美晴はため息をついた。
「それこそお前の食い意地が原因だろ。聞いたぞ。手術前、飲食厳禁と言われたのにも関わらず物食ったんだって?」
そりゃ死ぬって、と呆れ顔の美晴。善治はほんのり頬を赤く染めた。
「うっさいな。手術前だからこそ、しっかり食って体力付けとこうと思ったんだよ」
「何食った?」
「……蜜豆」
「……っ」
「無言で笑うな、そこっ」
今度こそ善治は真っ赤になった。
「蜜豆は俺的な完全栄養食なんだよっ」
「糖質過多の上、他にも色々足りないような気がするけど。本当に甘党なんだなお前」
「黙れっ、お前に子供時代甘い物を一切食わせて貰えなかった俺の気持ちが分かって堪るか」
顔を赤くしたまま自棄になって怒鳴る善治の言葉に、ふっと美晴は眉をひそめた。
「……そう言えば、加奈子さんから退院祝い預かってきたぞ」
「退院祝いって、俺まだ退院してないんだけど」
「そんなの一日や二日変わんないだろっ」
いいから受け取れと半ば強引に手渡される。いつもと違うその態度に善治は戸惑った様子を見せるが、美晴は構わず重ねて言った。
「それから伝言だ。『善治さんと美晴さん、本当に解散してしまうんですか』だってさ」
「……っ」
善治は途端に顔色を変えて、ふっつりと押し黙った。
「言ったよな、退院までに答えを出すって。加奈子さん、本当に心配してたんだぜ。あの子、ストリート時代からおれらのファンだったし」
ストリートミュージシャン。
それが最初に二人についていた肩書きだった。
駅前でスポットライトもマイクもなしに歌っていた彼らが、今ではインディーズの期待の星。
しかしすでにメジャーデビューも決まりかけていた時に、その騒ぎは起きた。
『なぁ、もし俺が解散したいって言ったら怒るか』
その言葉は美晴にとって、まさに青天の霹靂だった。
順調に、何の問題もないと思っていた足元をいきなりすくわれた気がした。
正直なところ、そんなことを言い出した善治にも本気で腹が立った。
大喧嘩の最中に善治が盲腸になってうやむやになったが、それでも話が終わったわけじゃない。
「大体なんでいきなり解散なんて話になんだよ。何が理由だよ。まわりに言ってるみたいな音楽性の違いなんて言葉じゃ、おれは騙せないからな。何も聞かないままじゃ、解散なんて絶対に許さないぞ」
「お、お前に――、」
「お前に俺の気持ちが分かって堪るか、――お前はいつもそう言うよな」
顔をしかめて、美晴は吐き捨てる。
それは善治の口癖であるが、同時に紛れもない真実でもあった。
自分には善治の気持ちは分からない。美晴はそれを誤魔化すつもりはさらさらなかった。
善治は根っからの天才肌という奴で、凡人の自分とは違う。
音楽を始めたのは自分の方がずっと先だったのに、善治はめきめきと才覚を表わした。その勢いはいっそ怖いほど。
なぜこれほどの逸材が埋もれていたのかは知らない。しかし一から教えていたはずの自分が、気がつけば必死にその後を追わなければならなくなっていた。
「だけどそれでもおれは、お前と一緒にこの道を進んでいきたいと思ったんだ……」
妬ましく思ったことがないとは言わない。
善治と比べて自分の才能の無さに落ち込んだこともある。
しかしそれでも自分の隣にいるのはこいつしかいないと決めたのだ。
「分からないと思うなら分からせてみろよ! 力付くでも口車に乗せてでも。それともそう簡単に諦められるほど、お前にとっておれは価値がないのか」
「違うっ!!」
怒鳴ってから、善治ははっとした顔で下を向く。
「善治、俯くな。黙ってないで何が違うのか言え」
「違う、俺……」
しかしそのまま黙り込んでしまった善治を前に、美晴は舌打ちをした。
「――くそっ」
力任せに床を蹴りつける。
もしかすると本当に、このあたりが潮時なのかもしれない。そんな考えがふと脳裏を過ぎる。
美晴は判っていた。
無理をしていればやがて二人の関係は破綻をきたす。
善治が本当に自分と音楽をやりたくないと思っているのならば、無理強いをしても意味が無いのだ。
彼としてもあれほどうまく行っていた二人の仲を、そんな最悪のかたちで終わらしたくはなかった。
――そう。
そのくらいならば、むしろいっそ――、
「善治」
「なぁ、俺らが最初に歌った日のことを覚えているか」
言葉を遮り、善治が突然美晴に尋ねた。
「……覚えているよ。当然だろう」
仏頂面で美晴は答える。
駅前でギターを弾く自分の前に突如ふらりと現れた善治。
リクエストは受け付けてくれるのかと訊ねるので、何の曲がいいかとたずねると
『俺の知っている曲』
と、悪びれもせずにそう答えた。
「だからおれは絶対にお前の知っているはずの曲を弾いてやって」
「俺が歌った」
夜の街角に突如響き渡るセッション。
善治が歌い、美晴が弾いてハモる。
たかがそれだけのことなのに、ゾクゾクと背筋が震えるような恍惚が這い上がった。
「絶対ひやかしの客だと思ったのに、いきなり一緒に歌いだすんだもんな」
「美晴があんまり楽しそうに奏でてるから、俺も歌いたくなったんだよ」
「そのくせその歌っていうのが」
「キラキラ星だったんだよな」
二人は揃って苦笑する。
ティンクルスター。
夜空に瞬く星の歌。
その時美晴が選んだ曲は、それこそ誰でも知っている童謡だった。
「あの頃は、ただ歌っているだけで全部通じ合えていた気がした」
「おれもだよ」
どこか懐かしむような響きを持った善治の言葉に美晴もうなずく。
お互いに声を合わせているだけで、本当に楽しかった。
音楽というのはこんなにも気持ちが良いものなんだと、初めて知った。
「だけどさ、大勢の人の前で歌うようになってから、……何だか違うなって思いはじめるようになった」
善治はふいに呟いた。
「俺が、美晴を分からなくなったんだ……っ」
先へ先へと進もうとする美晴を必死に追いかける。
歌声は届いても、けれど気持ちはまったく届かない。
「なぁ、ただ一緒に歌うだけじゃ駄目なのかよ。俺はこのままだと美晴がどっか遠くへいちっまうようで、それがすごく嫌なんだっ」
まるで悲鳴のように声を振り絞る。
善治の目は縋り付くような色を浮かべていた。
(……そうか)
美晴はようやく気がついた。
(おいていかれまいと必死だったのは、おれだけじゃなかったのか――、)
我が儘で威張りん坊で天才肌の善治。
物怖じしない本人の性格もあって、彼が怯えているとは夢にも思いはしなかった。
しかし同時にどこかで納得している自分もいる。
「美晴はそんなに有名になりたいのか?」
迷子の子供のような顔をする善治の前で、美晴は小さく首を振った。
強気で自分勝手、だけど本当は寂しがり屋。自分の相棒は、そういう男だ。
「善治、おれもお前と歌うことが一番大事だ。だけどな、おれは欲張りなんだよ」
一緒に歌うこと。
曲を作ること。
それが何よりも楽しいと思える。
それはとても大切なことだ。
「だけどお前となら、その先にだっていけると思ったんだ」
そう。
ただ声を合わせるだけじゃない。
もっと技術を高めること。
より高いクオリティを目指すこと。
世界中の誰にも誇れる音楽を創りあげること。
それを適えることができたなら、今よりずっとずっと楽しいんじゃないか。
それに――、
「おれの隣で歌っている善治はこんなにすごいんだぞって、たくさんの人に見せびらかしたかったんだよっ」
美晴は顔を赤くしてそっぽを向いた。善治は驚いたように目を見張る。
「――美晴、それって」
「悪かったな。お前はおれの自慢なんだよ。そんな相方を見せびらかしたいと思うのは、単なるおれの我が儘だよ」
子供じみた自惚れ。
そんなもののためにメジャーデビューを目指した部分も無いわけじゃない。
「だけど確かに、今回はおれが急ぎすぎたのかもしれない。もしお前が今のままがいいと言うんだったら、それでいい。おれもお前と歌うことのほうが大事だからなっ」
「美晴……」
善治は照れ隠しにわざと乱暴に喋る美晴の珍しい姿をまじまじと見る。
それからぱっと笑みを浮かべた。
「なあ、美晴。佳奈子からの退院祝いあけてもいいか」
「……好きにすればいいんじゃないか?」
そう答えると、善治はごそごそと包み紙を剥がし始めた。
「んで、何が入ってんだ」
「星だ」
「はっ?」
美晴はぎょっとして善治の手元を覗き込む。
「星って、何だ。金平糖じゃないか」
それは色とりどりの砂糖のかたまり。
甘味好きの善治への贈り物としては最良の選択だろう。
「美晴。俺さ、お前が遠くに行っちゃわないんだったらどこで歌うんでもいいや」
もごもごと金平糖を頬張りながら善治が言う。
「……それは、解散は止めにするって事か?」
「俺は曲の完成度とか、技術力とかはよく分かんないけど、やっぱりお前と歌うの好きだもん。それに俺も、俺の美晴をみんなに自慢したいしな」
「――ったく、お前って奴は!」
善治の手から金平糖をむしり取るように奪い、美晴はそれをがりがりと噛み砕いた。頬がわずかに赤くなっている。
「あのな、善治。歌えば互いの気持ちが分かるって言うのも真理だけど、やっぱりおれらは言葉を使う動物なんだよ。細かいニュアンスは直接たずねた方が早いし確実なの!」
「そうだな」
「おれはお前を置いていかないし、むしろお前がいなきゃ困るんだ。だから次になんか不安に思ったら、解散なんて不穏なこと言う前に相談しろよ。約束だからな!」
「うん、約束だ」
善治がにこにことうなずく。
その様子は晴れ晴れとしていて何の申し分もない。美晴はため息をついた。
「本当に、今度のことでおれがどれだけ肝を、冷やしたと……――っ!!」
「わっ、おい! 大丈夫か、美晴!?」
突然椅子から転げ落ちた美晴に、善治は思わず目を剥く。
「ど、どうした、なにがあった!」
「は、腹が……痛い」
美晴は床にうずくまり、苦痛のうめき声を上げる。
善治は驚愕の表情で金平糖を手に取った。
「ま、まさか金平糖に毒が!」
「……阿呆なこと、言ってないで、早……ナースコール」
美晴はひくりと顔を引き攣らせた。
※ ※ ※
「で、退院おめでとうとは言ってくれないの?」
「誰が言うかよ」
ふて腐れたように美晴が呟く。
今日は昨日とは立場が逆で、善治がパイプ椅子、美晴がベッドの中だった。
「まさか本当に盲腸だったとはね」
わっはっはと善治が遠慮の無い大笑いし、美晴は苦虫を噛み潰したような顔でそれに耐えた。
美晴の腹痛はずばり盲腸だった。
しかも破裂寸前だったため、即手術即入院という突貫作業である。医者からはなんで気付かなかったのと呆れられさえした。
「どっかの誰かさんが心配ばかり掛けるから、胃痛だと思ったんだよ」
「胃とは全然場所違うじゃん」
「それに! まさか相方が盲腸になって自分までとは思わないじゃないか。いったいどんなシンクロ率だよっ」
「怒鳴ると手術跡に障るよ」
平然と答える善治に、「誰が怒鳴らせているんだ」と美晴は顔をしかめた。
「とりあえずいっぱい見舞いにきてやるからさ、早く元気になってまた一緒に歌おうぜ」
「ああ、そうだな」
あの曲を歌って、この曲も歌ってと、今までの分を取り返すように張り切る善治を見て美晴は苦笑する。だけどその気持ちは自分も一緒だ。
「そうだ見舞いの品は何がいい? とりあえずギターは確定だろ、だから――、」
「星と蜜豆……」
「へっ」
僅かに赤い顔で美晴は顔を背けた。
「いや、なんでもない」
「金平糖と完全栄養食だな、了解」
「って、聞こえてんじゃないか――痛っ」
「おいおい、無理すんなって」
顔を赤くして悶える美晴を宥めながら、善治は豪快に笑った。
その幸せそうな様子を目の端に捉え、もう何も心配は要らないと佳奈子に伝えようと美晴は思うのだった。
【終】
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