コギト・エルゴ・スム ~疑い考える我は存在すれども……~
頭が割れるような痛みと、窒息するような寝苦しさで目が覚めた。
もし動けるのであれば悶絶し、叫びだしたいくらいだが……そんなことをすれば、全部がご破算になるかもしれない、という警戒心が俺に鉄の理性を、
「秦さん、眼が覚めましたか?」
全く心配しているようには見えない、完全無欠に無表情の、しかし見覚えのある顔が至近距離にあったことで、俺の理性は驚きと疑問で全て埋め尽くされた。
シャンプーか香水なのかわからないが、微かに甘い香りが鼻腔をくすぐるくらいに、距離が近い。
「ハクロさん、なんで君がいるんだ?」
声はかろうじて平常を保てたが、動揺が表情に出ていないだろうか?
いや、それより。
医者、あるいはあの両親そっくりな赤の他人相手に会話をし、精神病院に行くか否かの分水嶺に立たされる……と考えた俺は、教科書を見終わった後は、眠る直前まで問答を想定していた。
それなのに、この書類上の『彼女』を名乗るハクロさんが、どうして今、ここにいるんだ?
「お医者さんの判断です。秦さんは、ご両親やお医者さんに対しては警戒心を露わにし、まともな会話が成り立たなかったそうですが、私とはある程度、意思の疎通が取れたので、秦さんが錯乱している原因がわからない以上、意思の疎通が出来る私と接触させた方が、錯乱から回復する可能性が高い、と」
錯乱……まぁ、彼等からしてみれば、俺がおかしくなった、と考えるか。
それにしても……頭が痛いし、息苦しい。
「術後せん妄と症状が似ているとのことでした。術後せん妄のケースですと、1週間程で秦さんの錯乱は落ち着く、と説明されていました」
俺は彼女に、どう見られている? やはり錯乱していると、
「秦さんが錯乱している、と私が考えているのであれば、こんな話をしていません」
表情から考えが漏れているのか、機先を制されてしまう。
こっちは、無表情な彼女が何を考えているのか、サッパリだと言うのに。
俺はベッドの上から、ただ無言で先を促した。
「病室で、秦さんが自身を35歳と認識し、ご両親に向かって『偽物』と叫んでいたのは、覚えていますか」
どうする? 肯定すべきか否定すべきか、
「私には、なさねばならない『奇跡』があります」
悩んでいたら、いきなり話が変わった。
「昨日お話しした、第二奇跡として定義されている『パラレルワールドを含めた時間旅行』。現在では、同じ時間軸に限定しても時間旅行は出来ない、とされています」
表情からは、情動が相変わらず見受けられない。
ただ、俺を覗き込む黒瞳の輝きが、ひと際強くなったように見受けられる。
「実現出来れば、秦さんが過ごしてきた世界に帰還し、本当の『ご両親』と再会できるかもしれません」
…………
「もっとも、今の秦さんが得ている情報では、私の言っていることが真実か、デマかを判断する材料に乏しいでしょう」
腋の下を、冷たい汗が流れる。
何故なら、痛みに疼く頭蓋が、恐ろしい閃きをもたらしたから。
「私に協力するか否かは、現段階では保留して下さって結構です。今、私が問うのは、この病院を無事に出るのに、私に協力を求めるか否か、です」
俺が35歳であることを、彼女が疑っているように見えないのは、何故だ?
『時間旅行』とやらが改変不可能な事象、『奇跡』と呼ばれる技術である以上、どんな人間だろうと、どうやったって確認が出来ない事柄だ。
なら、最初は疑うのが普通。
話を合わせているだけ、という可能性はあるし、普通ならそう考えるべきだ。
……だが、話を合わせている『だけ』にしては……彼女はどうして『ご両親』と言った?
『兄弟姉妹』の存在を考えれば、『家族』と言うのが一番無難。
35歳と言えば、結婚をしていてもおかしくない年齢。
家族と一括りにすれば、『妻』も『子ども』も入る。
なのに、彼女は『ご両親』と呼んだ。
これまでの会話から判断して、彼女は頭の回転が早い。そのくらいは思いつくはずで、無難に『家族』と呼ぶべきではないのか?
出で立ちだけは親父とお袋にそっくりな、あの二人をあれだけ拒絶したのなら、なおさら他の『家族』のことに話題を移そうと考えるのが自然ではないのか?
だが、もし、もしも、だ。
『ご両親』と呼んだのが、偶然でないのなら……彼女は、俺には『家族』と呼べる人が、『両親しかいない』、つまり個人情報を知っている事になる。
『並行世界を含めた完全なる時間旅行』なる技術は、『奇跡』とされていて、この世界では出来ない、と言うのがウソでなければ……何故、知り得ないことを、彼女は知っている?
「秦さん、ご決断を」
人のうなじにコードを容易に埋め込む技術がある世界だ。
俺が持つ『平成の世界の常識』は通用しない、と考えた方が良い。
ACTか、あるいは何かしらの技術で、俺自身の記憶を操作した可能性も、有り得るかもしれない……!
俺のこの記憶にある35年の人生や、親父やお袋をはじめとした人々に関する記憶はどこまでが真実だ?
赤の他人だと思っていた『正化』の世界の両親は、実は本当の俺の両親で、俺の記憶の方が偽りである可能性は?
そもそも、俺の記憶にある人物は、実在するのか?
疑い考える我は存在するが、そう疑うように、今の俺は仕向けられていないか?
………俺自身、フェイカー、偽りの存在なのではないか?
「秦さん?」
だが今の俺は頭蓋にダメージを受け、身動きが取れない。
この場から逃げる事は、独力では不可能。
仮に逃走が可能なコンディションだったとしても、逃走を試みた瞬間に、俺が精神的に錯乱しているという周囲の疑いを、事実として認識させかねない。
唯一のアドバンテージは、俺が、目の前の得体の知れない少女に、『俺の記憶は操作、改変されているのではないか?』という疑問を持っている事に、気付かれていない点。
これだけは、悟られてはならない。
文字通り、命綱になるかもしれない。
本当に、息をするのも、苦しい状況だな……!
今は、俺自身の命を守る事が最優先だ。
俺の記憶が正しいのか、偽りのものなのかは、その後だ。
「考える時間は、どれくらいくれるんだ?」
「こちらが持つ人脈を活用する準備が必要です。ですので、早ければ早いほど良いかと」
ベッドで横になる俺を、文字通り目と鼻の先と言っても良い距離で、観察するかのように、無表情に見つめてくる。
YESと言えば、この得体の知れない少女やその関係者に何をされるかわからない。
NOと言えば、精神病院送りの可能性が高い。
普通に考えれば、どう返答しても『詰み』の状況……
「頼む」
なら、皿ごと毒を食おう。迷っている時間だってもったいない。
運に恵まれれば、死中に活路を得られるかもしれない。
ホント、俺がただ想像力を働かせ過ぎているだけなのを祈りたいもんだ。
彼女は一つ頷くと、踵を返して病室を出ていく。
息苦しさから解放されたはずなのに、頭を痛めているせいか、倦怠感は去ってくれない。
それでも、意識的に大きく息をつくと、背中にドッと汗が噴き出てきた。