異常事態
『酒井玲於奈』の名が出た瞬間、隣のさっちゃんが腰を落として臨戦態勢に入ったにもかかわらず、本物の酒井玲於奈は引いてきたスーツケースを椅子代わりにし、そこに腰を下ろした。
「ウソ……だって、加奈、アンタ、人形の特徴なんてどこにも」
「加藤由利、だったか。この『人形』を、そこらの凡才が作った人形と一緒にするな。それと、容姿が友人のものだからと油断をするのは感心せんな」
左目だけで『酒井玲於奈』を見る加藤由利は、明らかに狼狽していたが、その動揺も『酒井玲於奈』にはどうでもいいことらしい。
「さて、この通り、私はここで君達と争う気は無い。私が知っている限りの情報を提供しよう。話を聞けば、なぜお前達に情報を渡すのかも、納得してくれると思う」
「……時間稼ぎじゃ、ないんですか」
津田さんが淡々と返答したが、声が少しばかり上擦っている。
後ろに視線をやれば、狼狽から立ち直った加藤由利はその頬に汗を流し、隣のさっちゃんに至っては先程から一瞬も臨戦態勢を崩していない。
この3人をもってしても、勝ちきれないリライター、ってことか……
なら、ここで対峙し続けるのは得策ではない。
何より……今の今まで、一連の件で黒幕なのではないかと思いつつ、決定的な証拠は全く掴ませなかったコイツが『人形』介してとはいえ、眼前に出てこなければならない、と言うのはハッキリ言っておかしい。
異常事態、と言って良い。
俺は未だに苛まれる頭痛を、歯を食い縛りながら耐え、右手をOBから離し背筋を伸ばすと、その場に胡坐をかいて座った。
ほう、と感心したかのような呟きを本物の『酒井玲於奈』が洩らす。
「なっ! はっちゃん?!」
「話を聞こう。『酒井玲於奈』、と呼んでいいのかな」
「賢明かつ、迅速な判断だ。助かる。
もう推測しているとは思うが、君の意識を柳の肉体に定着させるための細工を施していたのは、私だ。状況を整えれば、君の幼馴染が最後の締めをしてくれるのは、時間軸を観察することでわかっていたからな。君自身の記憶は、何も改変していないから安心したまえ。と言うより、私はそのようなACTを保有していないしな」
「なっ……貴様っ!」
「酒井さん、落ち着いて! で、アンタがわざわざ俺達の前に出てきた理由は? 恐らく、俺はアンタにとって、色々な意味でモルモットだったはずだ。そんな俺の前に、アンタが出てくる必要性はどこにもないだろう」
酒井玲於奈に向かって喋ってはいるが、隣で激昂しているさっちゃんを落ち着かせるために言葉にしたのが、対面していた酒井玲於奈にも、隣のさっちゃんにもわかったのだろう。
2人は一瞬だけ視線を絡ませたが、特に何事もなく話を続けた。
「その通りだ。必要があったから、出てきた。
記憶を喪った白鷺凛と症状を似せた『人形』を用意し、メモ帳の存在を明かすことで君達をかく乱しつつ、白鷺凛を隠れ蓑に、仙台という遠い土地から、適度に君と、この仰木加奈をはじめとした『人形』を接触させつつ、観察する予定だった……まぁ、仰木加奈を介して君達と接触しようとしたのは、他にも色々と思惑があったからなんだが」
「……っ!」
背後の津田さんと加藤由利が憤りのあまり、前に一歩を踏み出しかけたが、それを俺は腕を掲げて制止させた。
「ただ、お前たちへの『人形』による襲撃は、私では無い。織田か羽柴の手の者だろうよ……人形の凡庸さ、機を計れないことから判断すれば、脇坂辺りか」
だろうな……コイツだったら、もっと上手くやる。
俺達では、コイツが動いたことを気付けないほど、迅速、かつ狡猾にやるはず。
「私のACTは、時間軸の跳躍と観察―平たく言えば、限定的な時間旅行だ。発動には色々と条件があるが、現在を起点として、往復することを考慮した場合、100年ほどの時間跳躍が可能だ。
時間軸の観察については、300年ほどのスパンが観察可能だ。具体的にはAという行動を誰かがとれば、世界がどのように変化するかを私は知覚できる、という具合だ」
「……世間に周知されれば、『封殺対象』にされるんじゃないか、アンタ?」
逆を言えば、それを俺達に告げなければならないほど、事態が切迫している事になる。
「それは面倒ではあるが、いざとなれば打つ手はいくつもある。今回の件と比べれば、大した事ではない。何しろ今回の件、最悪の場合は」
「最悪の場合は?」
「人類、あるいは、世界が滅ぶ」




