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目を覚ました時、世界のすべてが変わっていた。
いいや、変わったのは世界ではない。私だ。私自身が変わってしまったのだ。更に言ってしまえば、正確には『変わった』と表現するのは正しくないのだろう。ただ元々“そう”であったことを、私は今まできれいさっぱりすっかり忘れ去っていて、それを唐突に思い出してしまっただけなのだから。
だがそれが目の前の現実であるとは心の底から受け入れがたかった。冗談じゃなかった。一縷の望みを賭けてのそのそと掛け布団を頭から被ったままベッドから降り、姿見鏡の前まで歩み寄る。そしていざ、と掛け布団を床へと落とした時、私はそのまま、がくりとその場に膝から崩れ落ちた。
「…………マジか」
姿見鏡の中に映っていたのは、真っ直ぐでさらっさらな、まるで絹糸のように美しい銀髪。寝起きなのに寝癖一つないとはこれいかに。腰まで伸ばしているにも関わらず、指で透かせば一切絡まることなく指の隙間から銀糸が零れ落ちていく。
そして見る者に怜悧な印象を抱かせる切れ長の瞳は、まるで極上の翡翠のような緑色の瞳だ。その瞳を縁取る睫毛は髪と同じ色の銀であり、長く濃く生え揃うそれはまるで繊細な銀細工のようだ。
肌は白く、触れずとも解るほどにきめ細やか、鼻は小さく通っており、唇は口紅を塗った訳でもないのに紅く扇情的に色付いている。
少女から女へと変じる過渡期にある、姿見鏡の中に映る華奢な少女は、百人中百人が振り返るに違いない、超ド級の美少女だった。
見ている私はもううっとりと見惚れるしかない。この子めっちゃ美人だわ。後数年と言わず、今からでもちょっとその気になれば指先一つで軽く国を傾けることができそうなくらいだわ。
まあこの子私なんだけど。私が美少女なんだけど。そう。私が、この美少女。
「って、自分を賛美してる場合じゃないのよ! 確かに“私”はそういう設定だけど!!」
ないわ。はっきり言って、ない。
床の上に崩れ落ちた状態のままで頭を抱え、その勢いでゴロゴロと転がる。つい調子に乗りすぎて壁にぶつかってしまった。しこたま額を打ち付けた。かなり痛い。でもそのおかげで少し落ち着……ける訳がない。ふざけんなと抗議したい。でもその相手が見つからない。
結局、痛みに唸りながらベッドに戻り、床に落ちたままだった布団を引き摺り上げて頭から被る。
「ううううう……」
布団の下の暗闇の中、どれだけ唸っても救いの手が差し伸べられることはない。そんなこたぁ解っている。本当は叫び出したいくらいなのだが、それをしたが最後、家人が「どうなさったのですかお嬢様あああああ!」と群れを成してやってくるに違いない。お嬢様。そう、お嬢様なのだ。他ならぬ、この私が。
「ないわ」
布団から顔を出してぼそりと呟く。ああ、さらさらと頬をくすぐっていくこの長く綺麗な銀の髪が夢であってくれたらよかったのに。だがこれは現実だ。悲しきかな、現実なのである。
現在進行形でその現実に絶望している私の名前は小鳥遊美鳥。それは今となっては誠に不服だが、間違いない事実である。この十六年間というもの、“小鳥遊美鳥”として、私は生きてきた。
だが、つい先程目覚めた時から、私の中にはもう一人分の記憶が存在するようになった。なんでだ。できることならずっと思い出さないままでいたかった。そのもう一人分の記憶とやらとはつまり、所謂前世の記憶というやつだ。
なんだそれ中二病か。自分で言うとめちゃくちゃ恥ずかしいな。まあいい。いやよくないが、今この場で重要なのはそこではない。
問題なのは、今の私、小鳥遊美鳥が生きる世界が、前の世界で言う、『乙女ゲーム』の世界であるという点だ。
何度でも言うけど、いやーないわー。ほんっとないわ。
前世の私という奴は平々凡々を絵に描いたような一般市民だった。若干オタクの気はあったが、何かにそこまでのめり込むということもなく、どこまでも普通に生活していたのが前世の私。その前世の私が、「どっぷりと沼に嵌っちゃって抜け出せる要素が何一つないから、お姉ちゃんも嵌って!!」と前世の妹に押し切られ唯一プレイした乙女ゲームがある。
そのゲームの名は、『彩鳥恋歌』。
彩鳥恋歌は、所謂和風ファンタジーの世界が舞台となるゲームである。
最も大きな特徴としては、“守護鳥”と呼ばれる、精霊と鳥の中間に位置するような不思議な鳥型の生物が存在することだろう。
守護鳥は、それぞれの属性ごとの力を持ち、その力を扱うに相応しい主人を自ら選ぶ。ある日突然、自らが主人と定めた人間の前に現れ、その人知を超えた力によって主人を守護してくれるのである。
守護鳥に選ばれた人間は“羽持ち”と呼ばれ、人々から尊ばれる身分となる。ここまでが前提だ。
『彩鳥恋歌』の主人公、雛姫は、孤児であり、貧しい孤児院で育てられるという不遇な境遇にありながらも、天真爛漫に擦れることもなく健やかに育った。
そんな彼女は、ある日、野良犬にいじめられているひよこを拾うことになる。そのひよこに、雛姫は“向日葵”という名前を付けて、新たな家族として迎え入れるのだ。
この向日葵ちゃんが、それはもうかわいい。黄色くてふわっふわでぴよぴよとさえずりながら雛姫の後を追いかける姿に、私はプレイ中何度鼻血を出しそうになったことか。
攻略対象そっちのけで、ミニゲームである『向日葵ちゃんナイスショット!』というスチル集めゲームに奔走したのも今ではいい思い出と言えるだろう。いい思い出なのだが、それすなわちもう二度と取り戻せない過去である訳でもあって、私の心は非常に複雑である。遺憾の意。
と、話はずれたが、とにもかくにも、そんな向日葵ちゃんと一緒に孤児院で暮らしていた雛姫の元に、彩鳥恋歌の世界の中における、国を治める帝に次ぐ最高位の貴族、小鳥遊家の使いが現れる。
なんと向日葵ちゃんは、世にも珍しい光属性の守護鳥だったのだ。その貴重な守護鳥の加護をいつの間にか受け、羽持ちとなっていた雛姫は、守護鳥を管理する貴族、小鳥遊家に引き取られることになる。
そうして小鳥遊姓を名乗ることになった雛姫は、小鳥遊家が羽持ちを保護するために創り上げた、通称“鳥籠”と呼ばれる学園に放り込まれる訳だ。
そこで待ち受けていたのは、五人の魅力的な、小鳥遊家を代表する男性陣。すなわち攻略対象達である。
そして、雛姫を待ち受けていたのは攻略対象ばかりではない。この私――“小鳥遊美鳥”もまた、雛姫の前に現れるのである。
“小鳥遊美鳥”は、主人公のライバルキャラというポジションだ。
一応言っておくが、主人公の行動を邪魔したりいじめたりする悪役ポジションではない。“小鳥遊美鳥”は、どこまでもどこまでもどこまでも、“ライバル”と呼べれるべきポジションである。好敵手と書いてライバルと読むあれだ。
小鳥遊家分家の中でも最も権力を持つ格式高い家柄の令嬢である“小鳥遊美鳥”の存在は、『彩鳥恋歌』の中ではあまりにも大きい。
何せ、“小鳥遊美鳥”は、初期からスペックがあまりにも高く設定されており、プレイヤーが少しでも気を抜けば、即座に本来主人公が立てるべきフラグを片っ端からかっさらっていくキャラであったからだ。
容姿端麗、才色兼備、文武両道、国士無双……いや最後のは違うな。
とにかく、そういう美辞麗句がどこまでも似合うスーパーガール。
それが“小鳥遊美鳥”だったのである。
プレイヤーがお目当てのキャラを攻略しようとするにあたって、“小鳥遊美鳥”は様々な障害となって主人公の前に立ちふさがる。
まずもう最初から酷い。何せ攻略キャラ達の好感度が、主人公に対するものは当初底辺であるのに対し、“小鳥遊美鳥”に対するものは軒並み高い。
何せ“小鳥遊美鳥”のスペック……この場合はステータスと呼ぶべきか。まあどちらでもいいが、とにかくその“小鳥遊美鳥”のステータスが、現実世界ならば誰もが惹かれずにいられないだろうと思わずにはいられないくらいに、それはもう高く高くチョモランマもびっくりの勢いの高さに設定されているのだから当然と言えるだろう。
所詮男はゲームの中でも女のステータスを見るものなのだということを、『彩鳥恋歌』は当時……すなわち前世において、どこに出しても恥ずかしくない喪女であった私に、改めて嫌になるくらいにきっちりと教えてくれた。『彩鳥恋歌』の世界には奇跡も魔法もあるのに、どうして夢や希望はないのだろう。
そんな訳で、『彩鳥恋歌』は、プレイヤーが主人公のステータスを、最初からチートモードの“小鳥遊美鳥”のステータスよりも、容姿はもとより、勉学、運動神経、守護鳥との絆、守護鳥の魔力、守護鳥との合唱スキルなどと多方面に渡って、高くなるように育て上げなければならないのだ。
下手な育成ゲームよりもよっぽど鬼畜仕様だった。
プレイしながら、「自分は何をしてるんだろう…乙女ゲームをしているはずなのにどうして筋トレゲーム…どうしてリズムゲーム…?」と、虚無感に襲われるプレイヤーが後を絶たなかったらしい。私もプレイ中は何度もその虚無感に襲われた。大人しく最初から攻略対象がイチャイチャ主人公に迫ってくるゲームにしとけよと私は制作陣に物申したい。
大体一週目はこのステータス上げに手間取られて、攻略対象とのアレソレは、一週目のステータスが持ち越せる二週目以降が本番となる。一週目におけるプレイヤーは、“小鳥遊美鳥”が攻略キャラのいずれかとゴールインするのを涙を飲んで見守らなくてはならないのだ。
おかげで、プレイヤー間の“小鳥遊美鳥”の通り名は、攻略対象を労せずに選びたい放題の銀の女王、人呼んで“よりどり美鳥様”。センスは悪いが的は射ている。
なんでこんな七面倒臭くて性格が悪いゲームに嵌ったのだ、前世の我が妹よ。あ、思い出した。あいつ、それはもういい笑顔で、「二週目でよりどり美鳥様を見返すのがスカッとするのよ!」と言っていたのだったか。我が妹ながらなかなかいい性格をしている。前世だけど。
主人公である雛姫は、その“よりどり美鳥様”と時に協力し合い、時に対立し合いながら友情を育みつつ、向日葵ちゃんを育て、自らを研鑽し、攻略対象を落とすのを目標としながら“鳥籠”で一年を過ごす。
そして一週目においては、“鳥籠”に入学してから一年後の、卒業式代わりの“巣立ちの儀”と呼ばれる儀式において、雛姫は“よりどり美鳥様”が意中の攻略対象キャラとゴールインするのを見守ることになる。
そう、繰り返すが、重要なのは二週目以降だ。二週目以降において、“小鳥遊美鳥”は一週目と同じく、当初は懸命に自分を研鑽する雛姫を応援している。
けれど少しずつ、そして確実に力を付けていく雛姫の存在に、“小鳥遊美鳥”は“よりどり美鳥様”のままではいられなくなっていく。そして来たる“巣立ちの儀”において、“小鳥遊美鳥”は禁じられた魔法である闇魔法に手を出し、その力を暴走させてしまうのだ。
元々最高位の守護鳥の守護を受けていた“小鳥遊美鳥”の暴走に、誰も打つ手なしかと思われたその時、我らが主人公、雛姫の本来の力が解放される。
彼女は“小鳥遊美鳥”を救いたいというその一心から、見事、小さくてかわいかった黄色いひよこの向日葵ちゃんを、金色に輝く伝説の守護鳥、光の不死鳥に成長させるのだ。
そして雛姫は攻略対象達と共に見事“小鳥遊美鳥”を救い出し、物語はいよいよハッピーエンドを迎えるのである。このストーリー展開からも、いかに彩鳥恋歌というゲームが、二週目以降に重きを置かれているかが解るだろう。
そのキーパーソンとなる人物である“小鳥遊美鳥”が、この私?
「…………ないわー」
もう何度この台詞を繰り返したことだろう。
私は遅れ馳せながらに確信した。神は死んだ。頼れる者など誰もいない。信じられるのは己のみ。ならばやることは決まっている。
私は現在十六歳。“鳥籠”に入学するのは一年後。まだ時間がある。この世界が何週目の世界なのかは雛姫に会うまでは解らない。だが、それがなんだ。この世界がたとえ一週目の世界であろうとも、私は何としてでも二週目以降の世界に持ち込んでみせる。
だって攻略対象の内、五人が五人とも、ぶっちゃけ生涯を共にしたいとは到底思えない男どもなのだから!
その五人がどういう男どもであるのかを後日語ることにして、何はともあれ、となれば当然、私が狙うのは、ただ一つ。自動的に私まで攻略対象とくっつく羽目になる雛姫の個別エンドではない。今の私が狙うのはただ一つ。
それすなわち、雛姫の逆ハーレムエンドである。
“小鳥遊美鳥”闇堕ちイベントの後、いよいよ雛姫は、意中の攻略対象との個別エンドに入る。最も好感度の高い攻略対象と婚約を結び、伝説の光の守護鳥の加護を受けた雛姫は、小鳥遊家本家に改めて迎え入れられることになる。
この時、五人の攻略対象者の、雛姫に対する好感度がある一定以上高い状態であれば、“小鳥遊美鳥”はいよいよ本格的に舞台から退場することになるのだ。
伝説の金の不死鳥を守護鳥に持つ雛姫が名実ともにトップに立つことになる小鳥遊家において、いくらその雛姫が許してくれたとしても、闇魔法に手を染めた自身の罪を、誇り高き“小鳥遊美鳥”は許せない。
それまでの彼女の功績から罪がどれだけ軽減されようとも、彼女自身はあらゆる申し出を断り、小鳥遊家領地の中でも特に地方にあたる山奥へと一人去るのだ。
『助けてくれてありがとう、雛姫さん。小鳥遊家を……いいえ、貴女のことを大切に想う周りの人達を、どうか大切になさってね』
と、言い残して。この時、“小鳥遊美鳥”の涙混じりの笑顔のアップのスチルが表示され、その後で五人の攻略対象と仲良く小鳥遊家で暮らす雛姫のスチルがゲットできる。
数多の苦労を乗り越えてきた歴戦のプレイヤー達は、その時、達成感と歓喜と感動に打ち震えたのだそうだ。ちなみに妹もその一人だった。
私? 私は達成感というよりもむしろ疲労感の方が大きかったです。ほんと大変だった。すごい疲れた。
この時注意しなくてはならないのが、雛姫が個別エンドを選んでいた場合、一人山奥に旅立つ“小鳥遊美鳥”には、もれなく一名の攻略対象が“小鳥遊美鳥”を追いかけていくという点だ。そういうの本当にいらないと思う。
だからこそ、目指すべきは雛姫逆ハーレムエンドなのだ。
闇魔法に手を染めた魔女の汚名なんて喜んで背負ってみせる。
だって、山奥に引っ込めば、小難しい勉強も、歌の練習も、厳しい作法のお稽古もしなくていい! 余計な仕事を押し付けられることもない!
そう、なまじ優秀なのが災いして、“小鳥遊美鳥”――私は、小鳥遊家の財政に関わる仕事を押し付けられていた。おいこら私はまだ十六歳なんだが。十六歳の小娘に何させるんだうちの両親は。
まあ滞りなく仕事は片付けていますけどね! 無駄に優秀な自分の才能が憎い。流石“よりどり美鳥様”。あっはっは、笑えないわ。
何はともあれ、小鳥遊家を出れば、そんな仕事からも私は晴れて解放される訳だ。最っ高!!
それに何より、繰り返すけれど、あの五人の中から一人を選ぶなんて、私はぜっっっっったいにごめんだ。
いやほんとまじで。勘弁して。私にも選ぶ権利はある。
“よりどり美鳥様”が贅沢言うなって?
それはあの五人を見てから言ってほしい。頼まれたって選びたくない。
もちろん私だって、何も考えなしに小鳥遊家を出ようとしている訳じゃない。雛姫が頂点に立つことになる小鳥遊家に置いて私の存在は争いの火種にしかならないだろうから、そういう意味でもさっさと退場する方が世のため人のためひいては私のためなのだ。この三つの内どれに一番比重が傾いているかはおしてはかるべし。
それはさておき、たとえ私が小鳥遊家を出ても、小鳥遊家は、ちゃんとその後の私の生活を保証してくれるはずだ。
雛姫がゲーム本編通りの性格なら、きっと私のことを気遣い、それなりの援助をしてくれることだろう。たとえしてくれなくても、この数年の間に多方面から押し付けられた仕事で貯めた資金もたっぷりある。少なくとも十年は遊んで暮らすのに困らないだけの資産だ。細々と暮らせばおそらくは働かなくとも天寿を全うできると思っている。ならば私が選ぶべき道はただ一つ。
……よし。今後の方向性は決まった。
「目指せ! ぐーたら三食昼寝付き引きこもり生活!」
そして私は固い決意を胸に、硬く握り締めた拳を布団の中から高い天井に向かって突き上げたのであった。