第五.五章・その男、お兄ちゃんにつき~ICHIJI‘S view~
「……度々お世話になりました」
俺は頭を下げる。
それはもう深々と。
それはそれはもうもう粛々と。
我が人生において未だかつてないほどの角度と覚悟を持ってして。
俺は頭を下げている。
「えっと……昨日の今日でなんかすいません。……あ、いえ、別にパックリ開いた傷口に言い知れぬ興奮を覚えるとか、痛みがなければ人生じゃないじゃんとかいう趣味嗜好なわけでは……はい……はい……はい、ですね、はい……まったく先生のおっしゃる通りかと……」
まさに平身低頭。
もはや三拝九拝。
そんな俺の殊勝な態度にも、頭を下げた先にいる王室付きの医師(ダンディな中年男)は厳しい顔を崩さない。
もちろん顔だけではなく、口調にしろ漂わせる雰囲気にしろ。
せっかく治療したというのに、舌の根……もとい傷口も乾かぬままにまたしても世話になりにきた不届き者に対する不満を隠そうともしない。
「はい……はい……いやまったく……いやいやまったく……いやいやいやまったくもってその通りだと思います。ですけど先生?今回は……あ、はい……はい……すいません……はい……」
俺の中で医療に従事する者のイメージといえば、それこそ赤く裂けた皮膚を『わぁ~綺麗な切り口ですぅ♡』と言って恍惚の表情を浮かべる変態か。
その傷口に治療と称して何かを塗り込まれた患者が痛みに悶え苦しむのを『いい声で鳴くさね』と嬉々として眺めるド変態のどちらかしかない。
なので、まるで我がことのように他人の体を心配してくれるこの王室付きの医師(円熟味と男の色気を漂わせたオジ様)の対応が新鮮でならず、彼の厳しくも温かい言葉に妙にへりくだってしまう。
「はい……はい……すいません……はい……そうですね、なるべくもうこちらにご厄介になるようなことには……あ、はい……ありがとうございます……はい……はい……はい……それでは……」
バタン……
「……………」
医務室から廊下に出てもなお俺は体勢を崩さず、しばらく無音のドアに向かって頭を下げ続けた。
久しぶりに出会ったちゃんとした大人。
というかボケ属性でもツッコミ気質でもなく。
まして桃色煩悩でも黒々性悪でも大熊脳筋でもないまともな人間からの至極真っ当な忠告は、自分で思っているより身にも心にも応えたようだ。
「……刑期明けってこんな気持ちなのかな……」
チリーン……
そんなことをしみじみと思っている俺の耳に届く、軽やかな鈴の音。
チリーン……
「怒られちゃったんだゾ……」
そう悲しそうにつぶやきながら俺の手を握ってくれたのはココだった。
「まぁ、お医者さんとしてはせっかく治療した患者が一日もたたずにまたボロボロになって顔を出したら怒りたくもなるんじゃないかな」
「ふーん、そーゆーものなんだゾ?」
「そういうものなんだぞ」
「でもかわいそう、おにぃさん……ナデナデする?」
「ありがとう、また今度ね」
医務室まで一人わざわざ付き添ってくれた狐耳の幼女の頭を逆にナデナデとする。
その豊かで柔らかな髪の感触は『俺もまたちゃんとした大人からは程遠いな』と自戒させるには十分なほど優しく。
その人肌の温かなぬくもりは『なんで俺がこんな目に……』と降ってわいたような理不尽にすさむ心を十二分に慰めてくれた。
「だいじょうぶ?」
俺に頭をなでられながら、ココは上目遣いでこちらの顔色をうかがう。
ああ、なんて無垢な眼差しだろう。
大人たちの手垢にまみれて汚れきった世界の中で、この小さな女の子だけが唯一残された純真なのかもしれない。
「ああ、大丈夫」
「ホントに?おっぱい触る?」
「……ああ、大丈夫……」
「んん?また元気がなくなっちゃったんだゾ?」
思わずピタリと止まる俺の手のひらの下で、ココが不思議そうに首をかしげる。
「おかしいんだゾ。男の人が落ち込んでる時にはこれでイッパツだってリリーちゃんが言ってたのに」
「……随分と仲が良くなったんだね、君ら……」
最後の純真になにを吹き込んでるんだあの魔女っ子め。
「うーん、それともココのおっぱいじゃ小さすぎる?アルルくらいないとおにぃさんは満足できない?」
「…………」
ペタペタと自分のまだまだ発展途上にある胸を触りながら目に見えて落ち込む狐っ子。
「えっと……まぁ……あれだよ。うん、あれ」
しどろもどろになる三十路の男。
「確かにアルルの有するソレは人類の至宝と言っても差支えのないほど価値あるものではあるけれど、だからと言ってココのようなペッタンコがダメだなんてことは決してなく、ベクトルこそ違えどそれはそれで素晴らしさの一つの形として立派に確立しているからして……」
「じゃぁ、どうぞ」
「…………」
「ん」
「…………」
「んん」
「…………」
さて、どうしよう。
俺は今、選択を迫られている。
邪念のまるで混じらないクリクリとした大きな目。
今のところ可能性だけをみっちりと詰めこんだまま面前に突き出されるナイチチ。
俺の返答次第で彼女の心に終生拭いきれないかもしれない深い傷を負わせてしまうか。
はたまたこれ幸いと言って幼子の胸部を嬉々として貪る一人の社会的落伍者が誕生するのか。
これは分岐点にして分水嶺だ。
大人としての良識、あるいは男としての度量……。
そんなものが今まさに試されようとしている。
「……じゃぁ……」
「うん」
「それじゃ……」
「うん」
「それじゃぁ……さ……」
「うん」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「……も……」
「うん」
そうして結局俺の口をついたのは。
「もう少し、大きくなったらね」
数多の小汚い大人たちがここぞとばかりに多用するような。
当たり障りのない逃げの文句だけだった。
☆★☆★☆
小汚いかそうでないか。
そもそも真っ当な大人であるかどうかすらも棚上げるとして。
ともかく俺がこの≪幻世界≫で為さねばならぬことが明確に定まった。
あのカラ騒ぎの後も、体育座りでイジケ続けるリリーを宥めすかしたり、ギャレッツとの戯れでいつの間にか開いてしまったらしい俺のほとんど治りかけの傷口から盛大に血潮が吹き出したりと落ち着く間もなく。
結局、『革命の七人』ってなんなのさ?という俺の疑問は晴れることがないまま、医務室にぶち込まれてしまった。
反ラクロナ帝国組織『革命の七人』。
そして『討伐連合軍』。
まぁ、その響きだけで察するに、ラクロナ帝国に仇なすクーデター組織と、それに対抗する組織なんだろう。
アルル達が所属……というかアルルが司令官を務めているらしい部隊の頭に『西方』とついていることから、きっとどちらも各方面、おそらく大陸全土を網羅するほどに展開された大規模な組織のだと推察できる。
「ふむ……」
……その対立構造がなんだか懐かしい。
昔、≪龍神≫なんていう暗殺集団……もとい傭兵軍団……いや、やっぱりただの社会不適合者の巣窟に属していたから、この手の生臭い話はよく耳にしてきた。
強権力による過剰な搾取に我慢ができなくなった者。
中央主義的な政治のシステムに疑問を持った者。
誰かの犠牲の上に成り立った平和を甘受できない者。
そんな平和の為に爪弾きにされたことを恨みに思っている者。
なんとなくお祭り気分の熱に浮かされた者。
ただ単に圧政からの解放という耳障りの良い言葉にほだされた者。
構成員の志の高さや本気度の違いに差こそあれ。
革命の名の下に大義を掲げ、正義を振りかざし、武力やテロリズムといった手段に訴えかけるのはどの組織も同じようなものだった。
そして勢力があるところに反勢力が生まれるのもまた常である。
革命をする側を反抗勢力とした、革命をされる側……まぁ、現政権、現政府のことだ。
そちらの側から見れば、あくまで革命組織が反勢力であり、過激な思想を持った危険分子であり、駆逐するべき明確な悪となる。
互いが互いの正義を信じ、互いが互いを害悪とみなしたぶつかり合い。
互いが互いの守りたいものを守ろうとするいがみ合い。
そんな争いの渦中こそが、俺たち≪龍神≫の主要な仕事場だった。
敵も味方もない。
正義も悪もない。
勢力も反勢力もない。
時には政府の義勇軍として革命の旗を完膚なきまでへし折る側に。
時には革命の徒として圧政者から市民を解放する側に。
積まれた報酬、請け負った条件の合致。
それらのいかんによって、俺たちは敵にも味方にも正義にも悪にも勢力にも反勢力にもなった。
大義?
志?
守りたいもの?
そんなものはない。
あくまで俺たちにとっては単なる仕事。
彼らの起こした戦争は、明日の糧を得るため以上の意味なんて持たなかった。
俺らの加勢のせいで見るからに悪辣な独裁者がその権力を強めることになっても。
俺らの助力のおかげで民主的で健全な国家への第一歩を踏み出すことになっても。
それは仕事という過程を経たうえでの結果でしかない。
そう俺たちは思っていた。
……少なくとも、俺はずっとそう思いながら生きていた。
立神零厳の、呪いにも似た教えの通りに。
―― このヒトデナシ!!悪魔!! ――
いつか、面と向かってそう言われたことがある。
あれは確か……いや、どこかは覚えていない。
特別暑くもない温暖な気候ではあったけれど、それが季節によるものなのか、はたまた緯度や経度の問題だったのかがハッキリとはしない。
真昼のように明るかったのは太陽の明かりのせいなのか、夜空を切り裂く重火器類の瞬きのせいなのかもわからない。
それでもとにかく、暖かくて明るいどこかの紛争地帯で。
顔中を煤やホコリで黒く汚した女の子が。
俺の腰くらいまでしか身長のない、小さな少女が。
泣きじゃくり、それでもキっと強い眼差しで俺を睨みながら。
舌足らずな英語で、そう言った。
―― このヒトデナシ!!悪魔!! ――
彼女からすれば確かに俺はヒトデナシのロクデナシ。
悪魔も裸足で逃げ出すような大悪党に見えたことだろう。
否定はしない。
まったくもって弁解の余地もない。
なにせ、彼女からしてみれば俺たちは、自分の家、自分の街、自分の故郷を破壊するだけの存在であり、家族や知人を巻き添えに殺すただの殺人者だ。
そこに勢力も反勢力もない。
大義も何もまったく関係がない。
少女にとって、それらは等しく害悪。
恨み言をぶつけた彼女こそが、正義や悪が目まぐるしく変わるあの場所で誰よりもブレない正しさを持ち合わせていたのかもしれない。
……それに、だ。
結局、その少女の必死の反抗に心が揺らぐでもなく、報酬を受け取るだけ受け取りさっさと次の仕事場へと向かい、今ではどこの国での出来事だったのか、あの後に彼女がどうなったのかも記憶があやふやになっている俺は。
どこまでも人の皮を被ったヒトデナシであり悪魔であり。
救いようもないくらいの、バケモノなんだろうな。
☆★☆★☆
「……おにぃさん?」
急に黙り込んだ俺の顔を、ココが下から覗き込む。
またしても『やっぱり、おっぱい触る?』とでも言いたげに揺れる、慈愛に満ちた薄紫の瞳。
本当に優しい子だ。
人の心の機微にとても敏感な感受性。
そして相手の感情に寄り添い、すぐに引っ張られてしまう共感性。
耳や鼻の利く獣人族だからというわけじゃない。
それはココという女の子が確かに持っている、純粋な優しさに他ならない。
「やっぱり、お……」
「言わせないよ」
「ふぎゃ」
少し乱暴に頭を撫でる。
クセのある暗い紫色の髪をクシャクシャしてやると、ココは痛がる素振りも嫌がる素振りもしないで楽しそうに笑う。
……あの時の少女も、きっとこんな風に大人に頭を撫でられて笑っていのかもしれない。
誰かを睨むことなく。
誰かを恨むことなく。
誰かを呪うことなく。
ただ穏やかな日々の中で、屈託のない笑みを浮かべていたのかもしれない。
その日々を奪ったのは俺。
その笑顔を奪ったのも俺。
何もあの紛争が俺一人のせいで起こったと言いたいわけじゃない。
あの争いの流れを、動乱の大きなウネリを、俺一人程度の力で止められたとも思ってはいない。
けれど、居直れない。
関係ないと開き直れない。
何かを失うことへの言い知れぬ悲しみを。
何かを奪われることへの言葉にならない怒りを。
すべてを失い、すべてを奪われてからようやく知ることのできた今の俺には。
それでも何かできることがあったのではないかという後悔がつきまとう。
『革命の七人』と『討伐連合軍』。
広大なラクロナ大陸全土を二分するような、大規模な争い。
あまりに大きすぎて正直、ピンとこない。
正直ついでに言えば、別段、ラクロナ帝国に対する思い入れも、革命組織に対する反発心もない。
現状維持に落ち着けば落ち着けばいい。
革命が成就するなら成就すればいい。
相も変わらず俺には正義も悪もない。
……だけどきっと、悲劇が起こる。
ドナの街が見舞われたような惨劇が、今度は他の街できっと繰り広げられる。
それを思うと少し妙な気持ちになる。
あの時の汚れた少女の強い眼差しが。
あの時の小さな少女の強い恨み言が。
赤い街から今までずっと抱え続けてきたこの絶望が。
ドナで俺を駆り立て、走らせたあの焦燥が。
何かを無慈悲な喪失から救い、誰かを理不尽な強奪から助け。
そして、自己満足を抱いたまま死んでいけと。
そう言っている気がしてならない。
「……もちろん、アルルへの義理立ても大きいけれど」
「アルルがどうかしたんだゾ?」
「ん?ああ、ちょっとね……」
狐っ子の頭を撫でながら、ふと頭をよぎったのは先ほどアルルが見せた静かな微笑み。
ゼノ君を仲間に引き入れるために非人道的な手段をとったラ・ウールの議会に対する不満を、目の前のギャレッツに向けた時の怒り。
白く輝く瑞々しい肌。
白銀に煌めく美しい髪と瞳。
鋭利に尖った冷やかな眼差し。
強さの下から確かに垣間見えた、儚さ、脆さ、そして危うさ……。
「なんだかまた、あの華奢な体に不相応な重荷を抱え込んでるんじゃないかと思ってね」
「アルルは別に細くないんだゾ」
「いや、細い。細くて小さな普通の女の子だよ」
「でも、おっぱい大きいし」
「……幼女の間ではおっぱいがブームかなにかなのかなぁ」
やめろよ、リリー。
この子すごく素直だからすぐに影響されちゃうんだってば。
「『革命の七人』よりも、あのなんちゃって幼女の方が危険分子なんじゃないだろうか」
「かくめいのしちにん、ってなんだゾ?」
ココがフニャンと首を傾げる。
見た目の割に理解力がある彼女にしては察しが悪い。
さっきまで話の端々に出ていたハズだけ……あ、大事なところはアンナの脚にもたれてヒヨっていたんだっけか。
「≪せんこう≫とは関係ある?」
「いや、全然、まったく、これっぽっちもサムセット何某は関係ない」
そうか、その辺りから回復していたんだな。
「……とはいえ、実は俺も詳しく知らないんだよな」
「うーん……だけど、おにぃさん、戦うんだゾ?」
「だね」
「よく知らない相手と、よく知らないまま戦って、またケガをして怒られちゃうんだゾ?」
「……だね」
今度、また医務室に担ぎ込まれるような事態になったら、いよいよあのダンディな医師から匙を投げられそうだ。
割と本気で。
「ま、そうならないために、もっと詳しく相手のことを知らなくちゃな。治療を終えた頃にアンナが迎えに来てくれるらしいから、たぶん、その後にゆっくり話を聞けるだろう」
「迎えに?おねぇさんが?」
「そう、迎えに」
「いむしつに?」
「そう、医務室に」
「でもココたち、今、いむしつにいないんだゾ?」
「そりゃ、半ば追い出されて……ん?」
「ここはどこ?」
「ココは……どこ?」
なるほど、ギャレッツの言っていた『ここ』と『ココ』の微妙なイントネーションの聞き分けが結構難しいことはわかった。
わかったのはいいけれど、本当にここはどこだろう?
ココとじゃれつきながら。
もしくはちょっとした追憶にひたりながらテクテク無意識に歩いていたけれど、ここがだだっ広い王宮のだだっ広すぎる廊下だということ以外、何の情報もない。
只でさえちょっとしたショッピングモールよりも大きな建物の内部。
壁を見ても豪奢な装飾・調度品くらいしかなく、ご丁寧な案内マップなんてかかっているわけもない。
「迷子だゾ」
「迷子だな、これは」
とりあえず俺たちは足を止め、くるりと後ろを振り返る。
そこはちょうど丁字路となっていて、同じような見た目の廊下が同じくらい真っすぐに伸びているばかりだった。
「来た道を戻る……以前に来た道がわからない」
「(クンクン)……近くで知ってるヒトの匂いもしないんだゾ」
「そっか……なら仕方ない」
実は内心で尋ね人なステッキ並みにココの鼻を当てにしていたのだけれど、匂いがしないなら本当に仕方がない。
あとは聖母ならぬ保母・アンナが遠足中にはぐれてしまった園児を探すがごとく俺たちを見つけてくれることを願うばかり……だ……?
「ココ?」
「んん?」
「知っている人の匂いはしないってことは、知らない人の匂いならしているんだろうか?」
「うん、わりと近く。とゆーか、すぐそこ」
「よかった。とりあえずその人に医務室までの道を聞いて……」
「お~っと!手が滑ったぁぁぁぁぁ!!!!!!」
ブオォォォォォンンン!
バギャァァァンンン!!
……パラパラパラ……
「…………」
「手がすべった手がすべった手がすべったぁぁぁぁ!!!!!」
ブオォォォォォンンン!
ヒラリ
ブオォォォォォンンン!
ヒラリ
ブオォォォォォンンン!
ヒラリ
「手がすべった手がすべった手がすべっぎゃう!!舌を噛んだぁぁぁ!!!」
ブオォォォォォンンン!
ヒラリ
ブオォォォォォンンン!
ヒラリ
ブオン……
……もはや避けるまでもなく剣の斬撃は虚しく空を切る。
「っくぅ!!こ、この俺が手がすべったと言っているのにどうして当たらないのだ貴様!?」
「えぇぇぇ……」
「それだけならいざ知らず、あまつさえ俺の口腔内に傷を負わせるとはなんたることだ!!さては貴様、魔術師か!?俺の知らないところで呪いでもかけたのか!?」
「…………」
……どうしよう。
どう接していいのかわからない。
まぁ、突拍子も脈略もなく斬りかかってくる人間がいることはギャレッツとの対面で学習した。
世界は広い。
広いどころか数だってたくさんあるらしい。
だから、そんな人間もいる。
問答無用でブンブンと剣を振り回す人間だって中にはいるさ。
だけどその剣が故意ではなく、あくまで事故によって振り回されたという体を頑なに固辞し続ける者。
その事故にどうして巻き込まれないのだと本気で憤慨する者。
そして、あんなに体を動かしているのに体裁を保つために喋り続けた挙句、思いっきり舌を噛んで口元から血を垂らした責任を、あんなに堂々と人になすりつける者。
そんな人間とどう向き合っていけばいいのか、俺にはわからない。
ヒトデナシの俺には……何もわからないんだ。
「ふん、まぁいい。あまりに俺の剣が早すぎて対処もできず固まってしまっていたということだろう。そして俺の舌への反撃も、窮鼠が苦し紛れに噛んだものがたまたま当たったというところか。うんうん、そうに違いない」
そして勝手に自己完結をする手が非常にすべりやすい人。
「ふっ……」
性別は男。
おそらく年齢は二十台の前半から中というところ。
中肉中背の肉を少し削り、背を少し伸ばしたくらいの体躯。
たなびく長い髪や眉毛、まつ毛の色は鈍くとも艶やかな灰色。
細められた瞳の色は輝くエメラルドグリーン。
端的に言ってかなり整った顔立ちのアゴのラインには薄っすらともヒゲは見当たらず、女性的にツルリとしている。
「ではこの懐の深い俺が慈悲を与えてやるから光栄に思うがいい、ゴミ虫よ」
マントみたいな物も含め、細部の刺繍にまで趣向を凝らした豪奢な衣装に見合うような高慢で居丈高な態度。
「今から俺がもう一度手をすべらせる。いいか?手をすべらせるからな?だから貴様は無駄な足掻きなどせずその場でジッとして、俺の手がすべって振り下ろしてしまったこの聖剣に真っ二つにされるんだ。いいな?二度は言わないぞ?」
「……ねぇ、おにぃさん?このヒト何を言ってるんだゾ?」
「……わかんない。……聞き返したいけれど、二度は言わないらしいしなぁ……」
性格や人間性、それらの歪みがそのまま口をつく訳の分からない言葉はともかく。
一目でこの男が普通の立場の人間でないことは理解できた。
そして一目ではなく。
よくよくその整った顔立ちや、キラキラとした華やかさ。
無意味に格好をつけて強がる高慢な態度を観察してみると……。
なんとなく知っている誰かに似ているような気がしないでもないような……。
「それでは『せーのっ』でいくぞ?いいか?『せーのっ』だ『せーの』じゃない。間違えるなよ。『の』の部分じゃないぞ。『せーの』と言って『っ』と半拍ほど置いてからだ。いいか『せーのっ』だぞ『せーのっ』。もう二度とは言わないからな」
「頼むからもう二度と言わないで」
もう頭の中で『せーの』がゲシュタルト崩壊気味だから。
ああ違う。
『せーのっ』だったか。
「よしよし、ではいくぞ?いくからな?いくぞ?本当にいくぞ?」
「……熱湯風呂?」
「やや!!手がすべったぁぁぁぁ!!」
「あ、そこからなんだ」
律儀だな。
「せーのっべしぃぃぃぃぃ!!」
ドバァァァァァンンンン!!!
パリィィィィィィンンンン!!
「あああああぁぁぁぁぁ……(ひゅーん)……」
「…………」
「おーすまんすまん。手がすべったのじゃ」
『せーの』から半拍ほど置いて。
目に見えぬ圧力(たぶん魔術)を受けた男が錐もみ状態のまま吹き飛び、そのまま窓を突き破って外へと落ちていった。
「まったく、この国の王宮には変人か狂人しかおらんのか?」
「……それ、私も含んでます?」
「あ、おねぇさんとリリーちゃんだ」
と、ココが嬉しそうな声を上げる通り。
俺たちの背後にアンナとリリーがそれぞれ複雑そうな表情を浮かべて立っていた。
「これマスター、勝手に出歩くでないわい。我が直々に迎えに行ったというのに」
「……ああ、ごめん」
「我以外の幼女を無断で連れ回すからあんな風に抹殺されそうになるんじゃぞ?」
「……字面的には確かに抹殺されそうな行為だな、俺」
主に社会的に。
「えっと……とりあえずあのキラキラしたのは大丈……」
「くぅぅぅ!!またしても貴様、奇怪な魔術をぉぉ!!」
「あ、大丈夫そうだな」
どうにか窓枠にへばりついていたらしい男が、息も絶え絶えになって廊下へと上がってくる。
「俺が剣のみで斬りかかっているというのに卑怯だぞ、ゴミ虫!!」
「斬りかかってるの認めちゃったよ……」
「こ、この≪ラ・ウールの閃光≫たる俺の剣技は卑劣な輩を切り刻むためにあるのだ!!」
そして、それ何某の二つ名だからね。
「もう一度!!仕方がないからもう一度だけ慈悲を与えてやろう!!それで今度こそ貴様を……」
「せーの」
ドバァァァァァンンンン!!!
「おのれぇぇぇぇぇ!!!!……(キラン☆)」
妙にキラキラとした男は、俺へのギラギラとした殺意もそのままに。
キラキラ星となって消えていった。
「あ、半拍置くんじゃったな?すまんすまん」
「リリーちゃんスゴイんだゾ♪」
「えー全然大したことないよぉ。ホント全然勉強してなかったのにまたまヤマが当たっちゃっただけなんだってぇ~」
「スゴイ、スゴイ♪♪」
「えっと……アンナ?」
「はぁ……本当に私、そんな役回りが定着してますね……」
不機嫌そうに眼鏡の弦をいじくる才女。
それでもいい加減慣れてきたのか。
はたまた一種の諦観を身に付けたのか。
ただ名前を呼んだだけで俺の疑問を察し、それに合わせた答えを与えてくれる。
「……アレは……こほん……あのお方こそ、姫様の実兄にしてラ・ウール王国の第一王子・ナルル=テンペスタ=ラ・ウール様であらせられます」
「……アルルの……お兄さん?」
「はい、信じがたいことに。高貴にして高潔、可憐にして才色を兼ね備えた完璧な女性であるところの姫様と同じ血が流れているとは思えないのですが、紛れもなく直系の王族。それもおそらくは次代の国王になられるお方です。……信じがたいことに」
「最初と最後の一文で、どうして立場的に止めに入らなくちゃいけないハズの君が傍観していたのかがわかった」
「大丈夫。殺しても死なない方ですから」
「言い方よ」
「……大丈夫。打たれても打たれても懲りずに飛び出してくる杭ですから」
「言い方」
相当嫌いだな、これ。
まぁ、なんか見るからにアンナと相性悪そうだもんな、あの王子様。
「こほん……余計な時間をくいましたが、そろそろ行きましょう」
「……そうか、ようやくちゃんとした話を聞けるわけか」
「はい。玉座の間にて姫様がお待ちです」
「ちなみになんだけど、玉座の間っていうのはここから遠いだろうか?」
「……いいえ。驚くことに、次の廊下を曲がった先なのですよ、これが」
「もってるなぁ、俺」
「その、もっているあなたに……姫様も……そして私も期待しています。……しかし、本格的な戦いが始まる前にこれだけは言わせてください……」
「うん?」
「無茶だけは……しないでください」
「……ありがとう」
「本気で言っているんですからね?」
「わかってる。だから、ありがとうだよ、アンナ」
「……本当にわかっているんだか……」
「それに、ほら。えーっと、凄腕の≪閃光≫さんもいるんだろ?なら、俺なんて隅っこに追いやられて出番なんかないかもしれない」
「それこそわかりません。戦いと言うものは得てして水モノ。終わってみるまでは何一つ確定することはできないのですから」
「今さっきの≪ラ・ウールの閃光≫みたいに?」
「あれは自称ですから、気にしなくてもいいです」
「あ、自分で考えたんだ、あれ」
「ちなみに、『テンペスタ』というミドルネームも、幼き頃に姫様とお揃いにしたくてナルル様が自分でつけた特に深い意味のないお飾りです」
「…………」
この胸に去来する感情を何に例えよう?
久しく潤んだことのない涙腺が震えるのは気のせいか?
うん、何故だか一方的にすごく嫌われているみたいだけれど、俺は割と好きだよ、君みたいな男。
だからいつの日か……。
また互いの運命が交わり、縁が再び結ばれた時には大いに語り合おう。
それまではしばしのお別れ。
たとえ自称であったとしても。
同じ≪閃光≫の二つ名を持つ……えっと……なんちゃら何某さんが遥か北の大地の草葉の陰からきっと、生ぬるい目で見守ってくれるはずだから……。
あ、草葉の陰は不謹慎だったか。
それじゃまるで、もう≪閃光≫なる北の大英雄が。
もうこの世にいないみたいじゃないか……。




