第五章・その男、漢につき~ARURU‘S view③~
「…………」
言葉が出てきません。
「…………」
言葉を見つけられません。
「…………」
言葉になってはくれません。
……守ろうとしていたのはきっと、イチジ様のことというよりもむしろ自分のことだったのでしょう。
規格外の魔力保有量。
常人よりも長けた力学の運用法。
しかし初歩的なものでさえ発動されない魔術。
≪龍神の子≫と呼ばれた命。
≪龍遺物≫によって繋ぎ止められた魂。
≪獣化≫という己の内面へと掘り進むことによって強化される肉体。
まるで何かの贖罪のように自分をないがしろにするタチガミ・イチジの生き方。
まるでどこかに自分を運んでくれる強い風を待つ灰のように危ういタチガミ・イチジという在り方……。
幾つかの状況証拠とこの目で実際に見てきた幾つもの根拠によって裏付けされた一つの答え。
アンナから昨日の顛末を聞かされた時、真っ先に閃きつつも黙殺し、封殺してしまった一つの可能性……。
「にょっほっほ」
本能が限りなく意識的に近い無意識という形をとって忌避したそんなものを、かつて≪稀代の性悪≫と世界から称された幼女は、その二つ名に恥じぬ意地の悪い魔女的な笑い声とともに容赦なく突きつけてくるのです。
「図星をつかれた人間がとるリアクションは大まかに言って二つ。怒るか恥じ入るかのどちらかなわけじゃが……さてはて、お主はどっちかのぉ?」
「――っつ!!」
「お~こわいこわい。なんちゅー目をして睨んどるんじゃ。マスターの前で猫を被らなくてよいのか、小娘よ?」
「……黙ってください……」
「ほう、黙ってよいのか?ともすればなかなかに残酷な真実をマスターへと宣告しなければならないその悪役、我に丸投げにしようと話を振ったのではないのか?」
「……なっ……そんなわけ……」
「いやいや遠慮せずともよい。想い人への愛ゆえ、さぞや荷が重かったことじゃろう?ん?」
「……黙って……」
「なに、こんな性分じゃからのぉ、昔からそういった持ち回りには慣れっこじゃよ。憎まれ役も恨まれ役も、それはそれは華麗に完璧に完全に熟してきたもんじゃ。『必要悪』の役割を担わせたら後にも先にも右にも左にも並び立つ者はいないじゃろう。だから安心するのじゃ。お主はそのまま灰も泥も被らず、シミ一つもない、白雪のごときお姫様の皮だけを被って王子様と幸せに暮らしておればよい。悪い悪ぅ~い魔女にすべての穢れを押し付けて……の」
「っつ!黙りなさい、リリラ=リリス!……それ以上は……それ以上は侮辱として受け取りますわよ」
「なにが侮辱か。なにを恥じ入るか。我はただ無能ぶりたい小娘の可愛げを最大限尊重しているだけじゃよ。前に言ったじゃろ?我は恋するオナゴの味方……」
「っっこんのぉ性悪っっ!!」
あくまでも不敬。
どこまでも不遜。
全知で全能の大魔女だかなんだか知りませんが、わたくしの心の弱さを見透かしあげつらうように、言葉とは裏腹なせせら笑いを上げるリリラ=リリス=リリラルル。
「わたくしだって……」
「アルル」
「わたくしだって!!」
「アルル」
その態度に激昂寸前という絶妙なタイミングで、イチジ様がわたくしに呼びかけます。
「……イチジ様……」
「アルル、落ち着こう」
いさめるわけでも押さえつけるわけでもない、静かな声。
「ただからかい以外、リリーに他意はないさ」
諭すわけでも慰めているわけでもない、淡々とした口調。
そうしてわたくしを正面からジッと見つめるイチジ様の瞳の相も変らぬ無感情が。
それでいて、わたくしの胸の内にスルリと入り込む優しい瞳が。
そして、やはり……。
「…………」
これ以上ないくらいに燃え尽き、あとはただ終わりを待つだけというような佇まいが。
わたくしの荒ぶる心に、小さな痛みと、穏やかな凪を同時にもたらしてくれます。
「……ええ、そう。そうでした。このちんまい魔女っ子のひねくれ具合に腹を立てたところで今更でしたわね」
「なんじゃ、もう噛みついてはこんのか?面白くないのぉ」
「しかし、イチジ様?……こればかりは……この件に関してばかりはリリラ=リリスの態度はあまりに不謹慎に過ぎますの」
「ありがとう。それはたぶん、俺の為に怒ってくれていたんだろうな」
「にょっほっほ。よいのぉ~。それもまた、ひとえに愛がなせる……」
「リリーも」
「ふみゃ」
「さすがにおふざけが過ぎるんじゃないか?」
また軽薄な笑いにかたどられた口から零れそうになった軽口。
それをイチジ様が懐に抱いたまま彼女の両頬をつまむことで未然にせき止めます。
「他意はないと言ったけれど、さっきのはいつものイジリとは違って少しだけ本気、入ってたろ?そして、なんだろう?俺への不満かな?その八つ当たりみたいなのもあったんじゃないか?」
「みゃってぇ~~~」
「だってじゃない」
「みゃみゃひかひぃ~~」
「だがしかしじゃない」
「ひかひぃみゃらら~~」
「しかしながらでもない」
「ぶぅぅぅ~」
「可愛くぶぅたれてもダメ」
「むむむぅぅ……」
「謝った方がいい。これからもアルルとは付き合いが続くんだろうし、変なしこりは早めに取り除いておくに限る」
「ぶぅぅぅぅ~~~~~」
「可愛い。可愛いけどダメ」
なんとも珍しい光景に、わたくしは自分の怒りも忘れて驚いてしまいます。
あの常時掴みどころのない幼女がハッキリと不満げな顔をして不貞腐れ、ないはずの掴みどころをガッチリと掴んでイチジ様がお説教を述べているのです。
どこまで本気なのかわからずともイチジ様至上主義を掲げて彼を守り、導き、何にでも肯定的であるリリラ=リリス。
たぶん、どこまでも本気で猫可愛がっているのと同時に、その存在の偉大さだけは確かな幼女への敬意を決して忘れないイチジ様。
かたや二千年前の世界に息づいていた者。
かたや近くて遠い異世界に生きていた者。
導く者と導かれる者。
隷属する者と隷属される者。
世界を創った者と、世界を創られた者。
……改めて考えてみれば不思議な縁で繋がった二人。
それ以上に不思議なくらい強固で閉塞的で完結的に築かれた、他者が入り込む余地もない二人の絆に、実はわたくし、密かに嫉妬していましたの。
幼女は幼女でベタベタと。
イチジ様はイチジ様で甘々と。
男女間で紡がれた恋情とは違う。
親兄弟の間に漂う親愛の情ともまた少し違う。
「どうして我が謝らないといけないんじゃ?」
「そりゃ、リリーが意地悪するからだろ?」
まだまだ若輩のわたくしには、それを的確に表す言葉が見つけられないのですが。
しかし、確かに強い何かで結ばれた二人が、こんな風に言い争っているなんて本当に珍しい……いえ、もしかしたら初めてなのではないでしょうか?
「ふん、なんじゃなんじゃ。イっくんも所詮ただのオスだったということか。結局は若くてピチピチしたオナゴの方がいいということなんじゃろ?」
「いや、それを基準にしたら君以外は周りほとんど敵だらけになっちゃうけれど」
「何を言ってもこの小娘の味方をする気じゃろ?」
「そんなことはないさ」
「どうせ乳の大きさイコール正義みたいなところがあるんじゃろ?」
「それは否定できない」
「三ターンで論破しちゃったのじゃ!!」
「俺の完敗だ」
「何て悲しい勝利なのじゃ……」
「所詮は俺もただのオスだってことだよ」
「ぶぅぅぅ~~ぶぅぅぅ~~」
「あ、でもそれはやっぱり可愛い」
「ぶぅぅぅ~~ぶぅぅぅ~~ぶぅぅぅ~~~~~!!」
「かぁいい」
「……じゃぁ、我、悪くない?」
「うん、君は何も悪くない」
「やっぱり甘々!!」
ダダ甘じゃないですのイチジ様。
朝令暮改どころか舌の音も乾かぬうちに主張が真逆へと覆りましたの。
「なんなんですの、この茶番……」
「まさにドンデン返しの展開じゃな」
「怒涛の伏線回収もなんの爽快さもないですけれど……」
「ところでドンデンってなんなのじゃ?響き的には一人暮らしの男の手料理を連想してしまうのじゃが?ほれ、ドン!ときてデン!みたいな」
「安くて早くて美味いんだよな、焼肉丼。週四で作ってた」
「ほぅ、以外に料理男子なんじゃな、マスター?」
「料理というほどちゃんとした物は無理だけど。残りの週三は大体ヤキソバだったし」
「週七で茶色じゃな。まさにドンデンという感じじゃ」
「一応、彩に紅ショウガは添えてたよ。業務用サイズで買ったヤツ」
「むしろ持て余した紅ショウガの消費ありきで組まれたメニューじゃろ、それ?」
そんなイチジ様に通い妻して栄養管理をしてあげたかったなという話や、さきほどまでの口論などまるでなかったかのように耽る男子ご飯談義、まるで丼とは関係のないお芝居の舞台装置たるドンデンのことはともかくとして……。
「……かのリリラ=リリスにも知らないことがあったんですのね?」
「いわゆる、何でもは知らないわよってやつじゃの」
「そのネタを知っている方がどうなんですの……。それにどちらかといえば何でも知ってるお姉さんの方でしょう。あなたの立ち位置は」
「いやいや、あくまでも知ってることだけですよ、アルルギさん?」
「ここは絶対に噛んではいけない場面!!」
「失礼、蟹は見た」
「なにを見たんですの!?」
さりげに『蟹』を混ぜてくるあたり、やっぱりあの物語を知り尽くしてるじゃないですの、この伝説上の生き物……。
「まぁ、だから知っておるんじゃよ、我は」
「え?」
「見て、聞いて、触れて、確かに知ってきたことだから、我は知っておる」
ふざけた調子から唐突に切り替わる声のトーン。
「お主がそれほど弱いオナゴでないことは……な」
「ちょ……え?」
殊更にリリラ=リリスは目を細めます。
さきほどまでの嘲るような様子などまるでなく。
むしろ生ぬるくさえ感じるほど柔らかな眼差しで突如見つめられたわたくしは、またしても言葉を失くしてしまいます。
「たかだか数か月とはいえ、それなりに濃密な時を共にしてきたのじゃ。お主が清廉で公平で、若さゆえに夢見がちなところもあれど基本的には徹底したリアリストであることは重々承知しておる」
「…………」
「さきほど言いかけとった『わたくしだって』の続きはなんじゃ?さしずめ無垢な姫などではあるはずもないといったところかの?とっくにその手は穢れのネバつくような感触を知り、その目、その耳はこの世の醜悪を確かに見聞きしてきたと」
「……はい、その通りですわ」
ええ、まったくもってその通り。
魔獣や魔物、時には人間。
放っておけば害悪となる者たちばかりだったとはいえ、生きとし生けるその命を刈り取った感触を、この手はもう知っています。
我欲に私欲、あまたある身勝手な欲。
王族の一員として幼い頃から社会とかかわり合ってきたこの目とこの耳は、世界が何も美しいものだけで成り立っているわけではないことをもう知っています。
命の強さと脆さ、尊さを知っています。
背負うばかりで下すことの叶わない、罪の重さと業の深さを知っています。
誰かを見下す下卑た笑いを知っています。
誰かを悼んで涙する嗚咽を知っています。
身を焦がすほどの情念を知っています。
身が凍えるほどの孤独を知っています。
この世の不条理を、理不尽を、摂理を、摩訶不思議を知っています。
世界の公平さを、不公平さを、平等を、不平等を知っています。
……ええ、そうです。
わたくしは知っているのです。
民と娘とをかけた秤を決してどちらかに傾けることのない父の器の偉大さを。
すべてを失ってもなお一人生かされた命を繋いでいかなければならない彼の苦悩を。
ただ人々の為に世界へと身を捧げた白銀の輝きを。
ただ一人の為に世界さえ創り上げた黄金の煌めきを。
知らないふりなどできるわけがありません。
彼らの想いの一途さと美しさ、そして何よりも想いの強さを知ってしまったわたくしはもう……。
誰かの庇護の元で穢れや醜さから遠ざかったお城の奥、白雪のように無垢なお姫様のままただ生きていくわけにはいかないのです。
「我はな?お主が思っているよりもずっとお主を買っておるのじゃよ」
わたくしの不安な心情を励ますような柔らかな声色を向けられます。
そう、それはまるであの時……。
新たな魔法の創造という大役を突然押し付けられて戸惑っていたわたくしに道を示した時のよう。
威厳味に溢れる彼女の声に自然と背筋が伸びてしまいます。
「なまじ頭が廻るゆえいとも容易く答えを弾き出す。しかし、まだまだ甘さを捨てきれず、見えている辛辣な現実に見えないふりをしてしまう。最短距離を進めるはずであるのに自ら脇へとそれては迷い続ける。合理的でありながら、非合理でしかない感情を優先して振り回される。世界の無慈悲を知りながら、それでも世界は優しいのだと信じている。人間の醜さに嫌気がさしながら、それでも人間の放つ輝きを心の底から信じ、愛している。……リアリストであると同時に、同じくらいのロマンチストでもある、そんなお主のことを我はとても愛おしく感じる」
「えっ……と……」
ドキリ、心臓が一度だけ大きく跳ね上がります。
まさかあの性悪幼女から、こんなに真っすぐな瞳で、真っ向から気持ちをぶつけられる日が来るだなんて……。
「だから、さっきはちょいと腹が立って意地悪を言ってしまったのじゃ。うむ、これは我のワガママなんじゃろう。目をかけた者がそこらの有象無象の小娘と同じレベルのところで停滞し、弱さや甘さを是とし、満足して欲しくはなかったんじゃよ、我は。感情に流されてもいい、優しさにほだされてもいい、目をそらしてもいい、盛大に泣き言も弱音も愚痴も言ってもいい。……じゃが、それきりには決してならないで欲しい。情にかられず、余分な忖度を交えず、ありのまま。相手を傷つけてしまうから手を伸ばさないのではなく、傷つけてしまうことを承知の上で向き合わなければその者にとって救いとはならない場面というのは割と頻繁にある。経験上な」
「……はい……」
「あるいは当人以上に自分が傷ついてしまうこともあるじゃろう。誰かを殴れば自分の拳が痛くなるというやつじゃな。おまけに罪悪感まで余計に抱えなけなければならないんじゃから、誰かを本当の意味で救おうとするならば、相応の覚悟と傷を恐れずに踏み込まなければいけない強い意志を持たなければこちらの身がまずもたない。……じゃからなんじゃろうな。いつの時代でも世の中から争いの種がついぞ絶えないのは、そうして他人の懐のもっと奥まで入り込んでいく勇気と余裕を持てず、互いに理解し合えないヘタレ共が多すぎるからなんじゃと我は思う」
「……はい……」
「ま、そんなこんなを踏まえてじゃ小娘……」
そしてリリラ=リリスはその小さな体をズラしてイチジ様と正面から向き合うような姿勢となり、そっと彼の頬に手を添えます。
「お主にはもっとコヤツに踏み込んでもらいたいんじゃよ」
「リリー?」
「まったく……無茶ばかりしよってからに我がマスターは。不満……とお主は言っとったが、それはもう大いに不満じゃよ。大いに多くて、多くて大きい多大なる不満じゃよ。結構、怒ってるからね?我」
小さな体に似合った小さな手のひら。
語気こそ強けれどそれがイチジ様の男性的な固い頬を愛しそうに撫で上げます。
「リンクしておる我のところまでハチャメチャな魔力が流れ込んできて大変じゃったぞ?一晩かけてこちらからカウンターの魔力を注ぎ込んだから一先ず落ち着いたとはいえ、あのままでは全身全霊、骨の髄から精神の根っこまでドラゴンの魔力に食われるところじゃった」
「……ごめんなさい」
「カウンター……だから右腕に巻き付いて寝ていたんですのね……」
「かつての覇王の成れの果て、しかもその極々一部とはいえ、この魔素で構築された≪幻世界≫の象徴的な存在だったものじゃ。本来ならば一介の触媒になどでは留まらず、瞬く間に依り代の魂を食らって現界してしまうほど強烈なものなんじゃよ、あれ」
「ではやはりあの時……ドナでわたくしの前に現れたドラゴンは……」
「あのエセ医者の男の魂と肉を糧にしたものじゃ。『宝玉』を使った簡易的なものとはいえ≪空間誘導≫で別次元に飛ばしたわけじゃが、癒着しきっていなかったドラゴンの牙だけが残り、アヤツの肉体は服の切れ端一つ残らんかったじゃろ?あれは要するに、もはやあの医者の存在ごとドラゴンに上書きされていたということに他ならないんじゃよ」
「じゃぁ、俺もそのうち上書きされてしまうんだろうか?」
「確実じゃな」
「確実かぁ」
「うむ、放っておけばそう遠くないうちにマスターの魂……タチガミ・イチジという存在そのものがドラゴンへと取って代わってしまうじゃろう」
「……なるほど」
「…………」
そう、それこそわたくしがずっと懸念していたこと。
それこそが、リリラ=リリスが事も無げにイチジ様へと突き付けた残酷な真実。
≪龍遺物≫を取り込んだジョルソンさんの背中に大きな翼が生え、肉体的にも精神的にも人間性をどんどんと失い、挙句にはドラゴンそのものに成り果ててしまった過程を見ていたわたくしは、いずれイチジ様も同じ道を辿るのではないかと恐れ、忌避し、直視してこなかったのです。
ええ、恐れ。
言葉にしてしまうことで、それが確定してしまうのが何より怖かった。
イチジ様があの時相対したジョルソンさんの浮かべていたような虚ろな瞳でわたくしを見やるのではないか?
有無も言わせずこの≪幻世界≫へと招き、選択もさせずにその命を無理やりに繋いだ挙句に怪物へと変質してしまう種を植え付けてしまったわたくしを、恨みがましく睨むのではないか?
それが、本当に本当に……怖かったのです。
「……っく……」
「にょっほっほ。今日はいつもすまし顔してる小娘の色んな表情が見られて面白いのぉ」
やはりいつも通りの軽薄な笑い声。
いつも通り、何も考えていないような陽気な笑い声。
不謹慎……とはもう言えないでしょうね。
「安心せい。あくまでも飲まれてしまえばの話、じゃよ」
だってこの笑いは、わたくしを小馬鹿にしたものではなく、おそらく、不安や怒りのためにコロコロと百面相を繰り返すわたくしを、その軽さと薄さと明るさでもって安心させようとしているものだったのですから。
「あのエセ医者がああもあっけなく食われてしまったのは、アヤツにその器量……というか資格がなかったがため。そして凡人の独学にしては随分といい線をついていたものの、ドラゴンの魔力と己の魂とを同化させる術が根本的に間違っていたがためじゃ。その点でマスターは懸念すべき項目をすべてクリアしとる。隙あらば食らいつくそうとギラギラ目を光らせてはおるが、今のところマスターの魂の方が圧倒的に優勢じゃ。……使い方によってはお主の方でソヤツを食らい、『力』として活用し存分に振るうことができるくらいにはな」
「『力』?」
「そう、これは紛れもなく『力』じゃよ、マスター。お主が渇望してきたもう誰も失わないための『力』。迫りくる害悪を、躍りくる諸悪を、降りかかる理不尽を、忍び寄る不合理を……マスターにとって敵となるあらゆるものを打倒し、駆逐し、屈服せしめる膨大な『力』じゃ」
「なるほど……」
「そんなわけじゃ。いつぞやの朝の修練の際に話をした時の答えじゃが、お主にはこれだけ言えば十分じゃろ、マスター?」
「……ああ……そうだな」
イチジ様がまたグッと拳を握りこんだ右手を見つめます。
そこにある何かに触れるように。
そこにある何かと対峙するように……。
「なんとなく、見えてきたかもしれない」
「あとはお主のこれから次第じゃ。飲まれるのも飲み下すのも、消えるのも在り続けるのも、な」
「ありがとう、リリー。やっぱり君はすごいな」
「にょっほっほ。いやいや、お主も大概じゃよ?」
……ああ、これです。これですわ。
この断片的な言葉だけで妙に通じ合う二人に、わたくしは嫉妬していたのです。
「一見しただけで≪獣化≫の理を解明して即再現、さらには我の話だけで不足分を補いもう相当な手ごたえを感じ取るんじゃないか?」
「だからまだ、なんとなくだってば」
「天才とはまた毛色が全然違う理解力の早さ。……いや、適応力とか順応力の類かの?外に外に腕を伸ばしていく『覇道』ではなく内に内にひたすら沈み込んでいく『求道』をその若さでほぼほぼ極めとる」
一を言えば十わかり、十を言えば百わかるような一体感。
まるで体を寄せ合っている今の距離感のように、ぴったりとくっついた二人。
……近くにいるのに、決して触れ合うことのない、わたくしのこの立ち位置もまた、イチジ様との心の距離感をそのままあらわしているかのようですわね。
「う~~ん、久しぶりに説明キャラになったら体が凝ってしまったのぉ。どれ、我も少し体を動かそうか」
ぴょんと、イチジ様の膝の上から飛びのいて、リリラ=リリスは芝生の上に立ちます。
そして彼女は、少し離れたとこで相変わらず無邪気に花園を駆け巡っているココさんとそれにつきそうアンナの元へ向かおうとします。
「ちょ、ま、待ってくださいまし、リリラ=リリス!!」
「なんじゃ?まだ何か聞きたいことでもあるのか?」
「肝心なことをまだ聞いていないですわ」
「んんん?」
「どれだけ魂の力関係が優位でも、そしてそれを抑え込めるだけの算段があったとしても、その侵食は続いていくんですわよね?イチジ様が……存命な限り?」
そうです。
わたくしが危惧していたよりも緊急性はないとのことですが、それはあくまで抑え込む条件が揃っている間だけの話なのです。
言ってみれば導火線に火のついていない爆弾を抱え続けて生きていくということ。
何がきっかけで条件が脅かされ、何を火種として爆ぜ飛ぶかわからないという懸念が常に付きまといます。
なのでわたくしとしては、もう少し具体的な対処法を知りたかったわけなのですが……。
「うーん、まぁ、大丈夫じゃろ」
と、リリラ=リリスはあっさりと言い放ちます。
「え?で、ですが……」
「我がみすみすあんな羽虫風情の餌にするために、あの時マスターの体に牙をぶっ刺したと思っておるのか?」
「……俺、ぶっ刺されたの初耳なんだけど?」
「何の意味もなく、あんなに太くて大きくて凶悪に長い物がマスターを串刺しにしたと思っておるのか?」
「俺、知らないうちに掘られたの?」
「……そういうわけでは……ないのですけれど……」
「では、こちらはお主の宿題じゃな、小娘?」
「……宿題?」
「材料は出揃っておる。あとはそれらと真摯に向き合い、ひたすら考えることじゃ」
「……『求道』というものですか……」
「マスターにはマスターの、小娘には小娘の考えるべきことを考えていけば、自ずと誰もが望む答えへと収束していくじゃろうて。にょっほっほ~~」
そんな予言者めいたことを言い残して去っていくリリラ=リリス。
その小さな後ろ姿がアンナの背中へと思い切り飛びついて驚かせているのを、わたくしとイチジ様は黙って見届けます。
「……お茶、お飲みになりますか?」
「ああ、頼む」
保温性に優れた陶器のポットに入れはいましたが、さすがに心持冷めてしまった紅茶を注いでいきます。
トクトクトク……
少し濃くなった茶褐色。
ミルクを淹れれば丁度いいくらいの苦みでしょうか。
トクトクトク……
しかし。
「…………」
「…………」
これくらい渋みが前に出いた方が。
今のわたくしたちには丁度いい塩梅だったのかもしれませんね。




