第8話 悪魔を伴う旅立ち
国境を越えてしばらくすると日が昇り、右足を踏み出した俺は転倒した。
「うわっ!」
「あいたぁ!」
うつ伏せに倒れると同時に、背中からは呻きが聞こえる。
「なにをしているんだレイヴンっ! 顔をぶつけたぞっ!」
「足が急になくなったんだ」
体も重い。
両手をついてよっこせと起き上がり、地面に尻をついた。
「なんだ? じじいに戻ってるぞ」
手足の筋肉が痩せ細り、衰えている。
これは不愉快なほどに見慣れた、年寄りの身体だ。
「若いのは夜だけと言ったろう。忘れたのか?」
「ああ、そういえば……」
そうだったと思い出す。
しかし、こんなにも身体が重かっただろうか?
昨夜は一晩中、モンモンを背負って歩いたというに、今のいままで疲れを感じなかった。
年寄りに戻った今は一歩も動けない。
「杖を持ってくるんだった……」
とりあえず街道の脇へ座って一休みする。
杖なしで歩くのはつらい。
夜までここで時間を潰そうと思った。
「腹が減ったぞレイヴン。飯を食わせろ」
「昨日、魂食ったろ」
「あれは冗談だ。魂なんか食えるか」
「冗談かよ」
「当たり前だ。そんなものあるのかもわからん」
悪魔は魂を食らうものと聞いていたが、どうも違うようだ。
「昨日からなにも食べてない。飯は毎日食うものだ。早く食わせろ」
「ああ、まあ、そうだなぁ」
確かに俺も腹は減った。
昨日、こいつからもらったパンはクリスタスの死体と一緒に置いてきちまったし、禄に旅支度はしなかったので水も無い。
あるのは小銭と安物の剣くらいだ。
「メシー、メシー。飯を食わせろー」
「痛いっ痛いっ! 髪を引っ張るなっ! 少ないのに抜けちまうだろっ!」
若いころはあれだけあった髪もすっかり薄く、ついでに白くなった。
今さらになって女にモテたいわけでもないので、別にハゲてもいいが、髪を抜かれていいなんてこともない。
「その辺でカエルでも捕まえて勝手に食えよっ」
「カエルなんて気持ちの悪いもん食えるかっ! 馬鹿たれっ!」
「悪魔のくせにカエルも食えないのか」
「悪魔をなんだと思ってるんだお前は」
まあ、俺もカエルは好きじゃない。
よっぽど食うのに困ったときしか食わない、非常食みたいなものだ。
「肉が食いたいぞ。鳥とか牛の」
「こんな町も村もないところで、そんなもの食えるわけないだろ」
ついでに金もあまり無い。
町や村があっても、食べ物は買えないだろう。
「金は持ってるか?」
「持ってるわけない。悪魔が人間から物を買うと思うか?」
「俺に施してくれた金とかパンはどうしたんだ?」
「あれは盗んだのだ」
「あそ」
まあ悪魔だしなぁ。そりゃ盗みもするだろう。
特に驚きも、非難する気もなかった。
「このままじゃ、腹が減って死んでしまうぞ」
「悪魔が空腹で死ぬのか?」
「死ななきゃ腹など減らないだろう」
それもそうだが……。
悪魔とは人間とかけ離れたバケモノのように思っていた。
醜悪で残忍。
人間を殺すことに快楽を覚える怪物。それが悪魔のはずだ。
しかし、このモンモンという悪魔は、悪魔のくせにやたら人間くさい。
「父を殺した上にわたしまで殺すきかレイヴン……」
「餓死を俺のせいにされちゃたまらん」
もしやこいつ、俺をからかっているのでは……。
「ひぐっ……ぐすっ……」
「えっ?」
モンモンは立ったまま俯き、涙を流し始めた。
両の拳はギュッとスカートの裾を掴み、目から雫をこぼす。
「悪魔が泣くなよ……」
「腹が減ったのーっ! 飯食うのーっ! ううっ……」
子供か。
……しかたないな。
「わかったよ」
「飯を食わせてくれるのか?」
上目遣いでモンモンはチロと俺を見てくる。
「これから獲りに行ってやる」
「カエルは嫌だぞ」
「なら、ヘビかウサギだな」
「ヘビは嫌だ。ウサギは……かわいそうだぞ」
「じゃ草でも食ってろ」
わがままでイライラしてきた。
なんで俺がガキの面倒を見なきゃならないんだ。
「まずいぞ……」
「本当に食うな、馬鹿」
草を吐き出したモンモンは俺を一瞥し、それから静かに蹲ってしまう。
おとなしくなったのはいいが、どうにもこのままでは気まずい。
「……魔物退治でもするか」
「あんなものをわたしに食えというのか? 嫌だぞ。カエルのがましだ」
魔物とは悪魔の体液や排泄物からできる異形のモンスターである。
つまり悪魔がこいつらを食うとは、人間が他人の糞を食い、血を飲むとの同じこと。
モンモンが嫌がるのは至極、当たり前であった。
「食うんじゃない。奴らからとれる爪や牙は売れば金になる。金があれば町か村で飯が食えるだろ」
魔物からとれる採集品は武具や薬、錬金術の材料としてそこそこの値段で売れる。
特に血液からできた魔物は上級で、採集品もレアもの扱いだ。
「なるほど。それは名案だ」
「ああ。だから魔物を出せ」
こいつはたぶん高位の悪魔だ。
魔物を出させて退治し続ければ、一生遊んで暮らせる金が手に入る。
旅の金に困ることはなくなるだろう。
……だが、悪魔のモンモンは眉尻を下げて渋い顔をする。
「わたしが魔物を? お前はなにか勘違いをしているぞ」
「なにがだ? 魔物は悪魔の血や排泄物からできるんだろ? お前が出して俺が倒せば儲けられる」
「体液や排泄物が魔物になるのは男の悪魔だ。わたしは女だからならないぞ」
「えっ、あ……そうなのか」
……知らなかった。
「だいたい、今のお前に魔物を殺せる力があるのか? 立てもしないのに」
「ああまあ……そうだったな」
昼間は乞食しかできない、無能な年寄りなのをすっかり忘れていた。
それでも、右足があれば水場くらいは探しに行けるのだが……。
「昨日、俺の腕を治してくれたみたいにこの右足も治せないか?」
右足があれば昼間の移動も今よりずっと楽になるになるのだが……。
「傷は塞げても無いものを作ることはできないぞ」
「けど、夜は右足もある」
「それは契約の力だ。お前は夜にだけ若さを取り戻す。昼間は契約外だ」
そういうことらしい。
俺は納得し、昼間の右足は諦めた。
「飯はどうなるのだ?」
「夜になったら魔物を探しに行く。それまで待て」
「ううっ……」
「泣いたって他にどうしようもないよ」
ゴロンと草むらに寝転がり、うるさく泣きじゃくるモンモンを無視して俺は夜まで眠ることにした。