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ヴォルターは辟易していた。目の前には、春の花壇を思わせる様な色とりどりのドレスに身を包まれた少女が3人。一様にピーチクパーチクさえずっている。
ヴォルターはツバメの子を思い浮かべる。親ツバメが運ぶ食料を、我先にと口を大きく開けてうごめく様を。
「グレンウィル様、ご覧くださいませ。なんと素晴らしい刺繍だと思いませんこと?こちらは今年一番注目されているギ・ラロッシュのオートクチュールから、特別に、と取り寄せていただいたお品ですの。」
「まぁ、グレンウィル様、こちらを召し上がりまして?なんて綺麗なお色でしょう。まるで宝石のよう、グレンウィル様はどんな宝石がお好みですの?」
「グレンウィル様、今宵もダンスはされませんの?グレンウィル様の踊られる様、一度拝見しとうございますわ···」
まぁ、ワタクシも、ワタクシもですわ···。
黄色い声が熱を帯びヴォルターの周りを飛び回る。
ともすれば寄ってしまう眉を、意志の力でその場に留め、ヴォルターは笑みを作って軽く頷く。
首を回し、会場を見回す。ウェールズ公爵家主催の夜会なだけあって、参列する方々も著名な家の者ばかり。
おだやかな雰囲気の会場中程、立食のテーブルのすぐ横にお目当ての人物のでっぷりとしたお尻を見つけると、ヴォルターは少女達に向き直った。
「失礼、お嬢様方」
胸に手を起き軽く会釈。それだけで少女達はとろけるようにしなを作る。
一人、少女が空気を読み、すっと離れていった。
残るは二人。ピンクと黄色。
ヴォルターは、さながら両手に花をささげているかのように会場を歩き、目当ての人物に近づいていった。
途中、脂ぎった鶏肉を乗せた小皿を手に取ることも忘れない。
「ノーフォーク·フィッツアラン=ハワード卿、お久しぶりにございます。」
世の女性をとろけさせるような甘い笑顔で話しかけると、ハワード卿は振り返った。だいぶ白くなった口ひげには茶色いソースがついている。これでもかとつき出したお腹に、手にはソースを絡めたコルドンが。背は低く、頭はやっとヴォルターの肩に届くかどうか。酒をすごしているわけでもあるまいに、その頬と鼻はは真っ赤になっている。ハワード卿は、大仰に目を開くと、ごくん、と口の中のものを飲み込んだ。
「ダグラス=グレンウィル卿!これはこれは貴公子殿。ご無沙汰しておりましたな。近況はいかに?」
ヴォルターは笑みを作ると、手にした小皿を差し出す。
「可もなく不可もなく。よろしければこちらを。さすがウェールズ家、すばらしい料理の数々ですな」
うんうん、と頷き、ハワード卿はまたも肉を口に運ぶ。
そしてヴォルターのうしろに控えている少女たちを見やる。
「料理がいいと、そこに集まる蝶たちの質も上がりますな。」
自分としては気の利いたことを言ったつもりなのだろう。ハワード卿は、近くにいたピンクのドレスのほうの少女の二の腕を軽く叩き、ガハハと笑った。むき出しの細い腕に触れられた少女は、思わず「ひっ」と声を出す。
ヴォルターは苦笑する。さすがに憐れだったかな···。
しかして、ピンクと黄色を遠ざけることに成功したヴォルターは、隣でしきりに料理を口に運ぶハワード卿にたまに声をかけつつ、やっと落ち着いて会場を見渡した。
今宵は過ごしやすい気候なだけあって、バルコニーへと続く大きな窓は開け放たれている。そこには甘い雰囲気の男女が数組。窓からの明かりに背を向け、その影は一つに重なりそうだ。
少し目をそらし横を見ると、壁沿いに歓談のためにしつらえられたソファーセットがいくつか置かれている。
その一つに人だかりがあった。
中央に座るは女性であった。光り輝くようなプラチナブロンドを高く結い上げ、僅かに細められた瞳はアメジストのような薄い紫色。水をそのまま縫い上げたかのような薄い水色のドレスをまとい扇子を口元に当てて優雅に座るは、誰もが知るウェルズリー侯爵家のご令嬢、サラ·ド·スコット=ウェルズリーその人である。肘掛けに体を預けるようにもたれかかりつつも背筋を曲げることなく凛とした雰囲気を醸しているあたりはさすが侯爵家令嬢。
周りには跪かんばかりの男達が、それぞれに話しかけている様子。サラは、そのひとつひとつに丁寧に顔を向け応対しているようだ。
しかし、ヴォルターは瞬時に見抜く。彼女の目が、笑っていない。ヴォルターは、サラに親近感を覚えた。
そうだ···。ヴォルターは軽く目をつぶる。自分だけではない。今のこの場を楽しんでいないのは。
義務をこなす人間は、そこかしこに、いるのだ。
ーー
短く刈り上げた、緑がかった茶色の髪に、深い緑の瞳を鋭く光らせ、ヴォルター·ディ·ダグラス=グレンウィルは馬上の人であった。ヴォルターは伯爵位である。貴族とは王その人に遣える一族。ヴォルターも例外ではなく一個騎士団を任されている。
今日も、王の移動に伴い、騎乗の上護衛にあたっていた。
騎士団は実力が物を言う。とはいえ、人をまとめ上に立つにはある程度の家柄が必要で、ヴォルターが団長を名乗るのは、ようは家系のおかげなのだ。
しかし、家名で人はまとまらぬ。よってヴォルターは、人並み以上の努力を己に強いていた。
日々繰り返される厳しい鍛錬に彼の胸板は厚くなり、腕も足も筋肉でがちがちに硬い。元々は線も細く、色の白い家系なはずだが、ヴォルターからそれを感じることはできそうになかった。
いつも通り、難もなく王の護衛を終えたヴォルターは騎士団の待機所へと戻った。
「おかえりなさい団長、守備はどうでした?」
努力を惜しまないヴォルターは、部下からの信頼も厚い。ヴォルターはまとっていた鎧を脱ぎ、腰から鞘ごと剣を抜くと、部下に渡しながら頷く。
「問題ない」
部下は鎧をしまいに廊下に出つつ振り返った。
「ちなみに昨日のほうはどうでした?ウェールズ公爵家の夜会だったんですよね、かわいい娘捕まえられました?」
ヴォルターの女嫌いは、騎士団の中では有名だ。ヴォルターは嫌そうな顔を部下に向けるだけで、それには答えなかった。
一度同僚にからかわれたことがある。
「お前は女嫌いだな」と。
しかしヴォルターは、それは違うと思っていた。別に嫌ってはいない。自分とは生きている場が違いすぎるだけなのだ。女達が見るもの、好きなもの、話題とするもの、すべてが理解できないだけ。犬と猿が仲良くするところを見かけないのと同じように、自分に女性は合いようが、ない、と。
ーー
とある日、
ヴォルターは王都から少し離れた村に来ていた。
常日頃、部下にはきつく言い聞かせている。自分達は街を治める立場にある。だからして、いつでも落ち着いた行動を心掛け、騒動を起こす側にはなってくれるな、と。
なのに···。
それは全くの予想外だった。自分に厳しいヴォルターは、それこそが自分の慢心であると結論付ける。
ちょっと目を離した隙に、手荷物を盗まれてしまったのだ。
大した物は入っていない。ほんの少しの金銭と、これが一番やっかいなのだが、姪に贈るはずのお人形がひとつ。
王都では今、ローラン・ムレというプレタポルテで売られている、手のひらに乗るくらいの大きさの女の子の人形が大人気だった。店頭に並べば飛んでいくかのごとく売れ、なかなかに入手が困難になっているらしい。売り出されるたびに髪の色も服の生地も違うので、皆飽きることなく何個も買い続け、人気は一向に衰える様子を見せなかった。
ヴォルターは、たまたまその店を通りかかり、店先にひとつだけおかれたその人形を、なかば奇跡的に手にしたのだった。流行には疎い。その店のことも、人形であるブライスのことも知らなかった。ただ、そのお人形が、姪と似ているな、と思っただけなのだ。待機所に戻り、部下から話を聞いて驚いたものだ。
きっと喜ぶだろうと思い、もう先触れも出してしまった。姪は人形が届くのを、今か今かと待ち望んでいることだろう。部下の話を聞く限り、再び入手することは不可能に思えた。
とはいえ、治安を預かる騎士団の、それも団長が、「盗まれちゃいました」ではしまらない。
ヴォルターは自分で捜査し、人形を取り戻すことに決めた。
小さな村には小さな役場が一つ。
役場というよりは寄り合い所のようで、役人らしい人もいれば、茶を飲む老人もいる。駐在のような人もいれば、若い少年もいる。
とりあえずヴォルターは、役人っぽい人に声をかけてみようと近づいた。
「お尋ねしたいことがあるが、このあたりでスリや盗賊などの被害はないか?」
役人らしき人は「少々お待ちください」と言い奥に引っ込む。
と、隣の話が耳に入る。
「なんだぁ、あんちゃんもずいぶん勇敢になったもんだなぁ。ここに顔出すようになった頃は、こぉ〜んなちっちゃくて、まっちろけ〜な顔してたんになぁ」
駐在っぽいおじさんがすぐ横にいる少年に話しかけている。少年はあごまで隠れるのでは、と思うほどの大きな帽子を目深にかぶり、腰に片手を当てて鼻をこすった。
「おやっさんのおかげさ。ついこないだ教えてくれたろ?あのハンマーの使い方、ビシーっと決まったぜ。」
少年はまだ声変わり前のようである。ともすれば綺麗、と表現したくなるような細い声で、しかしずいぶん物騒なことを口にした。
これには駐在も苦笑いだ。
「あんちゃんに教えたんは、対イノシシ用やで。人間様に使うとは、大物になるぞこりゃ!」
少年は、ふ、と真顔になりぼそっとこぼす。
「世の中にはルールがあるだろ、それは全員が守ればすばらしい秩序をもたらすが、一人が破ればただの枷だ。そんなのは許さないよ」
駐在は、優しい顔で少年の頭をがしがしっとなでる。
「怪我はいいが、死ぬようなマネはしてくれるなよ」
少年は、急いで帽子を抑えると、じゃ、また来る!と役場を出ていった。
イノシシに対する攻撃を人間に···。
さすがにそれはまずいだろ、と、ついヴォルターは横を見てしまった。
出ていった少年をまだ見つめる駐在の足元には、まさしくヴォルターの手荷物が置かれていた。
「失礼だが、この荷物は···?なぜここに?」
ヴォルターは焦って駐在に問いただす。
駐在はヴォルターに視線を向ける、と、それまでだらーっとしていた姿勢をビシッと伸ばした。
かの騎士団の制服である。しかも自分の目が正しければ、これは団長の腕章かもしれない。
「はっ!今しがたここにおりました少年が、盗っ人から取り戻したものでござます!」
ヴォルターは唖然として外を見る。少年はもうそこにはいない。
ヴォルターは駐在から荷物を受け取ると、中身を確認した。
姪のために購入した人形は変わらずそこにあり、自分が窮地を脱したことを証明している。ヴォルターはほぉーっと細い息を吐き
「どこに···」
とつぶやく。
「盗っ人でしたら牢屋におります。まだノビておりますが···。」
と駐在が説明するが、ヴォルターは首を振った。
「少年にお礼をしなければ。彼のお住いは何処なんだろうか?」
結果として、ヴォルターは少年の行方を知ることができなかった。
早い話、駐在も彼がどこの誰なのか知らないのである。
少年は、ある日ふら〜っと村に現れるようになった。最初は遠巻きに、畑や牛馬の世話なんかをじーっと見ているだけだったが、そのうち村の者たちが声をかけるようになる。なんせいつ来るかはわからないが、来ると一日中いるのだ。世話焼きの女どもが心配して昼飯を渡し、遠慮され、また渡し、口にねじ込み···。だんだんと打ち解けていった。今ではあのように大口開けて笑うまでになったらしい。
「また来なさるよ。いつ来るかはあの子が決めればええことよ。」
茶をずずーっとすすりながら老人が言う。
ヴォルターは仕方なくその場は諦め、時間が開けば役場を訪れ、少年のことを聞くのが日課となっていった。
そうして何日が経っただろうか、ある日ヴォルターが役場を訪れると、役人らしき人が「あっ」と声を上げた。
「団長さま!かの少年が今しがた···っ」
ヴォルターはすぐに翻し、道を走っていった。たしかに前方にまだまだ細い体つきの少年が歩いている。
彼には、特に目的があるようには見えなかった。道を歩き、畑を見やり、村人がいると話しかける。
服にバッタがつくと笑い、泥に足を取られて笑い、真っ赤なトマトをもらってその場でかぶりつく、そしてまた笑う。
上を向きながら鼻歌を歌い、後ろで手を結び、その手に猫じゃらしを揺らしている少年に、ヴォルターはようやく追いつき声をかけた。
「失礼だが···」
くるっとこっちを見た少年が、息を呑んだように見えたのは気のせいか。いや、きっと驚いたのだろう。少しの時間も惜しみ、騎士団の制服を着替えないままで来てしまっていた。
「どうか驚かないでくれ。私は話があるだけなんだ。」
無意識に手のひらを見せたまま両手を前に出し、抵抗の意思なしとしたが、相手に伝わったかははなはだ怪しい。
「お役人サマが、何のご用ですか」
意図的に力を入れて低く聞こえさせようとする話し方に、ヴォルターは苦笑する。
まるで、熊に喧嘩を売るリス···。
しかし、ここで笑っては相手の自尊心を傷つけるだろう。
ヴォルターはそう思い、表情を変えないよう努めた。
「先日盗っ人から奪い返してくれた荷物を覚えているか?あれは私のものだったのだ。ずっとお礼が言いたくて探していた。」
ヴォルターはここで、もう大丈夫だろうと判断し、やっと笑う。いつもより笑みが深くなったのはなぜだろう。
「どうもありがとう」
少年は、何がそんなに珍しいのか、心底驚いたようだった。口をぱかーっと開いたまま呆然としている。
胸の前で握っていた両手を、思い出したように横におろし、所在なさげにぶらつかせ、少年は言う。
「お、俺は何もしてない。おやっ···駐在さんに教えられたとおりにしただけだ。お礼なら役場の方にしてほしい。」
「あぁ、そうだな。もっともだ。役場にも後日お礼を届けよう。だが、君にも個人的にお礼がしたいんだ。何がいいかな?失礼にならなければ金銭でもいいんだ。あの荷物にはそれが入っていたわけだし···。」
ヴォルターがそう言うと、少年は脇に垂らした両手を固く握った。
「お金は、いらない。俺はルールから外れた行動を修正しただけ。そうしたかったから、彼を身代わりにしただけで、結果荷物が残っただけなんだ。だからお礼なんて、いらない。」
少年はそう言うと、うつむいて地面を睨んでしまった。
ふむ···、とヴォルターは、覗き込むように少年を見た。
「時間はあるか?よかったら座って話を聞いてほしいんだが。」
そう言うと、少年を待たずに道路脇の低い塀に腰掛ける。
少年は少し悩んだようだが、素直に隣に座った。
「あの荷物の中には、俺の姪に渡す人形が入っていた。ブライスという···なんと言ったらいいのか···」
男が裁縫雑貨屋の説明ができないでいると、少年が
「あのローラン・ムレの人形···。」
と、口にして、すぐに口をへの字に曲げてしまった。
前を向いたまま誠実に語ろうとするヴォルターは、そんなことには気づかずに続けた。
「あぁ、そうだ。そうか、そんなに有名なんだな。実は俺は全く知らなかったんだ。でも姪にちょうどいいなって思って買った。なのに盗まれてしまって途方に暮れていたんだよ。あれはすごく人気があって、一個手に入れるだけでも奇跡に近いくらいなんだそうだよ?それを俺は、自分の不手際でなくしてしまったんだ。わかるかい?」
優しくなだめるように、幼子に言い聞かすように、ヴォルターは言葉を紡ぐ。そして少年に向き直り
「俺は君にとても感謝してる。」
と伝える。
「そうだな、こうしよう。次にここを訪れるのはいつだい?それにあわせて役場にお菓子を持ってこようと思う。俺はお菓子なんてよくわからないけど、みんなが喜びそうなものを調べよう。それで役場でみんなで食べないか?あそこにある椅子に座って、足りなければ床に座ったっていい。」
ヴォルターはそう言うと少年の様子をうかがう。すると、何が気に入ったのか少年は、ニッコリ笑うと
「あぁ、それはいいね」
と言って、次の来訪日を教えてくれたのだ。
ーー
結論から言うと、教えてくれた来訪日に少年は来なかった。
やはり何か、気に触ることをしでかしていたのかもしれないし、『役人』とは関わり合いになりたくなかったのかもしれない。
ヴォルターは残念に思ったが、自分の感謝の気持ちは充分に伝えたと考え割り切ることにした。
あの役場に、また行ってみたいという衝動もあったが、彼のことを思うのならここは遠慮したほうがいいのだろう。
そうしてヴォルターは、日々の仕事に追われて、次第に少年の事を思い出さなくなっていった。
そんな折、実家であるグレンウィル家から呼び出しを受ける。
ヴォルターは嫌な予感しかしなかった。
仕事の便宜上、家を別に住んでいるが、彼はれっきとしたグレンウィル伯爵家のあととりである。いずれはこの家に戻ってこなければならない。
その実家からの呼び出しといったら、家のこと、もっといえば結婚のことと予想がつく。
ヴォルターは今年で22歳になる。周りを見ても、22で結婚までしている男性はまだ珍しい。婚約をしている者は貴族なら多いが、ヴォルターは婚約などするつもりがなかった。
いずれは家の為、誰かしらと籍を入れねばならぬだろう。
だがそれはただの義務だ。
義務を行使する期間はなるべくなら短い方がいい、お互いに。
ヴォルターはそう思っていた。
久しぶりの家に帰り、通された部屋で母と久しぶりの対面を果たす。
「おかえりなさい、ヴォルターさん。お久しぶりですわね。」
「えぇ、お母上もお変わりないようで。」
母は満足そうに頷く。扇子がはたはた動いている。
「そなたの姉がやっと、嫁ぎが決まりました。」
ヴォルターは固まる、姉、との言葉に体が条件反射として反応してしまう。
「姉様方が···?」
「えぇ、4人とも。」
母は、ほう、と息をつき
「これでやっと、そなたに取り掛かれます。そなたは幼き頃から何でも自分でこなし、手のかからない良き子でしたね。母は誇りに思います。ですが結婚となるとさすがにそうもいかないのでしょう。家柄、お人柄、あなたとの相性など、確認すべきことは多岐に渡りますから。」
ヴォルターは、出された紅茶を苦々しげに飲み込む。ごっくん、と、嫌に大きく喉がなる。
「は、はは、ははは母上、お心遣い感謝いたします。私もまだまだ若輩者。父上もご健在の今、なにも急ぐ必要もありますまい。いずれはこの家の為、良き縁談を結んでみせましょう。」
力強く頷く。できるだけ母を安心させるように。
そんなヴォルターを見て母は溜息をつく。
「家の事慮るそなたの気持ちは嬉しいです、ありがとう。しかして我が家は現在安定いたしております。それもこれもお父上の努力の賜物。感謝つきません。」
母はここで、少女のように胸の前で手を重ねる。きっと心の中で父に感謝しているのであろう。
「しかし、結婚とはそもそも、両家の為にあるものではなく、両者の為にあるものなのです。」
あ〜···、やばい、やばいぞこの流れ···。ヴォルターはなんとか糸口を探そうと躍起になる。
母は知ってか知らずか、つらつらと続ける。
「そう考えれば、そなたの歳でお相手を探すこと、なんらおかしきことではないはずです。良き方ほど先に結ばれます。一人一回。後からでも、では遅れを取りますわ。」
なんかあるか、ないか?あるだろなんか···。ヴォルターは必死に頭を回す。仕事···無理だな。結婚したって仕事できるし、住むところもあるし、親の反対が、とか···あ〜何考えてんだ、しっかりしろ俺···!
「先程も申しましたが、特にお相手はいないのでしょう?いらっしゃるのに無理に、とは申しませんのよ。旧家のほうではまだまだ家同士のつながり、の意味合いが強いようですが、あのような結婚では···。」
母は何を思うか遠い目をしている。
ヴォルターは母の後半の言葉をあまり聞いていなかった。
「母上」
何?と、母は小首を傾げる。そうするとまだ少女のようだから不思議だ。
「まだお話できる段階でもなく、どうしようかと悩みましたが、母上がそこまでわたくしごときにお心砕かれておいてならば。実は、私には将来共にしたいと考えている女性がいるのです。」
まぁ···と、母の目が丸くなる。
ヴォルターは、そんな母の早とちりをすばやく制す。
「しかし、しかし本当にまだ初期の段階で、どのくらいかというと、まだ相手に伝えてないというか、うまく伝わらないというか、まぁ、そんな感じの段階なのです。うまくいくかどうかもまだこれから次第?という···」
背中を嫌な汗が落ちる。
心底親身になってくれてる親に対してつくほどの嘘か?
しかしヴォルターは、あとほんの少しでいいから自由でいたかった。
もう少し、もう少しだけピンクや黄色からは離れていたい···!
「そう···。どうか母を許してね。姉たちが終わったら、とずっと考えていたものだから。そなたは昔と変わらず、ご自分できちんとなさるのね。」
そっと微笑む母の顔が、少し寂しそうに翳る。
ヴォルターは罪悪感いっぱいで実家をあとにした。