桜と彼の長い午後
何年も、わたしはたくさんの人を見てきた。
春になるたびにたくさんの人がわたしの周りに集まる。
彼らは飲み物や食べ物を持って集まってさわぎ、歌うのだ。
うるさくて仕方なかったけれど、彼らの楽しそうなすがたを見ていたらそんなことどうでも良くなってしまう。
これまで、色々な人がそばを通り過ぎて行った。
その中で、わたしが思い出すのは、いつも悲しそうだった“彼”の事だ。
彼に初めて会ったのは、彼が子供のころ。
わたしが少しの花しかさかせられないくらい幼かったころ。
ある日。
彼は真っ赤に泣きはらした目で現れて、それをごまかすようにわたしのかげにかくれた。
どうしたのと話しかけても、くやしそうに歯をくいしばりながら泣いていた。
だから、そばでそっと見守ることにした。
彼は午後になると、決まっていつも傷だらけでここにきた。
だけど、夕方には泣き止んでわたしのそばをはなれていく。
わたしは応援するように、優しい風で送りだしたのを覚えている。
ある夏の日。
彼がわたしを助けてくれたことを決して忘れない。
わたしのからだが今にも倒れそうになっていたあのあらしの日。
ずぶぬれになって現れた彼。
強い風にたおれかかったわたしを風が止むまで必死になって支えてくれた。
彼のおかげでわたしは何度も数え切れないほどの花をさかせる事が出来た。
その度に、彼がどうか少しの間だけでもつらいことを忘れられますようにと願った。
そうして彼の手がわたしの枝に届くようになったころ。
彼はすがたを消した。
それから何度も季節がめぐる。
彼が帰ってきた。
子供の頃のおもかげはない。
ひどくつかれたかおで、せなかは丸まって、ずいぶんとやせてしまった。
彼は昔のように、わたしのそばで午後を過ごすことが多くなった。
ほかの人は彼のように毎日来てくれることは無い。
彼にまた会えたのはうれしいけれど心配だ。
どうしたのだろう。
どうして元気が無いのだろうか。
もしかしてひとりぼっちなのだろうか。
その日も、彼は疲れきった顔でぼんやりと空をながめていた。
わたしは彼の肩に触れそうなくらい枝をのばしてそっと話しかける。
――だいじょうぶ。きっとだいじょうぶだから。
彼はずいぶん年をとった。
私は大きく育った。
今度はわたしが彼を助ける番だ。
――暑い日は、影を落とすから涼んでね。
――風の強い日は風よけになってあげる。
彼はいつも決まって午後になると現れた。
何度も彼の姿を見かけるうち、わたしの心はいつの間にか彼のことで一杯になってしまっていた。
だからどうにか彼の気をひきたくて、何度も話しかけてみる。
――今日は子供たちがここで遊んでいきましたよ。
帰るまでずっと走り回っていましたけれど、どこからそんな元気が出てくるのでしょうね?
――そうそう、昨日は猫のけんかを見たんです。
どちらも真剣だったけれど、まだ子猫同士だったから途中で眠くなったのね。
最後は二匹で丸くなって日向ぼっこしていましたよ。とてもかわいかったな。
だけど……何度話しかけても彼はただ表情の無いしわくちゃの顔でどこかを見つめるだけ。
幸せそうな彼の笑顔を見ることができれば、どんなに幸せな気持ちになれるだろう。
彼に話しかけてもらえれば、どれだけうれしいだろうか。
何度話しかけても、わたしの声は届かない。
すっかりおじいさんになってしまった彼はさびしいのか、時々昔の歌をつぶやく。
わたしで良ければいくらでも話し相手になりたい。
そして彼の笑うところを見て見たい。
彼と結ばれることは無い。だから愛しているというにはおおげさだ。
それでも彼の無事と幸せを願い続けた。
わたしは彼の事を見つめ続け、彼はこうしてここに来てくれる。
私と彼は長い時間を一緒に過ごしてきた。
だけど、人の命はずいぶん短い。
その時までに、わたしの声が届くだろうか。
春をむかえた。
彼は杖をつきながらよろよろと歩いてきた。
息もたえだえに、顔をしかめてわたしにもたれかかる。
まちがいない。
彼はもう、次の春は迎えられないだろう。
残された時間はわずかだ。
ふと、彼がわたしを見上げている。
すっかりくぼんだ目は哀しい。
どうか、一度だけでもわたしの言葉に耳を傾けてはくれないだろうか。
「……あなたはがんばってきた。
子供のころからいっしょうけんめいだったもの。
わたしは知っているよ。あなたは転んでも、転んでもその度に立ち上がって、
それでもいつも前を向いていた」
彼の目に涙がたまっている。
「あらしからわたしを助けてくれた事も、
あなたがいなくなってからとても心配したのも、
わたしにとってかけがえのない時間だった。
こうしてあなたが会いにきてくれた事が本当にうれしかったの」
彼はわたしを見ている。
彼のほおになみだが伝っている。
「……わたしの言葉があなたに届かない事はずいぶん昔に知ってるよ」
彼の目からつぎからつぎに、なみだがこぼれている。
「だからわたしは、あなたに見える形で気持ちを伝えるね!」
季節は春。
わたしは満開の花をさかせていた。
風で桜がちり。
花は流れ、宙を舞う。
彼は最期に、きつく結んでいた口を緩ませた。
――また季節がめぐる。
……彼がいなくなって、一つだけ奇跡がおきた。
彼がよく座っていた地面に、小さな木の芽が生えてきたのだ。
その芽はまだ幼くて控えめだけど、力強く背を伸ばしている。
空を突く勢いのそれを見て、歯をくいしばってこらえていた彼を思い出す。
彼もわたしも、命が続く限りまだ見ぬ誰かのために花をさかせようとするだろう。
これからもわたし達の午後は続く。