エクレシア──集まりし記憶
壊れた神殿 アドニス・デュカキスの前日譚
スッスッ、と靴がすれるような音が俺の中に響く。見れば、祭壇に向かっている少年の姿。最近では珍しく、1人で来たらしい。いつもなら、ここには何人かで連れ立って来ているものなのに。
少年は祭壇の前でひざまずくと、両手を合わせて祈り出した。
「**様、我が名はアドニス。本日はお願いがあり、ここまで来ました」
**様とはこの神殿に祀られている神様だ。俺自身は**様を見たことはない。おそらく、ここに来る人間もそうなのだろう。だが、俺の中にある祭壇に人は祈りに来る。それも毎日。それ程**様という神様は慕われている。
俺はここでいろんな祈りを聞いてきた。
家族のこと、仕事のこと、友人のこと。俺が人間に興味を持つのに十分すぎるほどの祈り。
それが叶えられた者も叶えられなかった者もいる。後者には祈る神様を間違えていた者もいたな。まぁ、それに気づいた者はよそに祈りに行ったらしいが。
「どうかお願いします。彼女に会わせてください」
訳ありか? その彼女と少年の間に何があったのかは分からない。だが、これだけは言える。少年は不本意ながら彼女と離れ離れになってしまった。そうなると会いたくなるのは人の心情。
長く神殿として過ごしていると、そう言ったことも分かるようになる。
祈り終わった少年は深く頭を下げると腰を上げる。祈るような瞳で祭壇に飾られた聖像を見つめる少年に俺は手を差し伸べたくなった。力になりたい。だが、俺は神殿だ。動くことも手を貸すことも出来やしない。
少年が訪れてから1日経った頃。まだ薄暗い中で異変は起きた。
俺の体に衝撃が走る。
柱が、壁が、悲鳴を上げる。今、何が起きているのか分からない。ピシピシと体にひびが入るのを感じた。その影響か屋根の重みに耐えられなくなった柱や壁が、破片を振り落とし始める。
俺に何が起きた。
俺の周りで何が起きた。
分からない。
天の裁きか、自然の怒りか、はたまた人の裁きか。そのどれで、どれでないのか、分からない。
混乱に支配される中で俺の中に芽生えた感情が一つだけあった。
「まだ誰も神殿に来ていなくてよかった」
安堵だ。他の人間が犠牲にならなくてよかった。それだけで救われる。例え、俺が今にも崩れそうになっていても。
それでも、壊れるというのは気持ちの良いものではない。いくら無機物の俺でも痛みを感じる。
あぁ、ついに屋根が破片となって床に落ちた。その衝撃で俺の意識は吹き飛んだ。
次に俺が目を覚ました時、そこには白く荘厳な神殿はどこにもなかった。無残に崩れ落ちた残骸がそこにあるだけ。
結局、俺に何が起きたのか分からない。分かるのは壊れたという事実だけだ。
3日。1週間。1ヶ月。
待てど暮らせど人は来ない。壊れた神殿を立て直しに来ようとすらしない。いや、来れないのだろうか。
昨日まであった神殿が翌日に消えていたら誰だって来そうなものなのに。
ここにきて初めて俺は「淋しさ」を知った。人に会いたい。人のように動いて彼らに会いたい。その気持ちが体を駆け巡る。
『いいでしょう。そなたの願い叶えましょう』
その言葉が頭に響いたと思えば、目の前が急に白くなる。もう訳が分からない。この声があの少年が祈っていた**様だったりするのだろうか。
光が治まった時、俺が最初に感じたのは風だった。そよそよと吹く風。気持ちが良い。おまけにすらりと伸びた手足まである。ふと後ろを振り返ると、崩れた神殿。夢じゃない。
俺は急いで神殿の脇にある噴水に駆け寄った。ずいっと迫った水面に映ったのは、あの時祭壇の前で祈っていた少年の顔。だが、彼とは違うところもあった。
背中には神殿にあった壁のようなものが対で生えている。まるで鳥の翼みたいだ。動かないところを見ると神殿の一部なのだろう。多分。
「あのアドニスと言う少年、彼女に会えたのだろうか」
確かめたい。だが、聞いたところで神殿だと言っても信じないだろう。だとしたらどうする。
「そうだ、名前をつければいい」
ここでまた困ってしまった。いろんな名前を聞いてきた俺だが、肝心の名前の付け方を知らない。神殿に来る者は姓と名を名乗っていた気がするのだが……。
姓と名? 名なら何とかなるだろう。しかし、姓はどうやってつけるんだ。分からない。
ここで運よく、俺の頭にひらめきが浮かんだ。俺を建てた者の姓をもらえばいい。名前は最後に来た少年からもらうことにしよう。
「アドニス・デュカキス」
うん、良さそうだ。口に出して言ってみた名前に俺は満足を覚えた。これからはこの名前で生きて行こう。
俺は神殿だったものに別れを告げ、歩き出す。朝の風が俺を優しく包んでくれた。