第二話:枇杷
博文が七歳の時です。
――…………ミ……ミーン、ミンミンミンミン……
暑い夏だった。樹木は青々と生い茂り、蝉が朝早くから夕方近くまで鳴いていた。
少し動くだけでも、身体中から汗が吹き出るくらいに昼の気温が高かった。
佐代子は、汗ばんだ額を手ぬぐいで拭った。
真昼に着物姿は、さすがに着慣れているとは言っても辛かった。
水色の単衣の着物は、外見上は涼やかに見えたが実際に着ると暑い。
いっそ浴衣のままでいたい気持ちがあったが、いつ夫の来客があるかもしれないと思うと気を抜く事も出来ない。
佐代子は、盥に水を張って持ち歩き出した。
廊下が、ぎしぎしと音をたてる。
築十年になるという隣家から間借りさせて貰っている家だ。
佐代子の実家は、華族だった。
夫は、言語の研究をしていた学生でなんの身分も持っていなかった。
佐代子の実家は、それなりに会社の経営が成功していたので娘を箱入りに育てて、いずれは名の通った誰かに嫁がせるつもりだったらしい。
当時、佐代子の二つ上の兄の先輩で志している学問は違ったものの仲の良かった清太郎が、よく家に立ち寄っていた。
外出する事も少なく、家の中の事か御稽古の事しか知らなかった佐代子は、清太郎に対して興味を持っていた。
兄は常々、可愛い妹が余りに外の世界を知らない事を不憫に思っていた。そこで、佐代子に清太郎を紹介する事にしたらしかった。
佐代子は、清太郎からもたらされる外の世界に魅了された。
……それと同時に、兄の様に慕っていた清太郎に淡い恋心を抱き、清太郎と心を通じ合わせていた。
それから、思いを通じ合わせた二人は夫婦になりたいと思い、両親に許してくれるようお願いした。
しかし、法律では華族と庶民の自由結婚が認められてはいたものの、反対にあってしまったのだ。
二人は三年間辛抱してお願いし続けたが、やはり許しては貰えなかった。
結局は、佐代子の兄の手引きで駆け落ちをした。
駆け落ちは、成功だった。
両親に悪いとは思いつつ、片田舎で細々と暮らしていた。
夫となった清太郎は、教師として町の小学校に勤務して、生活も順調だった。
その内に、佐代子に子供が生まれ、名を博文とした。
あれから、七年。
清太郎は、苦労がたたったのか元からさほど丈夫ではなかった心の臓が病み、死の床に臥している。
佐代子は、清太郎の部屋の前で蹲った博文を見た。
博文は、佐代子によく似ている。――顔も、肌の白さも。ただ、清太郎の血を継いでいるのは博文の左目を見れば直ぐに分かる。
左目だけが、碧眼になっているのだ。
清太郎の家系には、これまでも何人かいたらしく珍しくもないような反応だったので、佐代子も特に気にしていない。
その博文は、佐代子の手製の短い着物に身を包んでいる。
細長い手足を身体に引きつけながら、縮こまって揺れているようだ。
足音にも気付かない。
佐代子は、声を掛けた。
「博文さん?そんな所でじっとして、どうなさったの?」
博文は、ハッとしたように我に帰ると佐代子に目を向けた。
その目は、気が弛んだように一瞬で涙の膜を張ってしまう。
そして、ギクシャクと固まった手足を動かして佐代子の前に立った。
博文は何度か口を開閉すると、ようやく言葉に出した。
「お父さんのご病状はどうなのでしょう?ゆうべ、お父さんが居なくなってしまう夢を見ました。……、お母さんはご存じなのですか?」
佐代子は、答えに詰まった。
一昨日、町医者に往診に来て貰った時にあと一週間保たないと言われたのだ。
しかし、八つになる息子に現実を突き付けることは出来なかった。
佐代子は、どうにか笑顔を作る。
「お父さんは、大丈夫ですよ。……今は臥せっているけれど、元気になる筈です」
博文に虚偽を言った所で、夫の病が治ることはないとは分かっている。
しかし、もしかしたらとも思っていた。
「……、博文さん。きっと大丈夫です。清太郎さんを信じましょう。さぁ、泣かないで。博文さんが泣くと、私も悲しくなります」
博文は聡い子供だ。
佐代子の話を聞いて、何かを悟ったのかただ涙を溢れさせて立っていた。
佐代子は、盥を廊下に置くと手ぬぐいを取り出して、それで博文の顔を拭ってやった。
なんとか元気づけなければ、と思った佐代子はふと思い付いて、
「……そういえば、枇杷はまだ生っているのかしら?」
と、まだ流れていた博文の涙を拭いながら佐代子は聞いてみた。
枇杷は、清太郎の好物だ。
裏山にまだ生っているなら、博文の気を紛らわせる為にも取りに行かせようと思う。
しかし、普通は六月ぐらいで旬を過ぎるだろう枇杷が生っているだろうか?今は八月なのだ。
「……、分かりません」
普段は裏山を遊び場にしている博文も、覚えていないようだった。
佐代子の顔をじっと見ている。どうしよう、そう顔に書いてあった。
しかし、ふいに何か感じるところがあったのか博文は目をしっかりと見つめてきた。
「裏山にはあるかも知れないです。見てきましょう」
博文の涙は、止まっていた。
佐代子には、今からまた父の介護があると思えばこれ以上何かを言うことは出来ないと博文は考えたに違いない。
「そうね。お父さんの好物だから、有ればきっと喜ぶでしょうし。……、お願いね」
佐代子は、少し罪悪感が湧いたがどうする事も出来ないと思い、有るかどうかも分からない枇杷を見つけるように頼んだ。
博文は、目をまんじりと見開き口を横一文字に引き結んでひとつ頷いた。
言葉はなく、そのままくるりと振り返り玄関の方へと走り去っていった。
佐代子は、その後ろ姿を暫くじっと見つめていたが不意に口許を引き締めると、また盥を持ち上げて清太郎の部屋へと入っていった。
固い文章になってしまいました。一話目と微妙に書き方変わってないよね?と自問自答中です。次は、シモンとの初めての出会いの予定です。