1日目
「…ん、ここ、は…?」
徐々に戻りつつある意識の中目に飛び込んできたのは電車のホームだった。通勤ラッシュの真っただ中なのか、ホームは人々で溢れかえっていて、今にも零れ落ちそうなほどだ。一度ホームに電車が到着すると開いたドアから人々がドバっと吐き出され、また吸い込まれていく。正直いって少し気持ち悪くなる光景だ。
数分ごとに電車は到着するのにもかかわらず一向に減らない人々を眺めているうちに、自分があり得ない角度からその光景を見ていたことに気がついた。私は、上からその光景を見ていたのである。つまり、宙に浮いているのだ。
「ま、死んでいるんだからそんなもんか…」
いつまでもその光景を見ている意味はないのでとりあえず人気のないとことまで移動することにした。宙に浮くことで別段困ることもない。
自分のできることを確かめてみれば、自由自在に飛んで移動することはできるし、地に足をつけることはできた。ただ、木や壁を触ることはできないし、石を持ち上げることもできなかった。犬の散歩をしている人の目の前に飛び出してみても、話しかけてみても何も反応がなかったので人に私の姿は見えていないらしい。(犬には威嚇されたので見えているのかもしれない)そして、私は人を通り抜けることができるらしい。一度試してみたらできてしまった。気持ち悪かったのでもうやりたくないが…。
公園にあった噴水に手を突っ込んでみたが濡れもしなければ冷たさも感じなかった。おそらく火の中に手を入れても同じであろう。
ショーウィンドウのガラスに映る私の姿はどこかの学校の制服に身を包み、どこにでもいるような黒目黒髪の少女だった。別にどこにでもあるような黒髪ロングのストレート。紺のブレザーに赤いチェックのスカートとそれと同じリボン、紺のハイソックス。もちろん見覚えはない。自分の顔を自分の顔だと認識できないことは気持ち悪かったが、いずれ思い出せるという彼の言葉を思い出し、ガラスの前から立ち去った。
それ以上やることも思いつかなかったのでそのまま公園のベンチに座って時間をつぶすことにした。あちこち動き回ったが一切の疲労や空腹は感じていない。たぶん睡眠や食事はこの体に一切必要ないのだろう。まぁ、死んでいるのだから…幽霊なのだからそれも当然か。
「幽霊…か」
改めて自分の存在を考えたときに真っ先に思いついた。幽霊が存在することを自分が死んでから確信することになるとは何とも言えない気分だ。だが、幽霊という言葉以外に自分の存在を言い表す言葉があるとは思えない。
「これからどーしよっかなぁ…」
自分の声が誰にも聞こえないことをいいことに私は思いっきり声に出した。誰にも自分の声が聞こえないという事はさみしいことなのだとおもう。
誰にも見えない。誰にも聞こえない。誰にも存在が認識されない。
考えてみると、これほど孤独なことはない気がする。
眠ることもできない。食べることもできない。自分が誰かもわからない。何もすることがない。
記憶を取り戻す方法なんて知るわけもない。そもそも私はすべてを思い出して何を選ばなければいけないのだろうか。そして本当に思い出せるのだろうか…。
私はこれから一体どうすればいいのだろう?
「ねーねーお姉ちゃん。何してるの?」
公園のベンチに座ったまま私は目を閉じて考え込んでいた。小さい子の声が聞こえるが私には関係ない。
「ねー、おねーちゃんってば!ねんねしてるの?」
「…え?」
あまりに至近距離からの2度目の問いかけに私は驚いて目を開くとそこには3、4歳くらいの男の子が私をしたから覗き込んでいたのだった。
「きみ…私が見えるの?」
「見えるよ!おねーちゃん何言ってんの?」
その時、公園の入り口から女性があわててこちらに走ってきた。
「ゆーちゃん!急にママの手を放しちゃダメでしょ!」
どうやら男の子の母親らしい。そして、ベンチに座っている私には目もくれないことからやはり私の姿は見えていないらしい。
「ほら、早くいかないと保育園遅れちゃうわよ?」
そういうと母親は男の子の手を掴んで公園の出口へと向かった。
「おねーちゃんバイバイ!」
男の子は笑顔で母親とつないでいない方の手を勢いよく私に振ってくれているが、母親はそんな息子の様子に首をかしげていた。
「私を見える人もいる…。」
今の男の子は絶対に私の姿が見えていた。そして、会話も成立していた。母親の方は私の姿は一切見えて居ないようだったが、今の私は幽霊だ。となると、いわゆる霊感を持っている人間には私が見えるのではないだろうか。
その事実を確かめようと、私は人通りの多そうな場所に移動することにした。
私はひたすら人通りのあるところを飛び続けた。人ごみの中を歩いてもよかったが、人の中を通り抜けてしまう感覚がどうにも気持ち悪く、それを避けるために私は人々の頭上を飛び続けた。時より信号機や街灯に腰掛けあたりを見渡してみるものの、誰一人として目が合う人はいなかった。それでも私はあきらめなかった。
誰かと話がしたい。私という存在を認識されたい。ただその思いでそこらじゅうを飛び回った。もしかしたら大人より小さい子供の方が私を見ることができるのかもしれないと思い、たまたま見つけた幼稚園に2度ほど降り立ってみたが、私を見える子は一人もいなかった。今考えると、公園で私を見える男の子に出会えたのは奇跡的だったのかもしれない。
疲れないことをいいことに私はひたすら飛び続けた。霊感を持つ人がどのくらいいるのかわからないが、とにかく出会わないことには何もはじまらない。私はとにかく飛び続けた。
気が付いたらあたりは茜色に染まっていた。私は結局そこらじゅうを飛び回ったものの霊感を持つ人に会えなかった。そして人通りの多い場所を目指していたら無意識のうちに、目が覚めたときに漂っていた電車の駅に戻ってきてしまっていた。
丁度帰宅ラッシュの時間だったらしい。駅は会社帰りの会社員と、制服を着た学生で溢れかえっている。私はやみくもに飛び回ることを止め、改札の上の方を漂いながら、私の見てくれる人を待ち続けた。
ピッ…ピッ…改札を人が通るたびに響く電子音。
人々のざわめき。
構内放送。
電車の停車音と発車音。
さまざまな音があふれる駅で私は一人。
人が途切れる様子はない。一体どれだけの人がこの改札を通り過ぎて行ったのだろうか。
これだけ人がいても私を見てくれる人は一人もいないのだろうか。
「…誰でもいいから…誰でもいいから、私を見てよ!!!」
ついに耐えられなかった私は叫んでいた。どうして誰も私を見てくれないの?どうして誰も私の声をきいてくれないの?どうして私はまたこんな目にあわなきゃいけないの?
どうして「また」…?今、またって思った…?
「おい!お前こんなとこで立ち止まんなよ!!」
「す、すいません」
そんな怒声に導かれるように下を見ると、自動改札を規則的に流れていた人の流れを止めてしまったらしい一人の男の子と目があった。その男の子は怒鳴られたことに委縮しながらも、その目はしっかりと私を見ていた。
「ねぇ君!私が見えるの!!!?」
今確かに目があった。間違いない。彼には私が見えている。そして、私の声が聞こえている。そうでなければ、何もない空間を見つめながら立ち止まるなんで奇怪な行動はとらないだろう。
怒鳴られたことでその男の子は我に返り、自動改札を通り抜ける。改札を抜け、また、私を見た。そして、目が合うとすぐさま視線をそらしてたった今ホームに入ってきた電車に乗ろうと小走りになる。
「ねぇ、待ってよ!私が見えるんでしょ!?無視しないでよ!お願い!いかないで!」
彼がいなくなってしまったら、「また」私を見てくれる人がいなくなってしまう。「また」私の声が届かなくなってしまう。「また」一人になってしまう…!
必死になって男の子を追いかけ、話しかけるも一向に反応を返してもらえない。男の子の真後を飛び、背後霊のように付きまとっても男の子は私の声など聞こえていないかのように電車に乗ってしまった。こうなったら、どこまでも付きまとってやる。そう決めた私はその男の子にぴったりとついたまま電車に入り込んだ。
その後も男の子は私の声を、存在をひたすら無視し続けた。
音楽プレーヤーを取り出し、両耳をイヤホンで塞ぐと、たまたまあいた席に座り目をつぶって私の存在をシャットアウトした。私は少年の向かい側の網棚に腰掛け(電車ないは混み合っており、私は人に重ならないように網棚に座った)、ひたすらその男の子をにらみ続けた。絶対に、逃がさない。逃がしてたまるか。
3駅、4駅と電車が進む。男の子はじっと目を閉じたまま動かない。年齢は高校生くらいだろうか。深緑色のチェックのスラックスに、紺のブレザー。だらしなくウエストからはみ出る白いワイシャツに、ゆるくまかれている、スラックスと同じような色のネクタイ。スクールバッグを足の間におき、腕を組んでじっと動かない。
1駅、またひと駅と電車は進み、扉が開くたびに人々が出入りを繰り返す。あいた席にさっと座ろうと駆け引きを行うもの。イヤホンをはめて音楽を聴くもの。携帯電話をいじるもの。本を読むもの。目をつぶっているもの。誰一人として網棚に座るというあり得ないことを見咎めるものはいない。誰も私は見ていない、いや、彼以外には私は見えていない…。
どのくらい時間がたったのだろう。音楽を聴きながら目を閉じていた彼が動いた。足の間に置いてあったスクールバックを素早く手に取ると、扉が開いた瞬間に立ち上がり、私の方を見ることなく素早く人々の間を縫って電車を降りて行った。当然、私もついていく。人々がひしめき合うホームを抜け、階段をおり、改札口へと足早に向かう。そのまま自動改札を抜け、歩き続ける。
「ねぇ!待ってよ!…待ってってば!!」
何度も何度も声をかけ、彼の目の前に飛び出してみても一向に反応はなかった。もしかして私のことが本当は見えていないのではないか、という不安が脳裏をよぎるが目があったという事実ですぐにそれを否定する。確かに彼と目があった。彼には私の声が聞こえているし、私の姿は絶対に見えている。
商店街を抜け、住宅街に入り、徐々に人通りも少なくなる。そのころには私は声をかけることをあきらめ、ただその男の子の後をついて行った。やがて、一軒の家の門をあけ、扉に手をかけると
「ただいまー」
と、声をかけそのまま家の中に入って行った。目の前でバタンと閉まる扉。カチリと鍵の閉まる音が聞こえた。さすがに他人の家に勝手に入り込むことには若干の抵抗があったため、一瞬動きを止めてしまった。しかし、このまま一人で家の前で途方に暮れている訳にもいかないと心を決め、扉を通り抜け家の中へと侵入した。
結果的に言うと、私はその男の子に勝った。完璧な粘り勝ちだ。
男の子は電車内や帰り道同様に私の存在を無視し続けた。そして私は彼の視界に入り続けた。彼が父親と母親と食卓を囲み夕飯を食べている最中も、彼が自室に入り、制服から部屋着に着替えているときも、机に向かい勉強を始めたときも、ベッドに寝転がり漫画を読んでいた時も。ずっと、それこそ片時も離れずに彼に纏わりついた。そしてついに、彼がお風呂に入ろうと脱衣所に向かい、服を脱ぐのを一瞬躊躇した瞬間につぶやいた、
「私にお風呂まで纏わりつかれたくなければ私の存在を認めなさいよ。」
と、いう言葉が決定打になったらしい。(さすがにトイレは私も見たくなかったのでついて行かなかった。)
彼は大きなため息をつくとやっと私の目を見ていったのだ。
「わかったから俺の部屋で待っていろ。」
勝った。
彼の言葉に従いおとなしく彼の部屋に向かう。6畳ほどの彼の部屋にはベッドと勉強机、本や漫画のぎっしり詰まった本棚の他にクローゼットがあるだけで全体的に物の少ない部屋だった。家具やカーテン、ベッドカバーは黒でまとめられており、大人っぽい部屋だなと思う。迷った末に彼のベッドに腰掛けると、目の前に彼の制服がかけられていた。
「これ、私が着てるのに似ている。」
彼に纏わりつきながらずっと感じていたのだ。
私が着ている制服は紺のブレザーに赤いチェックのスカートとそれと同じリボン。
彼の着ていた制服は紺のブレザーに深緑色のチェックのスラックス。スラックスと同じネクタイ。赤と深緑という違いはあるものの、どう見ても色違いで同じチェック模様。そして何より、紺のブレザーの胸ポケットに刺繍されている校章らしきエンブレムが同じものなのだ。もっと細かいことをいうと、ブレザーについている金のボタンも全く同じものである。
いつの間にかお風呂から上がり、ジャージにTシャツというラフな寝巻に着替えた彼が、肩にタオルをかけた状態で部屋の中に帰ってきていた。制服をじっと見つめていた私に彼は小さな声で呟いた。
「俺、たぶんお前のこと知っている。」