プロローグ
日簿が始まり、新鮮な夕闇に包まれ行く市街地に、耳をつんざく破裂音が反響する。
その音より一拍遅れて、『何か』の肉塊が倒れこむ鈍い音がした。
その『何か』は体中の筋肉を不規則に痙攣させ、グチャグチャと地面をのた打ち回っていたが、次第に動きが緩慢になっていき、数分も経たずして完全に沈黙する。
「……やったか?」
うごめく肉の音、という奇怪な音源が消滅し、再び静寂を取り戻した市街地に、今度はやや低い男の声が響く。
男は『何か』を一分近く凝視していたが、やがて意を決したように頷き、ゆっくりとした動作で『何か』に近づき始めた。距離にして5メートルもないだろうが、まるで綱渡りでもするかのように慎重な足運びで前進する。
その顔は恐怖で歪んでおり、小刻みで荒い呼吸は発情期の犬の様だ。見ようによっては非常に滑稽とも取れ、彼を嘲笑する者もいるかもしれない。
だが、断言する。
今の……この街の状況を目にすれば、彼を笑うものは間違いなく消え去るだろう。
数日前まで人でごった返していたこの市街は、今や人の気配がなく閑散としていた。
更にいたるところの建築物が激しく破損しており、中には窓ガラスについた蜘蛛の巣状の弾痕や、対戦車弾のモンロー効果によって激しく抉られた鉄筋コンクリートが、異様な雰囲気を放っていた。
紛争地帯のようになってしまった市街地だが、何より異彩を放っていたのが男自身である。
彼は陸上自衛隊の迷彩服に袖を通し、幾つもの戦闘装具類を体に巻きつけてあった。
立射姿勢で構えている『八九式5.56ミリ小銃』は、辺り一面に新鮮な硝煙の臭いをまき散らしており、先ほどの破裂音―――銃声はこの銃から発せられた事を証明していた。
男は小銃をしっかりと前に向けたまま『何か』に近づき、激発で百度近くまで熱せられた銃口をそいつの頭部……らしき部位に押し当てる。
硝煙と肉が焼ける臭いに顔をしかめて警戒していたが、『何か』が動く気配はない。
胸部に穿たれた射入痕からは、おびただしい血液が溢れ、地面にどす黒い水溜りを作っている。
「一生寝てろ、糞野朗」
彼はそう呟くと、小銃に安全装置をかけ、下向き安全姿勢で軽く周囲の確認を行う。そして、重いため息を漏らし『何か』から少し距離をとると、崩れ落ちるように胡坐をかいた。
一応とは言え脅威は去ったというのに、その顔は酷く生気が希薄だった。迷彩服や武器装具を身に着けていなければ浮浪者と間違われてもおかしくない。
汗や砂埃で汚れた迷彩服は、しばらく入浴していなかった彼の体臭と相まってかなり香ばしい臭いをはなっている。
そしててと袖口から覗く腕は不自然に腫れ、所々ただれていた。
虫刺されや汗が異常な痒みを生み、不衛生な手でかきむしった結果、伝染性膿痂症を引き起こしている。
手の甲は特に腫れがひどく、ただれた部位に染み出した自身の体液が凝固し、そこに二匹のハエがとまって傷口を舐めまわしていた。
現実である分、下手なスプラッター映画より、彼の症状の方が遥かに高威力である。
身なりが汚い……というか、かなり終わっている衛生状態だが、男は無言無表情でハエを追い払い、迷彩服のポケットからオキシドールが入った小瓶を取り出す。
中身を傷口にたらすと、すぐに泡立つと同時にすさまじい痛みに腕が包まれる。
正直なところ、この感覚が『痛み』なのか『痒い』のか、男には判別つかなかった。
身をよじり、歯を生理的極限まで食いしばり、目に涙さえ浮かべながら痛みが引くのを待つ。
だが、痛みは水面を伝う波紋のようにジワジワと苦痛を広げ、意図せずに苦悶の声が漏れる。
「無理だ、クソッ!」
ついに痒みに屈し、傷口に爪を立てようとした、その時……、
「おい、村上! かくな、悪化するぞ」
不意に、声が聞こえた。
男――村上 導陸士長は、未だに引かない痒みに苦しんでいたが、その声を聞くと、九時方向にあるマンションの入り口へと、弾かれたように顔を向ける。
そして、無理矢理笑顔を作り、意外としっかりした声で話しかけた。
「はいはい、取りあえず出て来いよ。で、いつからいたんだ?」
「約十秒前だ。……B-2マンションの正面玄関にいる。撃つなよ」
「分かってるよ、藤田。ところでお前、抗生物質持っていないか? とびひが全力で荒ぶってて、百均のオキシドールじゃ意味ないわ」
その要望に『藤田』と呼ばれた人物からの返答はない。
代わりに、マンションの入り口のドアがゆっくりと開かれ、背の高い男性が現れた。
村上と同じように迷彩服と装具類を着用し、八九式小銃を携行している。そして薄汚れた迷彩服の左胸部には、『藤田』と刺繍されたネームが丁寧に縫い付けられていた。
藤田は、素早く路上に足をつけると、流麗な動作で周囲に目を配りながら村上に走り寄り、声をかける。
「抗生物質はない。衛生小隊が撤退しているから、手に入れるのは至難だ。……痒いか?」
「発狂しそう。まぁ、もう少しオキシドールで頑張るよ……」
「スマン。しかし、お互い酷いナリだぁ。まさに3K職種の頂点ってわけだな、自衛隊ってのは……」
藤田は鉄帽を取り、自分の髪を摘みながら悪態を吐く。髪は皮脂で硬くなり固焼きそばの様になっている。村上のように皮膚病にこそなっていないが、その身なりは相当汚れていた。
「3Kって何だったっけ? きつい、汚い……キモい?」
そう言って立ち上がった村上は、苦笑いしながら『何か』に近寄り、全力で胴体を踏みつけた。
衝撃で『何か』の骨が砕け、その感触が半長靴を通して下半身に電波し、肉が潰れた生臭い音が、鼓膜を通じて頭蓋に反響した。
その他、とても常人では耐えられない不快な五感が村上を襲うが、特に動じた風もない。負の感情で濁った目で『何か』を一瞥すると、ヘラヘラ笑いながら肩を窄めた。
「キモいじゃない。傷つくだろ、そんなこと言われたら。正解は危険だ。」
村上の行動を見ても、藤田はひたすら能面を保っている。その表情のまま、村上に突っ込みをいれると、ため息いを吐いた。
「るせぇ。今時『3K』とか死語だぜ、死語」
「あっそう。そんなことよりさっさと移動するぞ。お前が小銃をブッ放したせいで、俺たちの居場所がバレタかもしれん」
「……あのなぁ。格闘で殺す体力なんて無かったんだから大目に見ろよ! とびひ擦り付けるぞ、お?」
ちなみに、とびひは接触感染する。
「ちょっ、こっち来んな!」
そう叫び、藤田はガキの様に奇声を発しながら突っ込んでくる村上の頭をぶん殴った。
軽快な打撃音と共にひっくり返った村上だったが、すぐさま体勢を立て直し、荒い息を吐きながら藤田に食って掛かる。
「何でマジパンチだオメェ!?」
「はっ、効率的な感染予防だったろう? ……よく聞け。俺はお前を責めてるつもりはないし、別に嫌味で言ったわけでもない。……で、『あの無線機』は無事か?」
「……いや、ダメだったよ。四階から落ちて粉々。これで本部との交信は絶望的になった」
「……次の手を考えよう」
そう言って村上に背を向けると、勝手に歩き出してしまう。
村上は殴られた頭をなで、小声でブツクサ文句を言いながら、藤田の後を追って歩き出した。
会話がなくなり、この市街地には二人分の足音がひたすら響いている。
仲間とのじゃれあいのおかげか、村上の顔色はだいぶよくなっていた。しかし、この現状に対するさまざまな懸念が頭の中で渦を巻いている。
……民間人がまだ残っているのでは? 弾薬も心もとないし、糧食が無いから長期戦は無理だし、なにより衛生状態が最悪すぎる。『奴ら』に食い殺される以前に、感染症の方が心配だ。事態は深刻。明日が見えない……。
『国民の負託に応えよ』
ふと一瞬、そんな言葉が村上の脳裏に聞こえてきた……気がした。
自衛隊に入隊して以来、上官たちに嫌というほど聞かされてきた言葉だ。
教育隊から今まで、民と領土を『お前が護れ』と厳命され、自分もなんとなく覚悟はしていた。
だが、いざ『その時』が来てみると――
「やめやめ、滅入るだけだ」
村上は藤田に聞こえないように独り言を漏らすと、頭を振り、消極的な思考を全て中断する。
そして、一旦目を閉じ、深呼吸をして再び目を開く。
その眼に飛び込んできた光景は、時が止まった様に死んだ市街地。
もう一つは『俺に続け!』と、力強い足取りで先を行く同期の姿。
村上は負い紐で吊るした89式小銃の握把を強く握り締めると、『覚悟』を新たに前だけを見据えることにした。
勿論、怖い。
だが何より、目の前の男に負けたくない。
失望させたくない。
その感情は、覚悟と言うには少々幼い……と言うより、ただの負けず嫌いだったが、自己の目的を再認識し、希望を燃やして前に進むには、十分な燃料となった。
平成二十八年四月二十日。
日本を襲った、惨劇。
それは『戦争』とも『災害』ともつかない忌まわしいモノ。
この事象の幕開けは、とある三人の自衛官が、平和で退屈な日常を享受していた、『あの頃』を起点に動き出す。