2話 「2日目」
ピピッ…、ピピッ…。
どこかで電子音が聞こえる。
「うーん」
美奈子は伸びをしながら目を開けると、そのまましばらく固まってしまった。
ピピピッ…、ピピピッ…。
(あ、あれ? ここは…?)
まだ少し朦朧とする意識の中、美奈子は首を左右に動かして周りを見た。
(ここは、どこ…? えーっと…)
ピピピピピピピピ…
「だーー!」
電子音が鳴り響き、音に耐えられずに、美奈子はとりあえず起き上がってそれを止めることにした。よろよろと起き上がってベットから出て、見つけた目覚まし時計を何とか止め、欠伸をしながらリビングに行き、テーブルの上に置かれた冊子や書類が視界に入り、美奈子はようやく昨日のことを思い出した。
(あ、そうだ! 私、『ドキめも』の世界に行っちゃって…)
あれは夢ではなかったのかと思うと、美奈子はガックリと肩を落とした。きっと、心のどこかで昨日のことは全部夢で、目が覚めると元の世界に戻っているものだと思っていたのだろう。
「えーっと、じゃ、学校…。行かなくちゃ、よね…?」
軽い朝食の後、洗面所に向かって覗いた鏡の中には、昨日対面したばかりの15歳の自分がいた。
「やっぱり、夢オチにはしてくれないわけね? ああ、もう…」
制服に着替え、カバンの中身を確認する。時計を見たら、まだ学校に行くには早い時間だ。
「どうしようかな…。でも、ここから通うのは今日が初めてだし。時間に余裕を持たせていった方がいいわよね?」
丁度その時、美奈子の玄関のベルが鳴り、ドアの向こう側から小波の声が聴こえた。
「おはよう。小波だけど。あなたにはちょっと早い時間かもしれないけど、学校に一緒に行く?」
「あ、はい! お願いします!」
ここから迷わずに学校へ行くのが少し不安だった美奈子にとって、小波の誘いは渡りに舟だ。
あたふたと慌てながら靴を履き、鍵を持ったことを確認して扉を開けると、そこには少し眠そうな顔をした小波が立っていた。
「おはよう~。昨日はちゃんと眠れた?」
「はい。グッスリ眠れました」
「若いっていいわねぇ~」
小波の言葉に、美奈子が苦笑しながら「そうですね」と答えると、小波は「ふーん」と言いながら美奈子の身体をまじまじと見つめてからニッコリと微笑んだ。
「ま、いいんじゃない?」
本当の年齢を訊かれるかと思って構えていた美奈子は、ちょっと拍子抜けしながら歩き出した小波の後を追った。
二人でエレベーターを待っている間、小波は疑問顔の美奈子を見ながらクスッと笑った。
「私ね、前の世界でのことは、一切訊かない主義なの。だってそんなの、ここでは何の意味も持たないもの」
「…そうなんですか?」
「ええ。まぁ、ちょっとは役に立つかな~。でもね、前の世界でのことは単なる一知識っていう認識の方がいいと思うわ」
「単なる、一知識…?」
エレベーターの扉が開き、二人は中に乗り込んだ。小波がロビーのボタンを押すと扉が静かに閉じ、エレベーターが下に向かって動き始めた。
「あなたが向こうで何歳で、何をして暮らしていていたとしても、あなたはここでは15歳の高校生なのよ。周りはあなたを15歳の高校生だと思っているし、そう扱うわ」
「はあ…」
1階に到着したエレベーターの扉が開き、二人はエレベーターから出た。ロビーに差し込む光が眩しく、美奈子は目を細めた。外は今日もいい天気だ。
美奈子は外の空気を思い切り吸い込むと、深呼吸をした。そんな美奈子を見ながら、小波がポンと美奈子の肩を軽く叩いた。美奈子が少し驚きながら小波を見ると、小波は困ったように微笑みながら美奈子に言った。
「まぁ、ほら。あんまり深刻に考えない方がいいってことを言いたいのよ。あんまり前の世界にこだわり過ぎて、ここで身動きが取れなくなっちゃう人もいるし。要は、考え方の問題かな。普通の人は1度しかない高校生活をもう一度送ることができるのよ? ラッキーだと思って、満喫しなさいな」
小波の言葉に、美奈子は小さく微笑んだ。
学校の校門を過ぎた辺りで、美奈子は小波と別れた。
(さて。まだ時間があるし…。ちょっと校内を探検してみようかな?)
美奈子はまだ人がまばらな学校の敷地内を少し歩いてみることにした。瑛星学園高等部は比較的小規模な学校だが、隣接する中等部と共用している施設が沢山あるために、中等部からのエスカレーター組にとっては勝手知ったる部分が多いのだと昨日、同級生のヒカルが言っていた。だが、美奈子にとってはどこも初めての場所だ。
美奈子は高等部の校舎の裏手にやって来た。そこには小さな庭園があり、ベンチなどもあって、休み時間や昼休みにくつろげそうなスペースになっている。花壇には、色とりどりのチューリップが咲き、他にも色とりどりの花々で賑わっていた。
「うわぁ、可愛い…!」
美奈子はベンチの一つに腰掛け、花壇の花々を眺めた。日差しが暖かく、どこかから甘い香りも漂ってくる。
(ここ、落ち着くな…。いい場所見つけたかも)
美奈子が空を見上げながら深呼吸をすると、自然と笑みがこぼれた。
(気持ちいい~)
その時、クスクスと言う笑い声がどこからか聴こえた。
「随分、気持ち良さ気だね。君、新入生?」
美奈子がキョトンとしたまま首を傾げていると、突然、美奈子の視界が男性の顔で埋まった。
「!!」
突然のことに息を飲みながらギョッとしている美奈子の反応を見て、その人は堪えきれずに笑い始めた。
「…プッ。あはははは!」
(だ、誰、この人…?)
美奈子の目の前で、高等部の制服に青いネクタイをした男性がお腹を押さえながら笑っている。
「あ、あの…」
恐る恐る声を掛けると、彼は「ご、ごめん…。今の、ツボった…」と言いながら何とか息を整えた。
「あー、お腹がまだ痛いよ。君が意外にも素直な反応するから…」
体勢を整えて美奈子に向かって微笑みかけたその人は、スッキリとした整った顔立ちをしていた。いわゆる美形、というやつだ。
「えーっと、青ネクタイってことは、先輩…ですよね?」
「そう。僕は2年の白沢。白沢学。ここでは割と有名だと思うから、覚えておいて?」
「はあ…」
(自分で自分のこと、有名って言ったわ、この人…)
ここでは有名らしい白沢先輩は、フレームがブランド物の眼鏡を掛けたクールな印象を持つ人で、いかにも見た目が「優等生」っぽい。割と背が高く、痩せ身だがヒョロっとした感じではない。
(「ドキめも」で言うと、優等生で温和で優しくて世話好きな人か、逆に優等生なんだけど腹黒なのか…。どっちだろう?)
そんなことを考えながら白沢を眺めていた美奈子の視線をどう受け取ったのか、白沢は美奈子に向かってニヤッと微笑むと、顔を美奈子の耳元に近づけて囁いた。
「何? 僕に興味を持った?」
白沢の息が耳に少しかかり、美奈子は反射的に白沢から後ずさった。
「そ、そういうんじゃ、ありません!」
耳を押さえながら真っ赤になっている美奈子を見ながら、白沢はクスっと笑って少し長めの前髪を掻き上げた。
「君、名前は? クラスはどこ?」
「い、1年A組の、桜木です」
「桜木、何ちゃん?」
白沢の問に、美奈子は少し警戒しながら上目遣いで答えた。
「美奈子、です」
「そう。美奈子ちゃんか…。名前も可愛いね。ところで君、携帯持ってる?」
唐突な問に、美奈子は少し呆気に囚われながら答えた。
「持ってます、けど…?」
美奈子の答えに頷きながら、白沢は制服のジャケットの内ポケットから自分の携帯を取り出した。
「オッケー。じゃ、君の番号とメアド、僕にくれるかな?」
「…何故ですか?」
正直に問い掛ける美奈子に、白沢は意地悪そうな微笑を浮かべながら美奈子ににじり寄って来た。美奈子の肩が硬直する。
「美奈子ちゃん? 先輩の言うことは、大人しく聞くものだよ? ほら、君の携帯を出してごらん…?」
(こ、怖い…。この人、絶対に腹黒のほうだ!)
美奈子は渋々とカバンの中から携帯を取り出した。携帯を開いてパスワードを入れたところで、携帯がスッと美奈子の手の中からすり抜け、白沢に取られた。白沢は右手に自分の、左手に美奈子の携帯を持ちながら、両方の携帯を涼しげな顔をしながら操作している。
「はーい、赤外線通信~」
「ううっ」
ピピっという発信音が聴こえた。その後に、白沢がお互いの顔写真をそれぞれの携帯で撮り、さらに両方の携帯を操作して美奈子に美奈子の携帯を返した。
「はい、登録終了。僕の番号は登録番号1だから。変更しちゃだめだよ?」
「何、人の携帯を勝手に操作してるんですかっ」
「そんなに嫌そうな顔、しないの。ちょっとしたサービスだよ。僕の番号を欲しい子なんて、ここには沢山いるんだから、光栄だと思わなきゃ」
「…そうなんですか?」
「ああ。ま、理由はそのうちわかるよ」
「へー」
心のこもっていない美奈子の相槌に、白沢は片眉を上げた。
「…信じてないね?」
「半分くらいは」
白沢は一瞬ムッとしたような顔をしたが、すぐにニヤッと不敵な笑みを浮かべながら制服のポケットから一枚の長方形の紙を取り出して美奈子に渡した。
「これ、あげるよ」
「…ライブハウスのチケット?」
「そ。再来週の金曜日。僕らの出番は、多分10時くらいだから」
ニッコリと微笑む白沢とバンドが美奈子の頭の中で上手く繋がらなかった。
「先輩、バンド活動をされてるんですか?」
「意外?」
「はい」
間髪入れずに答えた美奈子に、白沢は一瞬、面食らったような顔をしていたが、すぐにクスクスとわらって言った。
「本当に美奈子ちゃんは面白いねぇ。あ、それとも、この街に来たの最近なの? これでも僕らは、この界隈では結構知られてきてるんだよ?」
「へー」
美奈子の疑いの籠った返事に、白沢は溜息を一つ吐いた。
「まだ、信じてないね?」
「全く」
美奈子の答えに、白沢は眼鏡をグイっと上に押し上げながらニヤリと微笑むと、美奈子に顔を近づけた。白沢の息が美奈子の顔にかかりそうな距離に、美奈子は全身を硬直させた。
「では、これは先輩からの命令だ。君はこの日、とにかく必ずこのライブハウスに来ること。もう一枚チケットをあげるから、誰か可愛い友達を誘っておいで」
「お、男の子でもいいですか?」
美奈子の問に、白沢は眉間に皺を寄せながら答えた。
「女子限定に決まってるだろう?」
「はぁーい」
美奈子が上目遣いに渋々チケットを受け取りながら返事をすると、やっと白沢の顔が美奈子から離れ、美奈子は安堵の息を漏らした。
校舎の方が徐々に騒がしくなってきた。登校して来た生徒が増えたのだろう。
「ああ、もうこんな時間か。君ももうそろそろ行かないと、ホームルームに遅れるよ?」
「先輩だって、そうなんじゃありません?」
「そうだね。じゃ、僕は先に行くよ。またね、美奈子ちゃん」
ニッコリと微笑みながら立ち去る白沢の後姿を見送った後、美奈子は昇降口へと駆け足で向かった。
美奈子が教室に入ると、ヒカルが美奈子を見つけて駆け寄ってきた。
「ミナちゃん! あなた、さっき白沢先輩と庭園で話してなかった?」
「うん。何だ。見てたんなら、声掛けてくれれば…」
よかったのに、と言い掛けた美奈子の声を、ヒカルの声が遮った。
「きゃあ~!! やっぱり! いいなぁ、ずるいなぁ、白沢先輩と二人でお話だなんて~。しかも、あんなに近くで~。で、何話したの? ね、ね?」
「な、何…? ヒカルちゃん、白沢先輩のこと好きなの…?」
美奈子の問に、ヒカルは「いやぁ~ん」とピンク色の声を出しながら身をよじって赤面している。
「そういうんじゃなくて、えーっと、憧れって言うか…。アイドルっていうか…。この学園じゃ、白沢先輩を知らない女の子はいないわよぉ~」
「私は知らなかったけど?」
平然と答える美奈子の肩をヒカルが力いっぱい叩いた。
「やっだぁ~、もう~。そりゃ、ミナちゃんはここに来たばかりだから、仕方ないよぉ~」
「そう、なんだ…」
ふと気付くと、教室内のエスカレーター組女子が全員、美奈子たちの一言一句を聞き逃すまいとしているのが見えた。
(こ、コワ!)
「で? 先輩とは何を話したの?」
「え? あ、別に…。私が花壇を眺めながらボーっとしてたら、『気持ち良さ気だねー』って声を掛けられただけよ?」
美奈子のその言葉に、教室中のエスカレーター組女子が「ああ」とか「ほ~」とか「羨ましい」とか言っている声が聴こえた。
「それだけ?」
何かを期待しながらキラキラした瞳で尋ねるヒカルを前に、美奈子はライブチケットの話をするかしまいかで悩み、結局チケットのことは言わずに黙っていた。
隠し事をしたかったわけではない。ただ単に、あの場でその事を言ったが最後、クラス中のエスカレーター組女子から一斉攻撃を浴びそうな嫌な予感がしただけだった。昔から、美奈子のこの手の予感はよく当たる。
(どうしたらいいのかなぁ…。でも、行かないと、それはそれで先輩から後で闇討ちとかされそうな嫌な予感もするし…)
美奈子の頭の中で、既に白沢は「黒いキャラ」として定着してしまっていた。
その時、教室の扉が開き、金平が入ってきた。
「席に着きなさい」
教室の中から話し声が消え、各自が席に着くと静寂が訪れた。
「おはよう、みんな」
金平の挨拶に、全員が揃って挨拶を返すと、金平は満足気に頷いた。
「よし。では、出席を取る。青木」
「はい」
昨日と違い、返事があった。だが、声の主がいるはずの席は空だ。
(あれ?)
美奈子が首を傾げていると、長身の男子生徒が一人、後ろの扉から平然と入って来て空いていた席に座った。教室の中が少しざわめく。
「ギリギリセーフだな、青木。もう少し早く来てくれるとありがたいんだがな」
苦笑しながらそう言う金平に、青木と呼ばれた男子生徒は特に何の感情も見せずに「努力はします」とだけ答えた。
出席の点呼の間中、自分の席から窓の外を眺めている青木は少し長めの髪が横顔を覆ってはいたが、割と端正な顔立ちをしていて、独特の雰囲気を持った少し印象的な少年だった。頬杖を突きながら窓の外を眺める姿が様になると言うか、絵になる。
(絵…?)
美奈子は「あれ?」と思いながら青木を見た。青木は相変わらず午後の新入生歓迎会について話している金平を無視して窓の外を眺めている。
(あの雰囲気。どこかで…。えーっと…。ああっ!」
美奈子は思い出してハッと息を飲んだ。
(あの人も、ドキめも3の攻略対象じゃない?)
美奈子は教室を少し見回した。
(緑山君、青木君。あ、あと、ヒカルちゃんの友達の赤井君! 彼もそうかも! これは偶然なの…? それとも…)
小波は昨日、美奈子に告げた。美奈子はドキめも3の主人公ではないのだと。だとすると。
(いるんだわ、きっと…。このクラスの中に、ドキめも3の主人公が)
昼休みになり、美奈子はヒカルと一緒に学園のカフェテリアにランチを食べに行くことにして廊下を二人で歩いていた。
「カフェテリアも中等部と共有なんだけどね、なかなか充実してるんだよ~」
「そうなんだ。楽しみ」
「おーい。ヒカルー」
二人の後ろから声がして振り向くと、そこには同じクラスの赤井健太が緑山剛と一緒にカフェテリアに向かって歩いているところだった。
「あ、健太! 健太たちもカフェテリアでランチ?」
「そ。お前らも行くんだったら、一緒に食おうぜ」
健太の誘いに「いいかな?」と言う顔をして美奈子を見るヒカルに、美奈子は「そうしようよ」と笑顔で返すと、ヒカルは「オッケー」と明るい返事を男子に返した。
カフェテリアはまるでファミリーレストランのようで、充実したメニューに美奈子はどれを選んでいいのか随分と迷い、結局ヒカルの勧める「スター定食A」に決めた。
「結構、ボリュームあるわね」
「でしょ? 私はペロッと食べちゃえるけど、食べ切れなかったらさ、ほら、ここに2人、残り物を処理してくれる人たちがいるし」
ヒカルがそう言って健太と剛を指差すと、2人とも「おう、任せとけ」と言って笑った。
「そう言えば、桜木さんは部活はどうするんだ?」
剛からそう訊かれて、美奈子は「うーん」と言いながら両腕を胸の前に組んだ。
「まだ、わからないの。とりあえず、今日の午後に新入生歓迎会があって、部活の紹介とかもあるんでしょ? それ見てから候補を絞って決めるわ」
「うんろーへー?」
おかずのトンカツを頬張りながら尋ねる健太に、美奈子は笑いながら答えた。
「運動系には見えないでしょ、どう見ても。私、運動苦手なの」
「へー。ミナちゃん、運動ダメなの? ざーんねん。私、バスケ部に誘おうかと思ってたのにぃ~」
ヒカルが残念そうな声を出した。
「ヒカルちゃんはバスケなんだ?」
「うん! 中等部からずっと続けてるから、そのままやろうと思って。先輩達のことも知ってるから楽だし。健太もどうせ、サッカーでしょ?」
「おう」
「緑山君は?」
ヒカルの問に、剛がバレーボールのスパイクのジェスチャーをしながら答えた。
「俺はバレー部。前の中学でもやってたんだ。これでも、中学の時は県大会まで行ったんだぜ?」
「へえー。皆、運動系なんだね。青春してるなぁ…」
美奈子が感心しながら言うと、ヒカルが笑いながら言った。
「ミナちゃん、何か口調がおばさんっぽいよ?」
ヒカルの突っ込みに、美奈子は飲みかけの水を噴出しそうになってむせた。
(うっ。しまった!)
「ケホッ! そ、そお? わ、私は、何か自分に出来そうな部活を探すよ、うん。それに、バイトも探さなくちゃいけないし」
「バイト?」
少し驚いて美奈子を見る三人に向かって、美奈子は微笑みながら頷いた。
「うん。うち、今両親が海外で、月々の生活費が決まった額しかないでしょ? 欲しい物はバイトしてねって言われてて。この学校、幸いバイト禁止じゃないみたいだし」
美奈子の言葉に、ヒカルが感心したように頷いた。
「まあね~。私も高校生になったから、バイトもやってみたいけど…。当面は部活に燃えるかなぁ…」
「そうだな。部活やって、それでもバイトできる余裕があるかわかんねーし」
健太の言葉に「そうだよな」と剛が同意する。
「勉強もあるしねぇ…」
ほう、と4人が同時に溜息を吐いた。
少しの沈黙の後、ヒカルが目の前のジュースのストローをいじりながら口を開いた。
「ミナちゃん、知ってた? この学校、試験の順位を学内に張り出すんだよ~。今時、信じられる? 人権侵害だよね~」
美奈子は『ドキめも』恒例の試験結果のイベントを思い出しながら頷いた。
「あ、そう言えば、そうだね」
「? 知ってた?」
「!! え、えーっと、そんなことを誰かから聞いたと思う」
(危ない、危ない。『ドキめも』イベントでそうだよね~とか、言えないんだった!)
「桜木って、ボーっとしたり、ハッとしたり、何か七面相で見てて飽きねーよな」
健太の言葉に、思い出したように剛が言った。
「そう言えば、昨日、桜木さんはどこから来たわけ?」
「えっ?」
「ほら。俺らが会った時。あの時、桜木さん、落ちてきたじゃん」
何気なくそう言った剛の言葉に、ヒカルと健太は両目を大きく見開きながら口を開いたまま固まっている。
「お、お、落ちてって…?」
「おいおいおい。何だよ、それ…」
唖然とする二人に、剛は平然と「こう、空からさ…」とかジェスチャーまで交えて話している。
「ちょ、ちょっと、緑山君! それは、えーっと…」
(ど、どうしよう…)
困惑している美奈子の気も知らずに、ヒカルと健太は剛に「何? どういうこと?」などと訊いている。
(やーめーてぇぇー)
知らず知らずのうちに頭を抱えながら俯いてしまった美奈子に気付いたヒカルが、美奈子に悪いと思ったのか「ま、まぁ、何か事情があったんだよね?」などと言って取り繕っている。
「あ、悪い。俺、何か言っちゃいけないこと言ったか?」
剛の優しい声が聴こえて美奈子が顔を上げると、心配そうな顔をした剛と目が合った。
「あっ。えーっと。ううん。気にしないで? っていうか、あのことは忘れて?」
美奈子が無理に笑みを浮かべながらそう言うと、剛が少し赤い顔をしながら「あー、うん。わかった」と言ってジュースを飲んだ。
午後の新入生歓迎会はなかなか楽しいイベントで、各部活の先輩達があの手この手で1年生の興味を引こうと頑張っていた。
「ミナちゃん、どこに見学に行くか決めた?」
「うーん。料理かなぁ…。そのくらいしか私、取り得ないし」
自信無さ気に美奈子がそう言うと、ヒカルが笑顔で言った。
「ミナちゃん、お料理できるの? さすがだね! 私はお菓子作ったりするのは好きなんだけど、ついにこの間、お母さんから家の台所の使用禁止令が出されちゃってさ~」
「へ?」
キョトンとした顔をしている美奈子に、ヒカルがいたずらっ子の様に笑った。
「あのね、春休みの間に、暇だから家でクッキー焼こうとして台所燃やしそうになっちゃって。クッキーをオーブンに入れたの忘れたまま、ゲームに熱中しててさー。気が付いたらこう、な~んか焦げ臭いな~って」
「ああ、なるほど」
「料理部で何かお菓子とか作ったら、お裾分けしてね!」
「うん」
「やった!」
無邪気に笑うヒカルが、美奈子には何故か羨ましかった。
(いいわね。未来に何の不安も無くて、毎日が楽しくて…。私もあの頃は、こんな感じだったのかな…?)
ただ、自分の好きなことに熱中して、悩みがあってもそれは恋愛だったり、勉強だったり…。些細なことで一喜一憂していた、あの頃…。
「ミナちゃん、大丈夫?」
「え?」
ヒカルの声に気付いて顔を上げると、ヒカルが少し心配そうな顔をして美奈子を見ていた。
「あ、ごめん。何か言った?」
美奈子の言葉に、ヒカルはううんと言って首を横に振った。
「何でもない。ただ、ミナちゃんがちょっと寂しそうだったから。やっぱり、一人暮らしは寂しいのかなって…」
美奈子には、ヒカルの何気ない思いやりが嬉しかった。
「そうじゃないの。ちょっと、楽しそうなヒカルちゃんが羨ましかっただけ」
「楽しそう…? うん。私は楽しいよ? ミナちゃんは、楽しくない?」
美奈子は微笑みながら答えた。
「…楽しいよ?」
「そう。なら、良かった! あ、ミナちゃん、今日時間ある? あるなら、今日は私、放課後暇だから街を案内できるよ?」
「じゃ、お願いしようかな」
「よーし、じゃ、レッツゴー!」
少女達が笑いながら通り過ぎていくのを、小波は保健室の窓から微笑みながら眺めていた。
その日、ヒカルは美奈子をあおぞら駅の駅前にあるショッピングモールや商店街に連れて行ってくれた。ショッピングモールの中には映画館やゲームセンターなどもあり、いつか週末に遊びに来ようと約束して、その日は別れた。
「えーっと、ここから家に帰るには…」
電車通学のヒカルと駅前で別れた後、美奈子は携帯を開いてGPS機能を使って自宅の位置を確認していた。
「うん。こっちね」
地図を頭に入れて、美奈子は歩き出した。
(ついでにちょっとそこのスーパーでちょっと買い物しておこうかな…)
美奈子が駅前のスーパーに足を踏み入れようとした時、後ろから聞き覚えのある懐かしい声が聴こえた。
「桜木さん…?」
後ろを振り向くと、そこには私服姿の桃川祥子が立っていた。
「あ、桃川さん」
美奈子の言葉に、祥子が安堵したように微笑んだ。
「よかった。私の名前、覚えてくれたのね?」
祥子は笑顔で美奈子に近付いてきた。
「桃川さんこそ」
「私は人の顔と名前を覚えるの、得意なの」
「そうなんだ。私はまだ、クラスメートの半分くらいの顔と名前が一致しないの。桃川さんが羨ましい」
二人はお互いの顔を見合わせながらクスッと笑った。
「これから買い物?」
「うん。ちょっと、足りない物を買っておこうかと思って」
「私も。一緒していい?」
「うん。どうぞ?」
二人は店の中に入るとそれぞれ買い物カゴを手に、店内を歩き始めた。
「桜木さん、まだ家に帰ってなかったの?」
ふと、祥子が制服姿の美奈子に尋ねた。
「うん。放課後にヒカルちゃんが駅前を案内してくれてたの。私、ここに越してきたばかりだから」
「え? 桜木さんって、違う街から来たの? 私、あなたが藤寺さんと仲がいいから、てっきりあなたも中等部からのエスカレーター組なんだと思ってた」
驚いた顔で美奈子を見る祥子に、美奈子は首を横に振りながら答えた。
「違うわ。私は瑛星は高校からなの。でも、ヒカルちゃんとは不思議と気が合うって言うか」
「そう…。羨ましいわ。私にはまだ、友達がいないから」
「え?」
美奈子は休み時間の教室の様子を思い返してみた。そう言えば、祥子は必ず誰かとは一緒にいるが、その誰かはいつも違う人達だったような気がする。
「あ、桃川さんも、高校から瑛星なの?」
美奈子の問に、祥子は黙って頷いた。
「何だ。じゃ、私達、同じなのね」
「ふふ。そうみたい」
二人は顔を見合わせて笑った。その瞬間は美奈子を少し懐かしいと思わせると同時に、切ない気持ちにさせた。
「桜木さんの家はこの近くなの?」
「えーっとね、ここと学校の中間くらいかな。桃川さんは?」
「私の家はここから割と近いの。だから今も、お母さんに調味料足りないかもしれないから買って来てって使われてるんだけど。えーっと、あとは、ゴマ油かな…」
祥子は手に持った小さなメモと買い物カゴの中身を確認している。美奈子は少し長くなりつつあるレジの列を見ながら、祥子に告げた。
「私はこれで終わりだから、先にレジに並んでるね?」
「あ、桜木さん」
レジに向かおうとした美奈子を祥子が呼び止めた。
「何?」
「あの、途中まで一緒に帰らない?」
美奈子には、断る理由が何も無かった。
「うん。いいよ。じゃあ、出口の所で待ってるね」
美奈子の言葉に、祥子が嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとう! じゃ、私もすぐに追いつくから!」
そそくさとゴマ油を探しに行った祥子の後姿を見ながら、美奈子はクスッと笑った。
(何か、ああいうところは祥子っぽいな…)
彼女が祥子なのか、それともただ単に祥子に似た同姓同名の人物なのかは、美奈子にはまだわからない。それでも、彼女の存在は見知らぬ世界に飛ばされた美奈子を安心させてくれる。
(ヒカルちゃんは私に元気をくれるけど、祥子は昔に戻ったみたいで何だか落ち着くな…)
レジで会計を済ませ、出口の近くの雑誌コーナーでパラパラと雑誌を立ち読みしていると、祥子が買い物袋を下げてやって来た。
「ごめん。おまたせー」
「ううん、そんなに待ってないよ。じゃ、行こうか?」
「うん」
二人は通勤帰りの人々で混雑し始めたスーパーを後にした。外はすっかり日も落ちている。
「うわ。遅くなっちゃったかな。お母さん、怒ってるかな~」
祥子がそう言いながら夜空を見上げた。睫毛の長い横顔は、美奈子が昔、眺めるのが好きだったあの横顔だ。
「し…。桃川さんは、兄弟とかいるの?」
元の世界の祥子には、姉と兄が一人ずついたと記憶していた。
「うん。弟が一人。これがまた、色々とうるさいんだ~」
元の世界の祥子の家族設定と違うのを知り、美奈子は少し安堵した。
(やっぱり。彼女は私の知ってる祥子とは違うんだ)
「どうかした?」
黙ってしまった美奈子を気遣うように、祥子が問い掛けた。美奈子は慌てて首を横に振る。
「あ、ううん。でも、賑やかそうでいいね」
「賑やかは賑やかだけど…。そういう桜木さんは? 家族は?」
「私は一人っ子。両親は今、二人ともアメリカに行ってるのよね」
美奈子の言葉に、祥子が大き目の眼をさらに大きくして驚いていた。
「ええっ? じゃあ、桜木さん、今、一人暮らしなの?」
「うん」
「そっかー。大変だね」
「そうかな?」
「だって、家事とか洗濯とか、全部自分でやるんでしょ?」
「まあね。でも、一人だから手抜きでもオッケーだし」
「あ、そっか」
「うん」
いつの間にか、二人は分かれ道まで辿り着いていた。
「あ、じゃあ、私はこっちだから」
「うん。じゃ、また明日」
二人はお互いに手を振りながら、別々の道へと歩き出そうとした。
「桜木さん!」
不意に、美奈子の後ろから祥子の声がした。美奈子が驚いて振り向くと、祥子が分かれ道の角に立ち、こちら側を見ていた。
「何?」
美奈子が尋ねると、祥子は少し考えてから口を開いた。
「あ、えっと…。そうだ。明日、お昼一緒に食べない?」
「ヒカルちゃんと一緒でもよければ、喜んで。学食でもいい?」
祥子は笑顔で頷く。
「うん。あ、あと、携帯の番号とメアド、教えて?」
「あ、うん。いいよ」
二人はお互いの連絡先を交換し合った。美奈子のアドレス帳に、エントリーが増えていく。一番最初に入っている「白沢学」の文字を見て、美奈子は今朝の出来事を思い出して苦笑した。
「どうしたの?」
美奈子の顔を不思議そうに見ている祥子に「何でもない」と言いながら、美奈子は今朝、白沢から貰ったライブのチケットのことを思い出した。
「唐突で悪いんだけど、桃川さん、再来週の金曜日の夜って、暇?」
「再来週…? 何かあるの?」
「うん。白沢先輩に今朝、先輩がやってるバンドのライブチケットを2枚貰ったの。『可愛い女の子を連れて来い』って言われちゃったんだけど…。良かったら一緒に行かない?」
「か、可愛い女の子…? 私でいいのかな?」
「十分過ぎるでしょ? で、先輩達のバンドは夜10時くらいからって言ってた」
「10時かぁ…。結構遅い時間なんだね。ちょっと今晩、親に訊いてみるね?」
「うん。じゃ、また明日!」
「またね」
祥子の姿が角から見えなくなると、美奈子は自宅に向かって歩き始めた。
自宅に戻って軽く夕食を済ませた後、美奈子が携帯をチェックすると、何件かメールが入っていた。一つはアメリカに行っているという「両親」から無事に入学式が終わったかというメール。ヒカルからは今晩8時からのお笑い番組が面白いから見てみてと言うメール。その次に祥子から再来週のライブの件は大丈夫だというメールが入っていた。
(あ、良かった。でもこれ、クラスの女子に知られるとうるさいだろうな~)
美奈子は祥子への返信に「クラスの女子(ヒカルちゃんも含む)には、チケットのことは内緒にしておいてね」と書いて送った。
すぐに祥子からは「了解! (^o^)/」というメールが返って来た。
祥子からの返信メールを見ながら、美奈子は微笑んだ。
(何か、楽しくなってきちゃったな)
その時、美奈子の携帯が新着メールの着信を伝えた。
「ん?」
メールは白沢からだった。
『From:白沢学
美奈子ちゃん、おやすみ (^*^)』
「こ、この顔文字は、『チュ』ってこと…? 何これ~」
美奈子が床に転がりながら笑っていると、携帯が鳴った。
「も、もしもし…? あはは」
「『あはは』って何?」
白沢だ。
「あ、先輩。先輩のメール、ウケました…」
「失礼だな。僕が大サービスで打ってやったあのメールに、返信もしないで爆笑かい?」
「返信しようと、思ってましたよ? でも、あれを越えるのは無理です…」
携帯の向こうで白沢の溜息が聴こえた。
「別にウケ狙いじゃないから。それに、無理なら態度で示してみれば?」
「は? 態度、ですか?」
「そ。明日も朝、今朝くらいの時間に同じ場所においで」
「ええー」
美奈子は今朝、クラスの女子が大騒ぎしていたことを思い出した。
「何? 嫌なの?」
追い討ちをかけるように、白沢の声が棘を帯びる。
「嫌って言うか…。クラスの女子に先輩のファンが多くて大変なんですよ、私…」
美奈子の言葉に、受話器の向こうからクスっという声が聴こえた。
「だから言っただろう? 僕は有名だって」
「そうでしたね~」
軽く受け流す美奈子の返事を聞いて、受話器から白沢の溜息が聴こえた。
「ふう。君って子は、全く…。それで、一緒に行く相手は決まったの?」
「あ、はい。クラスメートの女の子が一緒に行ってくれるって…」
「そう。可愛い子?」
白沢の問に少し呆れながら、美奈子は自信満々に答えた。
「その辺は、バッチリです。御期待に沿うかと」
「でかした。じゃ、君の働きに免じて、明日の朝は免除してあげるよ。また連絡するね」
「はあ」
美奈子の気の無い返事に、白沢が呆れたような声を出した。
「…あのね。そこは『はい、先輩。私、待ってます(ハート)』だろう?」
「その、『(ハート)』って、何ですか?」
「その位のサービスはしろよ。この僕がせっかく電話掛けてやったんだから」
白沢の言葉に少しムッとしながら美奈子が言う。
「全く意味がわかりませんよ」
向こうも怒らせたと思ったのか、白沢は少し優しい声になって言った。
「…僕が聴きたいだけ。頼むから、言ってごらん?」
(何だかなぁ、もう…)
美奈子は諦め半分で深呼吸をして、携帯を持ち直した。
「はい、先輩。私、待ってます」
「…(ハート)は?」
「そのサービスにはお応えいたしかねます」
受話器の向こうから、不満気な呟きが聞こえたが、美奈子にはよく聞き取れなかった。
「ま、今日はこのくらいでいいか。じゃ。おやすみ」
「おやすみなさい」
電話が切れた。
「…何だかなぁ、あの人は。変な人と出会っちゃったな」
ふと、携帯の文字が美奈子の目に入る。着信履歴の一番上に、「白沢学」。それと同時に、美奈子は『ドキめも3』の登場人物を思い出した。
「ああ! 白沢先輩も、ひょっとして攻略対象? これって、何かの偶然? それとも…」
美奈子は悶々としたままベットに入り、いつの間にか眠りに落ちていた。