1話 「御入学」
冬の柔らかな日差しを窓越しに顔に感じながら、金平美奈子はふぅ、と溜息を一つ吐いた。少し白っぽく見える窓の外の景色が、美奈子の息でさらに曇った。
寝室から夫の恭平が出てくる音が聴こえ、美奈子はのろのろと居間から玄関に向かった。夫は玄関で靴を履きながら美奈子に言った。
「今日も遅くなる」
「わかったわ。いってらっしゃい」
「ああ」
夫はそのまま、美奈子と目を遭わせることも無く、外へと出て行った。と、同時に洗濯機のブザーが聴こえて来た。
「はいはい。今、行きますってば」
洗濯物を干しながら、空を眺める。今日もいい天気だ。けれど、美奈子の気分は晴れない。昨日、街に買い物に出た時に高校時代の友人、桃川祥子に偶然会ってからというもの、美奈子の心には悶々とした黒い霧がかかったようだ。
(やだわ、こんなの…。私らしくない。向こうは向こう、私は私。それはわかってる。けど…)
祥子と美奈子は仲が良く、背格好も似ていたので、高校時代は二人でいると双子のようだとよく言われた。そんな2人も高校卒業後は進路が分かれ、美奈子は短大へ、祥子は四年制の大学へと進んだ。高校時代から将来のことが漠然としすぎていた美奈子と違い、祥子は大学の経済学部を卒業した後に一流企業に就職し、その3年後にはポーンと身軽にアメリカの大学へと留学した。アメリカでMBAを取った後、数年間は向こうの会社で働いていたようだが、その後日本に帰国して、今は確か、コンサルティングだか何だかの仕事をしているはずだ。
お互い、時々は連絡を取り合ってはいたものの予定が合わず、会うことはほとんど無かった。それなのに昨日、偶然に街で遭遇したのだ。
美奈子には祥子がすぐにわかった。祥子は昔とほとんど変わっていなかった。ハッキリした顔立ちには目元が印象的なメイクが施され、意志の強そうな瞳が昔と変わらない光を放つようだった。グレーのパンツスーツをスッキリと着こなし、彼女の周りだけ空気が違っているようにさえ感じた。
祥子に声を掛けるのを美奈子は一瞬躊躇い、少し離れたところから彼女の様子を見ていた。祥子は仕事中なのか、スーツ姿の若い男性と女性と一緒に何か立ち話をしていた。
そのまま声を掛けずに立ち去ろうかと思った瞬間、美奈子に気付いた祥子が声を掛けた。
「美奈子? 美奈子じゃない?」
美奈子はその場からすぐに逃げ去りたかった。自分は地元であるせいもあってカジュアルな格好をしていたし、メイクすらしていない。しかし、あっと言う間に祥子は美奈子のすぐ側まで歩み寄っていた。
「…祥子?」
「ああ、やっぱり美奈子ね? 違ってたら恥ずかしいなと思ったけれど、思い切って声を掛けてみてよかった!」
昔と変わらない笑顔で生き生きと晴れやかに微笑む祥子を見て、美奈子の身体の奥底がチクリと痛んだ。
「何年ぶりかしら。ひょっとして、美奈子の結婚式以来?」
「そんなになる? だとすると、もう五年以上も会ってなかったのね。でも、あなたは全然変わらないわね」
「そう? フフ。ありがとう。あなたもそんなに変わってないわよ?」
「お世辞はいいわよ。太ったのはわかってるから」
二人はお互いの連絡先を確認すると、近いうちに食事でもしようと言って別れた。
どうしてこんなに違ってしまったのか。
そんなことを思うのは不毛だとはわかっている。
でも、いくらその考えを頭の中から振り払おうとしても、もやもやとした霧は晴れてはくれない。そして、美奈子はそんな自分が何よりも嫌いだった。頭ではわかっているつもりなのに、心がいつまでもウジウジと同じ事を考え続ける。
―容姿も成績も、双子のようにずっと同じようなものだったのに。今の二人のこの差は何?
―私も、もしかしたら今の祥子のようになれていたの?
―それなら、私はどこで何を間違えてしまったの?
美奈子は雑念を払うように頭を横に振ると、キッチンに行ってお茶を淹れた。時計を見ると、まだ昼まで時間がある。今日のパートのシフトは午後1時からの予定だから、昼までのんびりできる。
「お昼まで、ゲームでもしてようかな」
美奈子はそう言いながら携帯ゲーム機をキッチンのカウンターの隅から取り出した。
「ゲームの世界はいいわよね。間違えたらやり直せるし」
独り言を言いながら、キッチンの戸棚に隠しておいた新しいゲームソフトのパッケージを取り出した。美奈子は最近、巷で「乙女ゲー」と呼ばれる恋愛シミュレーションゲームが好きで、特に主人公が高校生活を送る「ドキドキめもりーず」という作品にハマっている。パートの仕事をしているのも、ゲーム代欲しさのためだし、実は昨日の買い物も、予約をしていた「ドキめも」の最新版「ドキドキめもりーず 3」の発売日で、それを取りに行っていたのだ。
「さーて、どの子から攻略しようかな~」
箱を開け、説明書をパラパラとめくりながら登場人物の絵を眺める。どの登場人物も個性的だ。
「ま、とりあえずやりながら決めようかな」
ソフトをゲーム機に差し込んで、電源を入れた。ゲームの起動音がする。美奈子はいつも新しいゲームを買うとそうするように、じっと画面を覗き込む。ゲームのオープニング画面が出てくるのを、まるで映画か演劇の幕が開くかのように、じっと待つ。
画面の上の「Now Loading」の文字が消えた。
「ううっ。ドキドキするっ」
だが、オープニングの映像が流れるはずのその画面から突然、強い光がほとばしり、美奈子の周りを包み込んだ。
「えっ?」
あまりの眩しさに、美奈子は目を細めた。次の瞬間、ジェットコースターに乗っているかのような、引力に逆らうような妙な感覚が美奈子の全身を覆った。
「きゃあ~~!」
叫び声を上げながら身体を丸めていると、身体に何かが当たる衝撃がした。
「い、痛…」
呻く美奈子の横で何かが動く気配がしたと思った瞬間、「イッテーー!」と言う男の子の呻き声が響いた。
「えっ?」
目を開けて声の方を見てみると、高校生くらいの男の子が、美奈子を抱きかかえたまま地面に倒れこんでいて、美奈子は彼の上に乗っているような状態だった。
「き、きゃあぁぁ! ご、ご、ごめんなさい!」
美奈子が慌てて男の子の身体から飛びのくと、男の子は頭を押さえながら起き上がった。
「いや、いいけどさ…。君は怪我、無い?」
「私は大丈夫。ごめんなさいね? 重かったでしょう?」
男の子は「いや、別に…」と言いながら身軽に立ち上がると、まだ地面に座ったままの美奈子に向かって手を差し伸べた。男の子は背が高く、逆光で顔がよく見えない。
「立てる?」
「え、ええ…。ありがとう…」
差し出された大きな手を恐る恐る掴んで立ち上がり、身体についた泥を落とそうとして初めて、美奈子は自分が制服のようなものを着ていることに気付いて硬直した。
(え?)
緑と青のチェックのスカート。しかも、丈は膝より上。足は紺のロングソックスを履き、茶色の革靴を履いていた。上は白のブラウスに濃紺のブレザー。左胸には何かのエンブレム。胸元には赤いリボン…。
(何、これ…。私的に、全くありえない格好なんですけど)
制服にも驚いたが、痩せている自分にも驚いた。この体型はいつ以来だろう。
(夢…?)
ベタな技だけれど、頬をつねってみる。痛い。
「っつ!」
「君、大丈夫?」
先ほどの男の子が自分で自分の頬をつねっている美奈子を心配して、声を掛けてきた。
「え? えっと…。さあ?」
困惑顔の美奈子を見て、男の子は「まいったな」と言いながら右手で頭を掻いた。
「ま、その制服ってことは、行き先は同じだろ? 早く行かないと初日から遅刻だ。急ごう!」
「え? あ、ちょっと待って!」
「早く来いよ!」
とりあえず、美奈子は走り始めた男の子の後をついて、一緒に走り始めた。
走って行くにつれて、美奈子と同じ制服を着た人たちを見ることが多くなった。
(一体、どこに向かってるの…?)
彼らが向かう先に、大きく校門を開け放った学校らしき建物が見えてきた。門の横に、金色に輝くプレートがある。
「私立 瑛星学園高等部」
校門を通り過ぎると、目の前に大きな白い校舎が見える。その中央には、制服に付けられた物と同じエンブレムが光っていた。
(瑛星学園…? 聞いたことがあるような…。どこだっけ?)
校門を入ると、美しい桜並木が続いている。どの木も満開の花を咲かせている。
(桜…? 今って、冬じゃなかった? それに、この風景、どこかで見たような…。うーん?)
あちこちに、美奈子と同じ制服を着た男女が楽しそうに話をしている。
(何か、『ドキめも』に出てくる学校みたい。って、あ、えええっ?)
美奈子の中で、何かがピッタリと合わさったような感覚がした。
(ちょっと待った! 瑛星学園って、『ドキめも』の舞台になってる学校と同じ名前じゃないの?)
何かの間違いだろうと思う。だが、校舎は『ドキめも』の1と2を既にプレイ済みの美奈子には馴染みのある外観だし、制服もゲームの説明書に描かれた登場人物たちが着ていた物とデザインがよく似ている。だが、美奈子には何故、自分がこの制服を着て、この校舎にいるのかがさっぱり理解できない。
「えーっと、クラス分けはどこだ?」
美奈子と一緒に走ってきた男の子が、校舎の前を見渡した。
「あ、あそこだな。人だかりがあるし。ほら、行こうぜ!」
「あ、ちょっと待って!」
息を切らせながら男の子に追い着くと、美奈子は男の子に尋ねた。
「ねえ、ここって…」
「あ、俺、A組だ。君は? そのリボンの色は、同じ学年だろ?」
興奮した様子で美奈子に話しかける男の子を見ながら、美奈子はガックリと肩を落とした。
(聞いてないし…)
男の子は美奈子の様子を見て、「あ、そうか」と何やら納得した様子で美奈子に尋ねた。
「あ、もしかして、そこからじゃ見えないのか? 俺が見てやるよ。名前は?」
名前を尋ねられ、美奈子は咄嗟にいつも『ドキめも』で使っている自分の旧姓で答えた。
「桜木美奈子。桜の木に…」
「美しいと奈良の奈で子? A組だ。一緒だな、桜木。これから1年、よろしくなっ」
ニカっと爽やかに微笑む少年を見ながら、美奈子は混乱していた。
(何なの、この展開…。嘘だ。嘘よ…。何かの間違いだってば。じゃなかったら、ドッキリ…? 私、何の変哲も無い一般主婦ですけどっ)
目の前の男の子が呆然としたままの美奈子を見ながら、腰を少し屈めて美奈子に顔を近づけた。近くで見ると彼は涼しげなキレイな顔をしていて、美奈子は一瞬、不覚にもドキッとした。
「何だよ。俺と一緒のクラスが嫌なのかぁ? 1年A組…」
「1年…」
(ってことは、私は今、15歳…?)
「大丈夫か? そう言えば、君ってさっきも空から落ちて来たよな。保健室に行くか?」
「いえ、結構です」
「じゃ、早く教室に行こうぜ!」
男の子は爽やかに微笑むと、さっさと昇降口に向かって歩き始めた。仕方なく美奈子が彼の後ろを歩いて行くと、彼はふと立ち止まって振り返った。
「あ、俺、まだ名乗ってなかったな。俺は緑山剛。よろしくな、桜木」
(緑山、剛…? 何か、聞いたことがあるような…)
美奈子の脳裏にふと、「ドキめも」のブックレットが甦った。
(あれ? もしかして、「ドキめも3」の攻略対象の一人がそんな名前だったかしら…?)
考え事をしている美奈子の肩を剛が軽く叩いた。
「本当、大丈夫か、桜木? ほら、早く教室に行こうぜ」
「うん。よろしく、緑山君」
下駄箱にも、教室の机にも、「桜木美奈子」の名前がきちんと書かれていた。何故か持っていたバックの中には、カワイイ携帯や筆記用具も入っていた。
(何なの、これ…)
新学期なのが幸いして、美奈子が周りの人間を誰一人知らなくても、何とか誤魔化せた。教室で所定の机に座ると、美奈子の近くにいた女の子が声を掛けてきた。最初は少しぎこちないながらも、会話を始めて少しすると、何となく会話が弾み始めた。
「あ、私の名前は藤寺ヒカル。私は中等部からのエスカレーター組なんだ~。よろしくね?」
「私は桜木美奈子です。こちらこそ、よろしく」
「美奈子ちゃんか~。あのさ、『ミナちゃん』って呼んでもいい?」
「うん。もちろん。ヒカルちゃんは、『ヒカルちゃん』でいい?」
「もちろん!」
「うふふ…」
(ああ、何か新鮮だな、こういう会話…)
美奈子は、二十数年ぶりの女子トークに馴染んでいる自分が不思議だった。
(これも普段『ドキめも』とかプレイしてるお陰かしら…)
ヒカルと話している美奈子の視界の端に、緑山剛が入った。どうやら他の男子と話に盛り上がっているらしい。ヒカルが美奈子の視線に気付き、剛をチラッと見て言った。
「ミナちゃんと緑山君って、お友達?」
興味津々といった顔をして尋ねるヒカルに、美奈子は微笑みながら首を横に振った。
「ううん。今日知り合ったの。ここに来る途中でぶつかっちゃって」
「へえー。そうなんだ。あ、健太!」
ヒカルが手を振ると、その先にいた男子が振り向いてヒカルに向かって手を振った。
「友達?」
「うん。小学校から一緒で、腐れ縁ってやつ? 家も近所だしさ。そう言えば、ミナちゃんはどこの中学に行ってたの?」
ヒカルのこの問に、美奈子は言葉が詰まった。
「あー。えーっとね、この街じゃないんだ」
「引っ越してきたんだ?」
「う、うん」
「そうなんだ~。じゃ、今度街の中を案内してあげるよ」
「ありがとう」
そんな会話をしていたら、教室の中にスーツ姿の男性が入ってきた。
「全員、速やかに指定されてる席に着きなさい」
ガタガタという音がそこら中から聴こえ、すぐに教室の中が静まり返る。教室の中の生徒全員の視線を浴びながら教壇に立ったその人の姿を見て、美奈子は息を飲んだ。
(う、嘘…。恭平さん…?)
担任の先生が、黒板の上に大きな文字で「金平恭平」と書いた
「この、1年A組の担任を務めることになりました、金平恭平です。担当教科は古文です。1年間、よろしく」
担任は、美奈子の夫に瓜二つだった。名前も同姓同名だ。整えられた髪形も、フレームレスのメガネも同じ。だが、良く見ると、担任の方が美奈子の夫よりも大分若く見えるような気がした。
「では、入学式まであまり時間が無いので、早速だが点呼を取る。青木遥」
…返事が無い。
「青木?」
金平の呼びかけに、誰も返事をしなかった。それもそのはずで、その生徒に指定されているはずの席が空のままだ。金平はふう、と溜息を一つ吐いてから出席簿に視線を落とした。
「次、赤井健太」
「はい!」
ヒカルの友人だ。
その後も点呼は次々と進んだ。金平に自分の名を呼ばれて返事をした時、美奈子と金平は目が合ったが、彼は美奈子の顔を少し確認しただけで、特に変わった反応を見せなかった。
ヒカルが点呼で元気に返事をした後、美奈子は再び自分の目を疑った。
「桃川祥子」
「はい」
彼女は美奈子の高校時代の親友、祥子に良く似ている。名前も、同じ。
美奈子の視線に気付いたのか、祥子が美奈子に微笑んだ。美奈子はその懐かしい笑顔にドキっとすると同時に、何故か罪悪感を感じて俯いた。
(何なの、ここは…。恭平さんだけじゃなく、祥子まで? 何の冗談よ?)
美奈子は妙に落ち着かない気分のまま、入学式に挑んだ。
入学式の後、教室に戻ってからは簡単なホームルームがあった。簡単な明日からの説明などがあった後、下校という段階になって、美奈子はあることに気が付いた。
(私…。一体、どこに帰ればいいの?)
持っていたカバンの中を見てみたが、家の住所が書かれたようなものは見当たらない。
(そりゃそうよね。高校生にもなって、家の住所とか持ち歩かないわよね、普通…。でも、どうしよう)
とにかく外に出てみようかと立ち上がり、教室を出ようとした時に、美奈子は後ろから聴き慣れた声に呼び止められた。
「桜木。ちょっと待ちなさい」
振り向くと、そこには金平がいた。
「は、はい。何でしょう?」
「保健医の小波先生から君への言伝を受けていた。帰る前に保健室に寄って欲しいそうだ」
「保健室、ですか?」
美奈子が少し首を傾げながら尋ねると、金平は確認するように頷いた。
「ああ。一階の昇降口を東側に行った奥にある。わかるか?」
「わかると思います。ありがとうございます」
小さく会釈する美奈子に、金平がフワリと柔らかく微笑んだ。自分の夫がよく見せる表情を見て、美奈子の心がざわざわと落ち着かなくなった。
(ああ、本当に恭平さんによく似てる…。何故…?)
美奈子が金平の顔を見上げながら微笑むと、金平は満足そうに頷いた。
「ああ。ちゃんと行くんだぞ?」
「はい。さようなら、先生」
「さようなら」
階段を一階まで降りながら、先程の状況を思い出し、美奈子はクスクスと笑った。
(「先生」だって…。笑っちゃうわよね)
美奈子の夫の恭平はサラリーマンで、「先生」と呼ばれる職業に付いたことはない。それに、実際の恭平は美奈子の2つ上だが、ここでは向こうは「先生」だから、少なくとも10歳くらいは年上だろう。
保健室は金平の言った通りの場所にあった。ドアを軽くノックすると、中から女の人が「どうぞ」と言う声が聴こえた。美奈子がゆっくりと引き戸を開けると、中には二十代半ばくらいの白衣を着た女性が机に向かっていた。
「あの…。1年A組の桜木です。ここに来るようにって言われたんですけれど…」
美奈子が恐る恐るそう告げると、女性は椅子から立ち上がって美奈子に近付いてきた。女性は背が高くスラリとしていて、長い黒髪を後ろに一つに束ねていた。涼しげな目元が印象的な、スッキリとした面立ちの美人だ。
女性は美奈子に微笑むと、「どうぞ。遠慮なく入って?」と言って美奈子に机の側の椅子を指し示した。
「あ、はい。お邪魔します…」
美奈子は扉を閉めると、指示された椅子に座り、カバンを膝の上に置いた。緊張した様子で座っている美奈子を見て、女性がクスリと笑った。
「そんなに緊張しないで、って言っても、説得力ないわよね。あなたも急にこの世界に来て、ビックリしてるんじゃない?」
「えっ?」
美奈子は女性の口から出た台詞を、信じられないと言う顔で聞いた。女性は微笑みながら美奈子の向かい側に腰掛け、足を組んだ。
「自己紹介がまだだったわね。私はこの学校で保健医をしている、小波潤子って言います。はじめまして、桜木さん」
「はじめ、まして…」
呆然とする美奈子を気に留めずに、小波は事務的に話を進めていく。
「私が今日、あなたにここに来てもらったのは…」
そう言いながら、小波は机の上から大きな茶封筒を取り出した。
「これを渡すためなの」
「はい?」
渡された茶封筒は厚みがあり、少し重かった。「1-A、桜木美奈子」と書かれている封筒を、美奈子はじっと見つめていた。
「見てないで、開けて中の物を確認してくれるかしら?」
小波に促され、美奈子は茶封筒を開け、中身を取り出した。中から出てきたのは水色の表紙が付いた数十ページの冊子、数枚のレポート、そして家のものらしい鍵―。
「あの、これって…」
美奈子が顔を上げると、小波はうっすらと微笑みながら頷いた。
「まず、鍵はあなたの家の鍵。住所は、そのレポートの最初のページに書いてあるし、携帯のGPS機能を使えば『自宅』で出てくるから、迷わずに帰れるはずよ?」
言われた通りにレポートに目を通すと、そこには美奈子の名前、自宅の住所、自宅と携帯の電話番号、それから家族構成や生い立ちについて書かれていた。
「これは…?」
「それは、あなたのここでの設定。いわゆる、『設定表』ってやつ? しっかり覚えて、つじつまを合わせて頂戴ね?」
「はあ」
「それから、その水色のは、この世界の説明書みたいなものだから。基本的な暮らし方と、原則として守ってもらいたいルールが書いてあるから、これも今日中に目を通しておいてね?」
「はい?」
きょとんとしたまま見つめ返す美奈子を見て、小波は困ったように眉間に皺を寄せ、声を低くして言った。
「あなた、今、自分がどこにいるのか、ちゃんとわかってる?」
「えーっと。多分」
曖昧に答える美奈子を見て、小波が眉間に皺を寄せながら「多分?」と聞き返した。
「だって、その、私が思っているのは、あまりにも現実的ではないので…」
「いいから、言って御覧なさい」
小波に促され、美奈子はおずおずと自分の答えを口にした。
「えっと、『ドキめも』っていう、私の好きなゲームの世界の中みたいだなって…」
笑われるのを覚悟で言ったその答えに、小波は真面目な顔で頷いた。
「正解。その通りよ」
「えっ?」
目を見開きながら驚く美奈子を見ながら、小波は両腕を胸の前で組んで椅子の背もたれに寄りかかった。
「ここは『ドキめも』の世界。今はシリーズ3ってところかしら。そしてここはドキめもシリーズの舞台になってる、あおぞら市内の瑛星学園高等部。あなたは本当は何歳かは知らないけど、ここでは今は15歳、高校一年生」
「あの、それって…。私はゲームの主人公って事ですか?」
そう問い掛けた美奈子の期待を裏切って、小波は「いいえ」ときっぱりと言いながら首を横に振った。
「残念ながら、あなたは主人公じゃないし、そもそもここはゲームじゃないわ」
「はい?」
困惑顔の美奈子を見て、小波は小さく溜息を吐いた。
「ここには時々、あなたみたいな人が来ちゃうのよ。私はそういう人達のお世話も任されてるの。いいこと? この世界はゲームの世界だけど、実際にここで起こることはゲームじゃないの。ここにいる人たちは皆、ちゃんと生きてるし、それぞれ生活があって、人生があるわ。でも、あなたのいた世界とは少し勝手が違うから、ちゃんとそのルールブックは読んでおくようにね?」
「ゲームの世界だけど、ゲームじゃない…?」
美奈子の呟きに、小波が頷いた。
「そうよ。ゲームみたいにセーブもロードもできない。選択肢を間違えても引き返せない。時々その辺を間違える人がいるんだけど、ちゃんと肝に銘じておいてね?」
「き、気をつけます…」
「じゃ、話は以上よ? 今日は家に帰ってしっかりと渡した物を読んでおいてね? 他に当面の生活に必要だと思われる物は全て、あなたの自宅に揃ってると思うわ」
「はい」
美奈子は返事をしながら立ち上がると、小波から受け取ったものを通学バックにしまいながらふと、頭にある疑問が浮かんだ。
「あの…。小波先生?」
「何?」
「一つだけ…。質問してもいいですか?」
「どうぞ?」
美奈子は一つ深呼吸をすると、小波をしっかりと見つめながら尋ねた。
「私は…。私は、元の世界に帰れるんでしょうか?」
美奈子の問に小波はすぐには答えずに、逆に質問で返してきた。
「…帰りたいの?」
「えっ?」
「あなたは、元の世界に帰りたいの?」
小波の問に、美奈子の頭の中に元いた世界での色んな思い出が駆け巡る。生まれた家の事、友人の事、恭平の事…。それらは確かに美奈子の生活で、美奈子の日常だ。
(でも、私はそこに帰りたい…? あの日常に…?)
溜息ばかりを吐いていた毎日を思い出す。
「私には…」
美奈子の口が微かに動き、小さな声を紡ぎだした。
「まだ、わかりません」
美奈子がそう言うと、小波は困ったように笑った。
「なら、今はそんなこと考えなくてもいいんじゃない? 杞憂ってものよ?」
美奈子は頭の中で小波が言った台詞を反復すると、うっすらと微笑んで頷いた。
「そうですね。では、失礼します」
「気をつけて帰るのよ?」
「はい」
扉を閉める前に美奈子が再び会釈をすると、小波が微笑みながら胸の前で小さく手を振った。扉が静かに閉じられ、美奈子の足音が徐々に小さくなっていった。
美奈子の足音が聴こえなくなったのを確認すると、小波は自分の机に向かい、PCを開いて何やら打ち込み始めた。
「『桜木美奈子に説明終了』、セーブっと」
ふと窓の外を見ると、学園名物の桜の木が満開の花を咲かせていた。
「あの子は、三年後にどんなエンディングを迎えるのかしらね…」
やがて桜並木を通り過ぎる美奈子の後姿が視界に入り、それは桜の木の陰に隠れて見えなくなった。
小波に言われた通り携帯のGPS機能を使って「自宅」と打ち込むと、画面上の地図の上の自宅の位置らしい場所に赤い旗が立った。
「えっと、私はこの青い点だから、この道をとりあえず真っ直ぐ行って、よし! 大体の場所はわかったわ」
学校の周りは閑静な住宅街と言った雰囲気だ。一軒建ての家々が並び、その合間にアパートやマンションが立ち並ぶ。
(来る時は走ってたから、何にも見えてなかったみたい)
美奈子は周りの景色を注意深く観察しつつ歩いた。
(素敵ないい家ばっかり。うちとは大違いね。フフフ…)
確かに周りはいい家が多いが、逆に美奈子の住んでいた町にあるような「生活感」があまり無い。それがこの界隈ならではの雰囲気なのか、それともこの世界だからなのか、美奈子にはまだよくわからなかった。
学校から20分ほど歩いたところに、目的地はあった。
「ブルースカイコーポ。ここね」
小波から貰ったレポートの表紙を見ながら建物の名前を確認し、中へと足を踏み入れる。厚いガラスの扉を入ると広いロビーがあり、受付のような所にスーツ姿の中年の男性が一人座っていて、美奈子と目が合うと「お帰りなさい」と笑顔で言ってくれた。
「あ、ただいま…」
ロビーを通り抜け、エレベーターを見つけると、上りのボタンを押す。
(何か、スゴイ所なんですけど、このマンション…)
やって来たエレベーターに乗り込み、5階のボタンを押すと、エレベーターは静かに扉を閉めて動き始めた。
(私の部屋は、503号室ね。えーっと、鍵、鍵…)
美奈子がカバンの中から鍵を取り出すのとほぼ同時に、エレベーターが5階に到着した。
(503は…。あ、あった!)
茶色のドアの横に「503」と刻まれた金色のプレート。その下には「SAKURAGI」と彫られたプレートが付いている。
(間違いないよね? よし!)
鍵を鍵穴に差し込んで回すと、カチャンという音がして鍵が開く音が聴こえた。慎重にドアノブを回してそれを手前に軽く引くと、ドアが何の抵抗も無く外側に開いた。美和子は恐る恐る中を覗いてみたが、中は暗くてよく見えない。書類やGPS上では「自宅」でも、当の美奈子にとっては、他人の家に無断で踏み込むようなものだ。
(うう。でも、ここでこうしていても仕方ないし…。えいっ!)
清水の舞台から飛び降りるような気持ちで、美奈子は「自宅」に足を踏み入れた。玄関のすぐ脇に、照明用と思われるスイッチがポウっと暗闇の中で薄明かりを放っている。
(スイッチ、オン!)
目を閉じながら電気を入れ、恐る恐る目を開けると、そこには別に何の変哲も無いマンションの一室があるだけで、美奈子を安堵させた。家具や調度品は新品のものが多いらしく、どれもがスッキリしたデザインの当たり障りの無いデザインの物だが、色が統一されていて洗練された趣があった。
「うわぁ、素敵! こんなところに住んでみたかったのよね~」
1LDKの小さなマンションだが、一人暮らしには丁度いい広さだ。
(っていうか、高校生の分際で、こんな所に一人暮らしって、いいわけ?)
部屋の中には必要最低限の家具しかないが、それでも台所には一通りの調理器具や、1週間は買い物に行かなくても良さそうなくらいの量の食料品が詰まった冷蔵庫もあるし、自室には美奈子のサイズに合った服がいくつか用意されていた。勉強机の上には、PCもある。
(ここまで用意がいいと、何だか逆に気味が悪いわよね…)
美奈子は制服を脱いで適当な私服に着替えると、顔を洗いに洗面所に向かった。そこで初めて、美奈子は「自分」と対面した。
十五歳の自分は、少しあどけなさが残った顔をしていた。
「うわあ…。肌が若いっ!」
美奈子は少し感動しながら、自分の頬を自分の指でプニプニと押してみた。
「すごーい。すべすべー。毛穴小さ~い」
洗面所にはまだ使用されていない感じの洗顔フォームは置いてあったが、化粧水などはどこにも見当たらなかった。
「欲しけりゃ買え、と。そういうこと? でも、お金、どうしたらいいんだろう。貰った資料に何か書いてあるかな…」
洗顔後に、美奈子は小波から渡された資料を持ってリビングへと向かった。最初は気付かなかったが、リビングのテーブルの上には銀行の預金通帳、ATMカード、印鑑、保険証と共に、一枚の紙が置いてあった。紙には銀行の場所と月々の生活費が書いてあり、生活費は毎月1日に自動振込みされる事になっている。家賃と光熱費はそれぞれ支払先に直接振込みになっていて、美奈子が支払う必要はないそうだ。
(天国ですか、ここは…?)
提示された生活費は、一人で一月食べていくには十分な額だ。
(でも、その他に服だの何だのが欲しかったらバイトしろ、と。そういうことね?)
美奈子はそれぞれの物をきちんとしまうと、小波から渡されたレポートから読み始めた。
「桜木美奈子、15歳。家族構成は両親のみで、その両親は現在、父親の海外赴任でアメリカに滞在中。えーっと、それから…」
レポートの次にルールブックに目を通し終わった頃、美奈子の部屋の玄関のチャイムが鳴った。このマンションは外からのインターホンと、玄関のチャイムは別になっている。誰かが、美奈子の部屋のすぐ外にいる。
「ど、ど、ど、どちら様ですかっ?」
美奈子が震える声を振り絞りながら尋ねると、聞いたことのある声が扉の向こうから聴こえた。
「保健医の小波だけど。晩御飯、一緒に食べない?」
「は?」
美奈子が扉の覗き窓から向こう側を覗くと、そこには保健医の小波潤子が立っているのが見え、美奈子は慌てて鍵をはずしてドアを開けた。
「こ、小波先生! どうしてここに?」
小波はニッコリと微笑みながら答えた。
「ごめんなさい。言い忘れてたわ。私、隣に住んでるの」
「へ?」
キョトンとする美奈子に、小波は左隣を指差した。
「501号室」
「え、ええー? 何だ、それなら言って下さればよかったのに!」
「ごめんごめん。すっかり忘れてたから。それでね、夕食、作ったから、良かったら一緒にどうかと思って誘いに来たんだけど」
気が付けば、既に時計は7時を回っていた。時間を確認した途端にお腹が小さくグーッと鳴り、美奈子は顔を赤らめた。
「た、助かります。こんな時間になってたのに、気付きませんでした」
小波はクスクスと笑いながら「そうでしょうね」と言って頷いた。
「じゃ、鍵を忘れずに持って来てね? ここのドア、自動ロックになってるから、鍵忘れて外に出ると管理人さんに開けてもらうまで中に入れなくなっちゃうのよ」
「はい!」
美奈子は自宅の鍵を握り締め、扉を閉めると、隣の小波の部屋にお邪魔した。小波の部屋は美奈子の部屋と違い、女性らしい柔らかな雰囲気のする部屋だった。
「わぁ~。何か、女性らしいですね、この部屋」
「そう? ありがとう。そっちはまだ殺風景なんじゃない? 当面必要な物は全部あると思うけど、欲しい物は頑張って自分で手に入れてね?」
「やっぱり、その辺はシビアなんですね」
「当然でしょう? アルバイトは『ドキめも』の大事な要素の一つよ?」
「そうですけど…」
少し膨れっ面になった美奈子を見てクスクスと笑いながら、小波は食卓の用意を整えた。
「わぁ、美味しそう…!」
「ありがとう。今日はほら、こっちでの初日でしょう? 疲れて何も食べなかったりして、それで体調を壊しちゃったら元も子も無いから。ほら、遠慮しないでドンドン食べて?」
「ありがとうございます! いただきます!」
食事を始めてから、自分がどれだけお腹を空かせていたのかがわかる。それほど、ずっと緊張したままでいたのかもしれない。
「ルールブックは読めた?」
食事の後にビールを飲んでいた小波がふと、美奈子にそう問い掛けた。まだ食事をしていた美奈子は口に食べ物が入っていたので、とりあえず首を縦に振って返事をした。それを見て、小波は軽く頷いた。
「そう。…大丈夫そう?」
「はい。とりあえず、生活に慣れたらバイトでも始めます」
「部活はどうするの?」
「残念ながら、私は『ドキめも』の主人公と違って、どの部活でも選べるってわけじゃないもので。運動系はまず、ありえません。私、運動苦手なんです」
肩をすくめながらそう言う美奈子に、小波はニヤリと笑いながら言った。
「そのようね。今朝、かなり息を切らせながら走ってたしね」
「み、見てたんですか…?」
「まあね。毎年、入学式には必ず誰かがこの世界に来ちゃうから、今年はどの子かな~って」
小波の台詞の一部が、美奈子には気になった。
「毎年、ですか?」
「そうね、ほぼ毎年」
「毎年、一人?」
「人数は決まってないわ」
「じゃあ、今年は?」
真っ直ぐな瞳で小波を見つめる美奈子に、小波は少し考えてから、意地悪そうな笑顔で美奈子を見て言った。
「教えなぁ~い」
小波の答え方に、美奈子は一瞬ムッとした。
「ええー。何でですかっ?」
「だって、企業秘密だもの」
「企業?」
「知らないでいた方が、いいこともあるわよ? あんまりこの世界に深入りすると、私みたいになっちゃうから」
そう言いながらビールを飲む小波を見ながら、美奈子は首を傾げた。
「小波先生、みたいに…?」
「そう」
タン、と飲み干したグラスをテーブルの上に置きながら、小波は言った。
「私がここに来たのは、『ドキめも』がまだパソコン版だった頃よ?」
「え…。えええええっ! そ、それって…。初期のっ?」
「そう」
自分と同じように、この世界に来た人がいた。それは美奈子にとって心強いことではあった。だが。
「じゃあ、先生は…」
何かを言いかけた美奈子の言葉を、小波が少し悲し気な顔をして遮った。
「そう。それからずっと、ここにいるわ。グッドエンドにも、バッドエンドにもなれずに、ね」
「もしかして、この世界からは帰れない…?」
硬直しながらそう呟く美奈子に、小波は「そういうわけじゃないと思うわ」と言って立ち上がり、キッチンに向かった。追加のビールを持って戻ってきた小波は美奈子に言った。
「戻った人もいると思うわ。少なくとも、全員が全員、ここに私みたいに残ってるわけじゃないの。ただ、私にはいなくなった人たちが本当に元の世界に戻ったのかどうか、それを確認する術が無いだけ」
小波はビールをコップに注ぐと美奈子にも飲むかと尋ねた。
「遠慮しておきます。ここでは一応、未成年ですから」
「あら、切り替えが早くてエライわ。ま、しっかり頑張りなさい?」
「はい」
美奈子は食器の片づけを手伝うと、自分の部屋に戻ることにした。
「今日はご馳走様でした。美味しかったです」
「どういたしまして。また誘うわ」
「ありがとうございます」
「何かあったら相談に乗るから。学校でも家でも、遠慮無く押しかけて来ていいわよ?」
小波の申し出は、美奈子にとってありがたいものだった。
「助かります。小波先生」
小波は笑顔で頷くと、お休みと言って美奈子を送り出してくれた。
美奈子は自分の部屋に戻ると、大きく深呼吸を一つした。
見たことの無い部屋、見たことの無い家具。それでも、今日からここが自分の家だ。
「ま、ゲームをやってると思って、楽しみますか」
美奈子はベットに入ると、すぐに深い眠りに落ちた。