甘い甘い、甘美な絶望に浸る聖勇者
神の象徴である日は落ちて、夜になれば人の心に影が差し込まれるものだ。
それは学院に通っている高貴な者も例外ではない。
「落ち着け……落ち着け私……」
聖勇者レアがベッドの上で悶える。
兄の視界にも入らないような貴族と結ばれ、誰も気にしない場所で穏やかに暮らすという、立場と責務を全て投げ捨てる妄想が頭から離れない女は、その破滅願望を結び付ける先を見つけてしまった。
「ケイ・ウィンター……ウィンター男爵家の人だったんだ……」
呟いた名の持ち主は、初めて出会った時から目が離せなかった。
声を聞けば何かが満たされ、意識して視界から追い出さねば一挙手一投足の全てを見てしまいそうになる。
そしてなにより……。
「ううっ」
思わずレアは身を震わせる。
公爵家の娘なのに遠慮なく騒ぎたい彼女の望みを、ケイは明らかにくみ取っており、無理のない範囲でお騒がせ集団の輪に触れさせようとしてくれていた。
それがレアは嬉しくて益々彼に意識を向けてしまい、どうしようもない願望と癒着した。
「変だよぉ……」
弱々しく呟いたレア自身も、出会って僅かな時間しかたっていないケイに、感情が湧き上がるのはおかしいと思っている。
しかし理屈ではなく、暴れ回る願望を全く制御できなかった。
「ルシール様とリズベットは頑張ってるんだから、私だけ逃げる訳にはいかないっ」
友人を思い出して頭を大きく振る。
最も高貴な称号を持つ者として、彼女たちには大きな責務・義務がある。
それを自分一人投げ捨てる訳にはいかないと思うのは、本来あり得た分岐の全てに共通するものだ。
だが……もう一つ共通点がある。
「っ……⁉」
血の気が引き震えた、抑えきれない甘美な泥沼のような絶望。
友のリズベットも。敬愛するルシールも。そして己も。
三人が一緒にどこまで堕ちて行けばいい。
そんな妄想だ。
「はっ! はっ! はあっ……はあっ……!」
口が乾き切り、出もしない唾液を嚥下するように喉が蠢き、湿りを帯びた声が部屋に消えていく。
腕は上手く動かず、足の指は閉じては開くを繰り返し、唾液がつーっと垂れているのにも気が付いていない有様だ。
「あ、あり得ない……あっちゃ駄目……」
レアの語尾は非常に弱い。
友人だからこそ、ルシールが今まで見たことがない眼差しをケイに向けていることを知っている。
リズベットが彼を癒している時、他の者よりも若干時間が長いことを知っている。
ならば二人も同じなのでは? 二人も、自分に遠慮して堕ち切れないのでは?
そんな馬鹿げた妄想がずーっと頭の中で駆け巡ってしまう。
穏やかな地で三人が友人として、身分や政治に囚われないお茶会を行ない、夜はベッドで夫を迎え、寝物語は四人全員で子供の将来を話し合う。
そんな恐ろしい妄想だ。
「それに彼だって望んでないっ!」
レアは必死にケイの都合を考えて否定した。
公爵家の娘。枢機卿の娘。更に光の灯教の娘。
それに偉大な称号が引っ付いているのだから、三人が共に堕ちたところで、ケイが許容できるはずが無かった。
だがもし、もしも、彼にコッソリとした密会を望まれたら?
断れる自信が全くないことを自覚しているレアは震えてしまう。
なにかの夜会で会った時に秘密裏に囁かれたら、彼が待っている屋敷を訪れる想像の方が容易だった。
重ねて述べるがレアもそれが異常だと分かっている。分かっていて、溢れる感情と想像が止まらなかった。
「でも……でも兄さんもそれを望んでいるし……私がいたら公爵家が無茶苦茶になるし、王家と光の灯教のバランスだっておかしくなるし……」
精一杯否定したかと思えば、次の瞬間には言い訳を探し出す。
如何に強力なスキルを持っていようと、当の本人は普通に生きている女に過ぎず、迷い、惑わされ、苦悩している人間に過ぎない。
そのため三人の中で比べると、立場と思考ゆえに最も早く堕落しかねないのが聖勇者レアだった。
無限の罪を背負っているのに、能天気に騒いでいる小僧がおかしいだけである。
「ウィンター家なら……」
ありもしない希望に縋っている……訳ではない。
元々かなり特殊な立ち位置の家だったウィンター家は、規格外の傑物が続いたことで価値が高まっており、末弟のケイとて絶対になにか持っているわと判断されている程だ。
そのため完全になにもない男爵家や子爵家の子弟に比べ、レアが持つ破滅が叶う可能性は本当に僅かながらある。
「だから……だめっ!」
ギリギリでレアは踏みとどまった。
ケイにとっては単なる迷惑にしかならないことが分かっているため、何度迷っても結局はそこに行き着く。
逆を言えばケイがそういう素振りを見せるとブレーキは即座に壊れ、なにもかもを投げ捨てた暴走を開始しかねない危うい状況だ。
「私らしくない! お風呂!」
レアはいつまでも悩み続ける自分に嫌気がさし、入浴をするため歩き始めた。
しかし自分らしさを語るが、案外多くの人間が己を把握していないものだ。
本来あり得た分岐のように、聖勇者レアはいち早く沈み込んでいく。
どこまでも。
どこまでもどこまでも。




