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境界圏Ⅰ  作者: 斗斗斗 斗斗斗


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9/12

第九話 戻れた理由

※AIの名称を変更しました

ケイロン→アストラ

 居住区のゲートが開くと、空気が変わった。音が増え、光が均一になり、人の気配が一気に濃くなる。外縁の風と土の匂いは、数歩で消えた。代わりに、消毒剤の匂いが鼻の奥に残る。湿った土の匂いと混じらない、混じりようのない匂いだ。ここでは危険が匂いで分からない代わりに、危険が数値で管理される。だから匂いは、いつも同じだ。——戻ってきた。そう理解した瞬間、エリオットの身体がようやく震えを許した。


 外にいるあいだ、震える余裕などなかった。震えたら、終わると思っていた。息を詰めたまま歩いて、息を詰めたまま選んで、息を詰めたまま生き残ってきた。だから、ゲートを越えた瞬間に息が漏れ、そこから一気に手足が冷える。足の裏が床に吸い付く感覚がする。平らで、硬くて、均一で――妙に優しい床。


 上方スクリーンに、淡い文字が浮かび上がる。


「エリオット・レイン。帰還を確認」


 機械音に近い通知のあと、ほんのわずかな間が空いた。その“一拍”が、居住区の空気を変える。ざわめき。


「……戻ったのか」


 声は小さい。だが、隠そうとして隠し切れていない。人はここで大声を出さないよう訓練されている。秩序を乱すことが、危険だから。けれど、秩序そのものが揺れる瞬間は、訓練の上に感情がにじむ。通路の壁面には、外縁の状況報告が流れていた。簡潔で、整っていて、安心を損なわない言葉で。


外縁第二圏 調査任務中 事故発生

一部隊員と連絡途絶

捜索継続中


 エリオットは視線を逸らした。あの瞬間に見たものを、ここに持ち込みたくなかった。


 通路は明るすぎる。人の声が多すぎる。床が平らすぎる。どれも、生存に不要なはずなのに、今はそれが怖い。外縁の暗さは危険だった。ここでの明るさは、逃げ場を消す。腕の端末が短く振動する。


「おかえりなさい、エリオット」


 〈アストラ〉の声は、少し砕けていた。事務的だが、冷たくはない。軽い、と言った方が近い。だがその軽さは、無神経ではなく、“揺れない”という性質から来ている。アストラはいつだって、揺れる必要がない。


「帰還を確認しました。現在あなたは、居住区の通信圏内に復帰しています」


「外縁で第三者集団と接触していたことも、記録上は把握しています」


 “記録上は”。その言い方が、エリオットの喉にひっかかった。フリンジと一緒にいた時間は、たしかに端末が拾っていた。拾える範囲で、拾える断片だけを。彼らの温度や呼吸の間隔までは拾えないのに、接触だけは拾える。アストラは続ける。


「……ただし、その経路は生存確率を上げる設計ではありませんでした」


「あなたが現在立っていることは、統計的には例外に分類されます」


 例外。その単語が、胸の奥の何かを少しだけ削る。例外には、理由がいらない。説明がいらない。たまたま起きたこと、として処理される。だが、エリオットには理由がある。理由の中には血と叫び声がある。


「簡易スキャンを完了しました」

「骨格に致命的な損傷は確認されません。内臓損傷の兆候も、現時点では検出されていません」


「あなたが歩いて帰還できた主因は、身体機能の維持にあります」


 妙に引っかかった。まるで、“壊れていないから動けた”という当たり前を、確認して結論にしているみたいだった。違う。壊れていないから生き残れたんじゃない。壊れていないまま生き残るために、何度も何かを置いてきた。置いてきたものの中に、二人の命がある。


 エリオットの脳裏に、あの二人がよぎる。叫び声。肉が裂ける音。助けてくれ、やめてくれ、頼む——という声。“帰還する”。


 それは、二人には許されなかった。許されなかったというより、叶わなかった。叶わない現実が、まだ耳の奥に残っている。アストラは続ける。


「外縁での単独行動は非推奨です」

「次回以降は、隊列の維持を——」


 エリオットは、端末の画面を閉じた。説明はまだ続いていたが、聞く意味を感じなかった。いや、正確には——聞けなかった。ここで“次回”の話をされることが、耐えられなかった。次回という言葉は、あの場で止まった時間を踏み越えてしまう。死んだ二人の“次”を、勝手に作ってしまう。


 通路の奥が、ざわついた。人の流れが、一瞬だけ乱れる。誰かが足を止め、誰かが振り返る。その中心を割るように、ハーランが来た。走ってきたわけじゃない。居住区では走ること自体が目立つ。目立つ行動は、周囲の不安を増やす。だからハーランは走らない。だが、明らかに急いでいた。人の肩に触れ、言葉を挟む隙もなく、ただ一直線に。流れを裂くように近づいてくる。その姿を見た瞬間、エリオットは分かった。待っていたのだ。ずっと。ゲートの方を。数字よりも先に、ここで。


「エリオット——!」


 近づくなり、ハーランはエリオットの肩を掴む。力が強すぎて、一瞬よろめく。掴むというより、確かめる。ここにいるか。触れられるか。幻じゃないか。ハーランの目は、怒っていない。叱る目じゃない。怖がっている目だ。遅れてやってきた恐怖が、そのまま目に出ている。


「無事だったのか」


 問いではない。確認でもない。言葉で形を作らないと、崩れそうな感情を押さえるための声だった。


「……はい」


 それを聞いた瞬間、ハーランの手がわずかに緩んだ。掴んでいた肩から、力が抜ける。


 そして次の瞬間、ハーランは肩越しに深く息を吐いた。それは安堵というより、張りつめていたものを吐き出す音だった。長く、重い吐息。ああ、この人は本気で心配していたのだと、息だけで分かる。言葉よりも先に。


「……そうか」


 それだけ言って、顔を伏せる。次に出てきた声は、さらに小さかった。


「……すまなかった」


 エリオットにだけ届く声。謝罪が、ここまで遅れてくるのは、珍しい。ハーランは普段、謝らない人間じゃない。だが、謝ると現実になる。だから、まず“生きていること”を確かめた。その順番が、ハーランの本気だった。


「俺が指揮を取っていた」


 言い訳はしない。状況の説明もしない。ただ、自分の立場を言う。責任を置く場所を、先に決めてしまう。


「危険な場所だと分かっていながら、通した」


 その語尾が、ほんの少しだけ震えた。ハーランは怖がっている。外縁をじゃない。“判断した結果”を怖がっている。エリオットは何も言えなかった。言える言葉がなかった。二人とも、知っている。あの場で何が起きたか。誰が戻らなかったか。確認はいらない。数字も、報告も。


「……二人を、失った」


 ハーランが言った。事実を口にするだけで、声がかすれる。


「一人は、その場で」

「もう一人は……噛まれた」


 エリオットは、うなずくだけだった。ハーランは目を閉じた。ほんの一瞬。だが、その一瞬が長い。目を閉じないと、崩れるのだ。崩れたら、ここでは困る。大人が崩れると、周りが崩れる。だから閉じる。閉じて、また開く。それが、この世界の大人のやり方だった。


「俺たちは……」


 言葉を探し、見つからず、それでも続ける。


「考えることを、怖がるようになった」


 エリオットは顔を上げた。


「昔は、考えすぎて失敗した」

「だから今度は、考えないようにした」


 自嘲するような笑みが、一瞬浮かぶ。その笑みは、笑いじゃない。痛みの処理だ。


「だがな……」


 ハーランは、エリオットをまっすぐ見た。まっすぐ見ること自体が、決意みたいに重い。


「考えないってのは、楽だ」

「正解に従っていれば、責任を持たなくて済む」


 言葉が、重い。それは他人への批判じゃない。自分の告白だ。自分がそうしてきたという告白。


「でも、その結果がこれだ」


 言外に、死んだ仲間たちがいる。“正解”に従って、犠牲が出る。そのことを、ハーランは理解してしまった。理解してしまったのに、もう戻れない。戻れば、また判断しなければならないから。アストラが、控えめに口を挟む。


「統計的には、リスク回避を最優先した判断が——」


「分かってる」


 ハーランは遮る。今度は荒くない。疲れた声だった。


「分かってるから、余計にきつい」


 その言葉は、居住区で一番言ってはいけない類の言葉だった。“分かっているのに”という言い方は、正しさの盾を外す。盾を外すと、痛みが直接来る。エリオットは、静かに言った。


「……外で、生きてる人たちがいました」


 ハーランの視線が揺れる。


「フリンジか」


「はい」


「……戻れなかった連中だ」


 責めない。同情もしない。ただ、事実として言う。戻れなかった。戻らなかった。戻ることを選ばなかった。そのどれもが、外では同じ重さを持つ。


「おまえは、戻れた」


 その言葉は、境界線だった。壁の内側と外側を、一本の線で切る言葉だった。


「生きて戻った」

「それだけで、十分だ」


 だがその“十分だ”は、エリオットに向けた言葉であり、同時に、ハーラン自身に向けた言葉でもあった。十分だ、と言わなければ、足りないものが見えてしまう。足りないもの――戻らなかった二人。戻れなかった一人。その穴を見つめ続けたら、ハーランは立っていられない。


 エリオットは思う。——大人たちは、考える力を失ったわけじゃない。——考えることが、怖くなっただけだ。考えるとは、選ぶことだ。選ぶとは、誰かを死なせる可能性を引き受けることだ。だから、考えなくなる。考えないようにする。その結果、“正しい手順”だけが残る。居住区は、安全だ。正しい。それでも——。


 エリオットはもう、何も考えず、誰かの正解に従って生きる場所に完全には戻れなくなっていた。戻れたのは、運だけじゃない。フリンジがいたからだ。彼らが“助けた”からだ。


 そして、ハーランが――自分が指揮したことの重さを、本気で背負っているからだ。けれど、その背負い方は、救いでもない。背負えば背負うほど、ハーランは“考えなくなる”ほうへ寄っていく。背負い続けるために、感情を切り離す。切り離すために、正解にすがる。


 エリオットは、自分の肩に残るハーランの指の熱を思い出した。あの熱は、本物だった。本物だからこそ――この場所の正しさだけでは、救えないものがある。


 端末の画面が、閉じたまま黒く光っている。アストラは黙っている。黙ることができる。人間のほうは、黙ると壊れる。


 エリオットは、ひとつだけ理解した。――自分が“戻れた理由”は、帰還ルートの正しさではない。“誰かが責任を感じた”という感情が、まだこの世界に残っていたからだ。その感情の重さを知ってしまった以上、もう、前と同じようには戻れない。

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