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境界圏Ⅰ  作者: 斗斗斗 斗斗斗


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8/12

第八話 外のやり方

※AIの名称を変更しました

ケイロン→アストラ

 空はすでに明るく、影は短くなっていた。夜明け前の冷たさは残っているが、朝の気配ははっきりとそこにある。ただ、今日という一日は、まだ始まりきってはいなかった。光はあるのに、温度が追いついていない。空気の底に、夜の名残が沈んでいる。息を吐くと白くはならないのに、肺の奥だけがひやりとした。


 その曖昧な時間帯に、フリンジは動いていた。合図はなかった。誰かが声を出すこともない。気づけば焚き火は消え、灰は踏み散らされ、そこに人が集まっていた痕跡はほとんど残っていない。夜の存在そのものを、地面から消していくような手際だった。灰は円ではなく、ただの汚れに変わっていく。薪の欠片は拾われ、濡れた布は畳まれ、燃え残りの匂いさえ薄まる。


 ―ここでは、夜を残すことが危険なのだと、説明されなくても分かった。残れば追われる。追われれば死ぬ。だから消す。痕跡を。習慣を。祈りを。


 エリオットは少し離れた位置から、その様子を見ていた。目を閉じれば、居住区の朝が浮かぶ。均一な照明、規則正しい起床音、スケジュールに沿った“始まり”。しかし、今ここで始まっているのは、生活じゃない。移動だ。生き残りの準備だ。目的は「今日を成立させる」ではなく、「今日を越える」。


「ついてくるな」そう言われると思っていた。


 だが、誰も何も言わない。許可も、拒否もない。ただ、歩き出す背中があるだけだった。置いていくでもなく、引き留めるでもない。背中が動けば、空気が動く。列ができる。誰も振り返らない。振り返れば、遅れる。遅れれば、音が増える。音が増えれば―。


 判断は、こちらに委ねられている。エリオットは、わずかに距離を保ったまま後ろについた。足元の感触が、居住区と違う。硬いコンクリートの上に、砂利と土が薄く積もっている。靴底が小石を噛む。音が出る。出してしまう。それでも、誰もエリオットを咎めない。咎める余裕がないのかもしれないし、咎めても意味がないのかもしれない。ここでは、教育は講義じゃない。失敗の結果がそのまま教材だ。


 歩き方は一定ではない。だが、乱れてもいない。音を立てない。だが、忍び足でもない。


 必要以上に気配を消そうとしない。無理をしていない。生き延びる速度を、身体が覚えている動きだった。


 居住区では、移動にも正解があった。最短距離。安全係数。監視の届く範囲。床の素材まで計算された通路。「歩く」という行為そのものが、管理されていた。歩く速度が乱れれば、端末が“休息”を提案し、立ち止まりが長ければ“異常”の可能性が記録される。何もかもが効率化されていた。


 だが、フリンジの進み方には、それがない。いや、正解はあるのかもしれない。ただそれは、数字で提示される正解じゃない。身体に刻まれた正解。間違えた者が死ぬことで更新される正解。地形に合わせて、止まり、曲がり、待つ。少し戻ることもある。理由は説明されない。だが、誰も疑問を挟まない。理解しているからではない。疑わないことを、選んでいる。疑問は音になる。声になる。目線の揺れになる。迷いになる。迷いは遅れになる。遅れは――死に繋がる。


 エリオットは気づく。彼らは“冷たい”わけじゃない。ただ、“余計なことをしない”ことで互いを守っている。ここでの優しさは、言葉の形をしていない。しばらく進んだところで、先頭の一人が手を上げた。全員が、同時に止まる。


 エリオットも、反射的に足を止めた。教えられたわけではない。空気が変わった。朝の風が、わずかに向きを変える。草の揺れ方が、不自然になる。匂いが変わった、とも言える。湿った鉄の匂いの中に、どこか甘い腐敗の匂いが混じる。居住区では消毒液の匂いが“安全”の匂いだった。ここでは腐敗が“危険”の匂いだ。


「……来てるな」


 低い声だった。警告というより、確認に近い。誰かが息を吸う音さえ、やけに大きく感じる。エリオットは、息を詰めた。瓦礫の向こうから、影が現れる。感染者だった。一体、二体——いや、もっといる。数は正確に把握できない。だが、群れだということだけは、はっきりしている。動きは鈍い。だが、眠ってはいない。視線は定まらず、身体は歪んでいるのに、耳だけが生きているような雰囲気がある。時折、首がぴくりと動き、風の向きに合わせて鼻先が揺れる。


 フリンジは、距離を詰めない。武器を構えながら、静かに後退する。狙いを定めることもしない。声を出すこともない。追い払おうともしない。倒そうともしない。刺激しない。関わらない。それが、彼らの選択だった。まるで共生しているようだった。


 居住区で訓練された戦闘教範なら、こういうときは“排除”が最適解になる。接近前に射撃し、音を最小限にして数を減らす。だが、ここでは違う。倒すことは、音を出すことだ。音を出すことは、別の群れを呼ぶことだ。戦いは終わらない。終わらせられない。だから、始めない。 


 感染者の一体が立ち止まり、空気を嗅ぐ。エリオットの心臓が跳ねる。自分の匂いが、風に乗っていく気がした。汗が冷えて背中を這う。ナイフの柄を握る手が、微かに震える。


 だが——。


 感染者は、こちらを選ばなかった。視線を外し、群れの方へ戻っていく。まるで、最初から興味がなかったかのように。その“興味がない”が、なぜか冷たく感じる。自分が助かったのに、助かった感覚がない。選ばれなかっただけ。生き残る理由が、自分の中にない。


「……避けた?」


 思わず漏れた声に、隣の男が小さく答える。


「避けたんじゃない」

「選ばれなかっただけだ」


 それは、安心でも希望でもなかった。努力の結果でもない。ただの事実だった。エリオットは、喉の奥が乾く。居住区では、努力と結果が紐づいていた。正しい行動をすれば、正しい結果が返る。だが、外では違う。正しくても死ぬ。間違っても生きる。それが、ルーカスが言っていた「自分で引き受ける」という意味なのかもしれない。


 再び歩き出す。誰も振り返らない。誰も確認しない。「大丈夫だ」と言わない。大丈夫じゃないのが普通だからだ。ルーカスは、前を向いたまま言った。


「外では、勝とうとするな」

「勝ちにいったやつから、先に死ぬ」


 声は低い。説教じゃない。経験の断片だ。勝つ、という概念が、ここでは重い。勝つには、相手を倒す必要がある。倒すには、音が出る。音が出れば、数が増える。数が増えれば、勝ちの意味がなくなる。勝ちは、外では連鎖を呼ぶ。


 エリオットは、その言葉を噛みしめた。居住区では、常に“最適解”を求められていた。勝つか、守るか、排除するか。何かを選ぶたびに、正しさが用意されていた。だが、ここでは——何もしない、という選択がある。


 それは逃げではない。関わらないことも、ひとつの判断だ。“しない”を選ぶには、勇気がいる。居住区では“しない”は怠慢と見なされる。ここでは“しない”が生存戦略になる。


 しばらくして、小さな拠点に着いた。瓦礫の影に作られた、仮の場所。風を避ける程度の囲いしかない。壁は半分しかない。屋根もない。あるのは、影だけだ。影があるということは、上に何かが残っているということだ。崩れ落ちた骨組み。折れた梁。その隙間が、ちょうど人間一人分の休憩を許している。長居しないことが前提の造りだった。守るためではなく、通過するための場所。居住区の部屋は、住むために作られている。ここは、死なないために作られている。


 誰かが布を取り出し、水筒の口を軽く拭いた。飲み口を清潔にするためではない。匂いを残さないためかもしれない。誰も説明しない。説明しないから、ルールが“自然”に見える。自然に見えるように作られたルール。居住区と同じだ。だが、ここは違う。作ったのはAIではなく、死にかけた人間の経験だ。


 ルーカスが止まり、視線だけで周囲をなぞる。その目線が一周するだけで、ここが安全かどうかが決まる。安全、というより「今はまだ死なない」程度の意味だ。


「ここから先は、居住区の監視が濃くなる」

「送るのは、ここまでだ」


 分岐点だった。監視、という言葉にエリオットの背筋がわずかに固くなる。居住区の監視は、目ではなく仕組みだ。センサー、通信、記録。異常を拾い上げ、矯正し、排除する。


 外縁にまで伸びるそれは、壁の外にも“正しさ”を押し広げるための腕なのかもしれない。


 ルーカスが、初めて正面からエリオットを見る。


「残るか?」


 問いは短い。だが、重かった。ここにいれば、正解を出さなくていい。間違えても、誰かが代わりに決めてはくれない。そして、間違えたとき、痛みがすべて自分に返ってくる。


 居住区での間違いは、システムが吸収してくれる。ここでは吸収されない。


 だが——。


「……まだ、帰ります」


 エリオットはそう言った。言った瞬間、自分の声が乾いているのが分かった。帰る、と言うときの声が、以前と違う。以前は“正しい”帰還だった。今は“逃げではない”帰還にしたい。その違いが、胸に刺さる。ルーカスは、少しだけ目を細めた。


「そうか」


 否定しない。残念そうでもない。だが、ほんの少しだけ、何かを見極めるような間があった。


「考える顔だ」


 短いナイフを差し出す。刃はよく手入れされている。飾り気はない。握れば分かる。これは道具だ。武器じゃない。武器という言葉が持つ“勝つため”の匂いがない。切るため。生きるため。最後のため。


「持っていけ」

「使わないで済むなら、それでいい」


 エリオットは、無言で受け取った。重みが、手のひらに残る。その重みが、居住区で受け取ったどんな証明書よりも現実的だった。“責任”という言葉の重みが、こういう形をしているのかもしれない。 


「ここに戻るかどうかは、自由だ」

「来なくても、問題ない」


 それが、フリンジのやり方だった。縛らない。期待しない。判断を奪わない。来い、とも言わない。来るな、とも言わない。選ぶ痛みを、相手に返す。その返し方が、不思議と誠実だった。ルーカスは、最後に言った。


「外は、逃げ場がない」

「だから、自分で立つしかない」


 フリンジは、振り返らずに去っていく。背中が遠ざかるたび、風の音が増えていく。人がいなくなる音だ。居住区では、誰かがいなくなっても、音は均一のままだ。ここでは、いなくなった分だけ世界が広くなる。広くなる世界は、同時に、怖くなる世界でもあった。


 エリオットは一人になり、居住区の方角を見た。戻れる場所。戻らなければならない場所。壁の向こうにある、整った光と、均一な静けさ。しかし、ここに、別の生き方があることを、もう知ってしまった。それは選択肢を増やすというより、戻る場所を狭める知識だった。知らなかった頃の自分は、もういない。


 エリオットは、歩き出した。朝の光の中で、ナイフの重みが、はっきりと現実だった。それは「守られている」という感覚ではなく、「守られない場所に行く」という感覚だった。


 そして、その感覚だけが―なぜか、少しだけ息を深くしてくれた。

 

 

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