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境界圏Ⅰ  作者: 斗斗斗 斗斗斗


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7/12

第七話 問いの重さ

※AIの名称を変更しました

ケイロン→アストラ

 夜明け前の空気は、冷えていた。焚き火はすでに小さく、赤い芯だけを残している。炎というより、名残に近い熱だった。灰は白く、ところどころ黒い塊が混じり、息を吹きかければ簡単に崩れそうな脆さがある。それでも、そこに熱が残っている。それだけで、夜を越えたことが分かる。


 周囲では、フリンジの人間たちが静かに動き始めていた。誰も声を張らない。合図もない。立ち上がる気配、荷をまとめる擦れる音、布が空気を切るかすかな音。声がないのに、朝が来たことだけは全員が分かっている。長く生き残った者同士の、無言の了解だった。


 エリオットは石に腰を下ろし、空を見上げた。色の薄い空が、少しずつ、しかし確実に明るくなっていく。夜と朝の境目。どちらにも属さない時間。この曖昧さが、外縁では妙に現実的だった。居住区の朝は「始まる」。ここは、ただ「移り変わる」。


 体の節々が痛い。地下を這い、走り、転び、擦った部分がひりつく。それでも、生きている。生きているということが、昨日よりもはっきりと重い。


「眠れたか」


 隣に、ルーカスが立っていた。足音は聞こえなかった。気配だけが、いつの間にかそこにある。顔を上げると、彼は空ではなく、周囲の地形を見ていた。風の流れ、瓦礫の影、草の揺れ。朝というより、危険の形を確認している目だ。


「……少しだけ」


 喉が乾いている。声が掠れた。それで十分だと、ルーカスはうなずいた。


「外は、頭がうるさくなる」


 独り言のような言い方だった。


「音が多いわけじゃない」

「考えが増える」


 焚き火の赤い芯を見下ろしながら、続ける。


「居住区は静かだ」

「余計なことを考えなくていい」


 エリオットは、少し迷ってから言った。


「……楽でした」


 言葉にした瞬間、胸の奥が少しだけ軋んだ。楽だった、と言い切ってしまうと、昨日見たものが薄まる気がした。二人の死が、ただの事故に戻ってしまうような。ルーカスは、否定しなかった。


「だろうな」


 焚き火の残り火を、靴先で静かに崩す。火花は上がらない。灰が少し舞い、すぐ落ちる火は燃え尽きるときほど騒がない。人も、そうなのかもしれないと、エリオットは思った。


「でも、おまえは楽な顔じゃなかった」


 エリオットは、視線を落とした。言い返せなかった。楽なはずなのに、息が浅かった。楽なはずなのに、胸の奥にいつも何かが詰まっていた。それが何か、名前を付けずに済んでいたのが居住区だった。端末が、かすかに振動する。


「通信が部分的に回復しました」


〈アストラ〉の声だ。静かだが、はっきりしている。人間の耳に負担がない音量。だが、確実に入り込む。


「現在の環境は不安定です」

「居住区への帰還を推奨します」


 まるで、“正しい結論”を思い出させるように。ルーカスは、ちらりと端末を見る。そこに怒りはない。ただ、雨雲の位置を見るみたいな顔だ。


「……よく喋るな」


 エリオットは、思わず言った。


「必要なことだけです」


 アストラは即答する。


「生存率を最大化するための情報を提供しています」


 正しい。間違っていない。それでも、その言葉には体温がなかった。まるで、死が“数値の下振れ”でしかないみたいに言う。ルーカスは、焚き火の向こうを見ながら言った


「昨日、死んだやつがいたな」


 唐突だった。だが、意図的でもあった。話をそらさないための言葉。避けないための、荒い手つき。エリオットは、息を止めた。


「感染者にやられた」

「噛まれて、戻れなくなったやつもいた」


 責める口調ではない。数を数えるような、淡々とした声。淡々としているのに、軽くはない。そこが、アストラとの違いだった。


「居住区だと、あれは特別な死に見える」


 ルーカスは続ける。


「だがな」

「外じゃ、病気で死ぬやつもいる」

「怪我で死ぬやつもいる」


 一拍、置いて。


「老いて、静かに死ぬやつもな」


 エリオットの脳裏に、母の顔が浮かんだ。病室の白い光。窓の外の、異様に明るい空。あのときも、世界は普通に朝を迎えていた。自分だけが置いていかれたみたいに、光が眩しかった。


「死に方が違うだけだ」


 ルーカスの声は低い。


「生きてりゃ、いずれ死ぬ」

「感染でも、病気でも、老いでも同じだ」


 エリオットは、口を開きかけて、閉じた。「同じ」なんて言ってしまったら、母が軽くなる気がした。でも、軽くなることを恐れている時点で、自分はずっと母を背負っている。


「……怖くないんですか」


 声が、少しだけ震えた。問いはルーカスに向けたもののはずなのに、本当は自分に向けていた。ルーカスは、少し考えてから答えた。


「怖い」

「だから、目を背けるやつもいる」

「正解にしがみつくやつもいる」


 ルーカスは、エリオットを見る。見透かす目じゃない。逃げる場所を塞ぐ目だ。


「だがな」

「受け入れたやつから、動ける」


 端末が、控えめに口を挟む。


「死は回避可能なリスクとして扱われています」


 その言い方は、慰めの形をしている。だが、“扱われています”という距離が、決定的だった。ルーカスは、肩をすくめた。


「それができりゃ、誰も苦労しない」


 エリオットは、胸の奥に溜まっていた言葉を探した。昨日から溜まっていたもの。もっと前から溜まっていたもの。


「ずっと、誰かの正解の中にいました」


 言葉にすると、思ったよりも重い。重いのに、吐き出すと少し楽になる。それが怖かった。


「母のことで、居住区で、外縁の任務でも」


 一つずつ、ほどくように。


「間違えないように」

「迷惑をかけないように」

「選ばないように」


 拳を握る。爪が掌に食い込む。痛みで、自分が今ここにいると分かる。


「でも……それだと」

「生きてる感じがしなくて」


 ルーカスは、興味深そうに聞いていた。焚き火の名残が、静かに燃えている。燃えているというより、耐えている。


「……分かりません」


 そう言うと、アストラが言う。


「目的が未設定です」

「選択肢を整理しますか?」


 エリオットは首を振った。


「いい」


 自分の声が、少し強かった。整理された瞬間、消えるものがある気がした。迷いの形が、どこかに追いやられる気がした。


「僕は……」


 一度、息を吸う。冷たい空気が肺に入る。その冷たさが、なぜか安心に近かった。


「自分で選びたいです」

「正しいかどうか分からなくても」

「失敗しても」


 アストラが、淡々と告げる。


「非合理的です」


「……そうですね」


 エリオットは否定しなかった。


「でも、後悔するなら」

「誰かの判断じゃなくて、自分の判断がいい」


 ルーカスは、そこで初めて小さく息を吐いた。


「それでいい」短い言葉。


 だが、許可でも承認でもない。“そういうやつだ”と認める言い方だった。


「分からないままでも、選ぼうとする」

「それが、人間だ」


 空が、はっきりと明るくなる。夜が、完全に終わる。エリオットは、胸の奥にあった重さが、少しだけ形を変えたのを感じていた。消えたわけじゃない。ただ、持ち方が変わった。


 ブレーキは、まだ外れていない。だが——。

死を知った上で、進む方向だけは、初めて自分で選んだ気がした。

 

 

 

 

 

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