第七話 問いの重さ
※AIの名称を変更しました
ケイロン→アストラ
夜明け前の空気は、冷えていた。焚き火はすでに小さく、赤い芯だけを残している。炎というより、名残に近い熱だった。灰は白く、ところどころ黒い塊が混じり、息を吹きかければ簡単に崩れそうな脆さがある。それでも、そこに熱が残っている。それだけで、夜を越えたことが分かる。
周囲では、フリンジの人間たちが静かに動き始めていた。誰も声を張らない。合図もない。立ち上がる気配、荷をまとめる擦れる音、布が空気を切るかすかな音。声がないのに、朝が来たことだけは全員が分かっている。長く生き残った者同士の、無言の了解だった。
エリオットは石に腰を下ろし、空を見上げた。色の薄い空が、少しずつ、しかし確実に明るくなっていく。夜と朝の境目。どちらにも属さない時間。この曖昧さが、外縁では妙に現実的だった。居住区の朝は「始まる」。ここは、ただ「移り変わる」。
体の節々が痛い。地下を這い、走り、転び、擦った部分がひりつく。それでも、生きている。生きているということが、昨日よりもはっきりと重い。
「眠れたか」
隣に、ルーカスが立っていた。足音は聞こえなかった。気配だけが、いつの間にかそこにある。顔を上げると、彼は空ではなく、周囲の地形を見ていた。風の流れ、瓦礫の影、草の揺れ。朝というより、危険の形を確認している目だ。
「……少しだけ」
喉が乾いている。声が掠れた。それで十分だと、ルーカスはうなずいた。
「外は、頭がうるさくなる」
独り言のような言い方だった。
「音が多いわけじゃない」
「考えが増える」
焚き火の赤い芯を見下ろしながら、続ける。
「居住区は静かだ」
「余計なことを考えなくていい」
エリオットは、少し迷ってから言った。
「……楽でした」
言葉にした瞬間、胸の奥が少しだけ軋んだ。楽だった、と言い切ってしまうと、昨日見たものが薄まる気がした。二人の死が、ただの事故に戻ってしまうような。ルーカスは、否定しなかった。
「だろうな」
焚き火の残り火を、靴先で静かに崩す。火花は上がらない。灰が少し舞い、すぐ落ちる火は燃え尽きるときほど騒がない。人も、そうなのかもしれないと、エリオットは思った。
「でも、おまえは楽な顔じゃなかった」
エリオットは、視線を落とした。言い返せなかった。楽なはずなのに、息が浅かった。楽なはずなのに、胸の奥にいつも何かが詰まっていた。それが何か、名前を付けずに済んでいたのが居住区だった。端末が、かすかに振動する。
「通信が部分的に回復しました」
〈アストラ〉の声だ。静かだが、はっきりしている。人間の耳に負担がない音量。だが、確実に入り込む。
「現在の環境は不安定です」
「居住区への帰還を推奨します」
まるで、“正しい結論”を思い出させるように。ルーカスは、ちらりと端末を見る。そこに怒りはない。ただ、雨雲の位置を見るみたいな顔だ。
「……よく喋るな」
エリオットは、思わず言った。
「必要なことだけです」
アストラは即答する。
「生存率を最大化するための情報を提供しています」
正しい。間違っていない。それでも、その言葉には体温がなかった。まるで、死が“数値の下振れ”でしかないみたいに言う。ルーカスは、焚き火の向こうを見ながら言った
「昨日、死んだやつがいたな」
唐突だった。だが、意図的でもあった。話をそらさないための言葉。避けないための、荒い手つき。エリオットは、息を止めた。
「感染者にやられた」
「噛まれて、戻れなくなったやつもいた」
責める口調ではない。数を数えるような、淡々とした声。淡々としているのに、軽くはない。そこが、アストラとの違いだった。
「居住区だと、あれは特別な死に見える」
ルーカスは続ける。
「だがな」
「外じゃ、病気で死ぬやつもいる」
「怪我で死ぬやつもいる」
一拍、置いて。
「老いて、静かに死ぬやつもな」
エリオットの脳裏に、母の顔が浮かんだ。病室の白い光。窓の外の、異様に明るい空。あのときも、世界は普通に朝を迎えていた。自分だけが置いていかれたみたいに、光が眩しかった。
「死に方が違うだけだ」
ルーカスの声は低い。
「生きてりゃ、いずれ死ぬ」
「感染でも、病気でも、老いでも同じだ」
エリオットは、口を開きかけて、閉じた。「同じ」なんて言ってしまったら、母が軽くなる気がした。でも、軽くなることを恐れている時点で、自分はずっと母を背負っている。
「……怖くないんですか」
声が、少しだけ震えた。問いはルーカスに向けたもののはずなのに、本当は自分に向けていた。ルーカスは、少し考えてから答えた。
「怖い」
「だから、目を背けるやつもいる」
「正解にしがみつくやつもいる」
ルーカスは、エリオットを見る。見透かす目じゃない。逃げる場所を塞ぐ目だ。
「だがな」
「受け入れたやつから、動ける」
端末が、控えめに口を挟む。
「死は回避可能なリスクとして扱われています」
その言い方は、慰めの形をしている。だが、“扱われています”という距離が、決定的だった。ルーカスは、肩をすくめた。
「それができりゃ、誰も苦労しない」
エリオットは、胸の奥に溜まっていた言葉を探した。昨日から溜まっていたもの。もっと前から溜まっていたもの。
「ずっと、誰かの正解の中にいました」
言葉にすると、思ったよりも重い。重いのに、吐き出すと少し楽になる。それが怖かった。
「母のことで、居住区で、外縁の任務でも」
一つずつ、ほどくように。
「間違えないように」
「迷惑をかけないように」
「選ばないように」
拳を握る。爪が掌に食い込む。痛みで、自分が今ここにいると分かる。
「でも……それだと」
「生きてる感じがしなくて」
ルーカスは、興味深そうに聞いていた。焚き火の名残が、静かに燃えている。燃えているというより、耐えている。
「……分かりません」
そう言うと、アストラが言う。
「目的が未設定です」
「選択肢を整理しますか?」
エリオットは首を振った。
「いい」
自分の声が、少し強かった。整理された瞬間、消えるものがある気がした。迷いの形が、どこかに追いやられる気がした。
「僕は……」
一度、息を吸う。冷たい空気が肺に入る。その冷たさが、なぜか安心に近かった。
「自分で選びたいです」
「正しいかどうか分からなくても」
「失敗しても」
アストラが、淡々と告げる。
「非合理的です」
「……そうですね」
エリオットは否定しなかった。
「でも、後悔するなら」
「誰かの判断じゃなくて、自分の判断がいい」
ルーカスは、そこで初めて小さく息を吐いた。
「それでいい」短い言葉。
だが、許可でも承認でもない。“そういうやつだ”と認める言い方だった。
「分からないままでも、選ぼうとする」
「それが、人間だ」
空が、はっきりと明るくなる。夜が、完全に終わる。エリオットは、胸の奥にあった重さが、少しだけ形を変えたのを感じていた。消えたわけじゃない。ただ、持ち方が変わった。
ブレーキは、まだ外れていない。だが——。
死を知った上で、進む方向だけは、初めて自分で選んだ気がした。




