第六話 ブレーキ
※AIの名称を変更しました
ケイロン→アストラ
焚き火は、ほとんど音を立てなかった。薪が爆ぜることもなく、炎は低く揺れているだけだ。赤い光が地面を舐めるように照らし、影がゆっくりと伸びたり縮んだりする。誰かが動くたび、影も一緒に形を変えるが、その変化さえ控えめだった。
フリンジの夜は、静かだった。居住区のように管理された静けさではない。音を消しているわけでも、禁止しているわけでもない。ただ、最初から音が少ないだけの夜だ。
遠くで風が草を撫でる音がする。どこかで、金属が軋むような音が一度だけ響いた。それ以外には、何もない。人の話し声も、笑い声もない。眠っているのか、起きているのかも分からない。それでも、この場に人がいることだけは、確かだった。
エリオットは毛布に包まり、焚き火の揺れを見つめていた。地下を這い出たときに身につけていた装備は、ほとんど残っていない。気づけば、身体から外されていた。予備電池はない。簡易の医療キットも、いつの間にか消えている。通信端末も、腕にはない。腰に残っているのは、水筒ひとつだけだった。軽く振ると、わずかに水の音がする。だが、どれくらい残っているのか、確かめる気にはなれなかった。残量を知るのが、怖かった。
「……返してもらえないんだな」
自分でも驚くほど、静かな声だった。誰かに聞かせるつもりもなく、独り言に近い。すぐ近くで、誰かが短く答えた。
「必要なんだ」
振り返ると、フリンジの一人が焚き火の向こうに立っていた。責める様子も、言い訳をする様子もない。
「助けた礼だ。もらっていく」
それだけ言って、男は火の向こうへ戻っていった。説明もない。謝罪もない。だが、そこに悪意は感じられなかった。外では、物は生き延びるための部品だ。誰のものかより、今ここで使えるかどうかが優先される。理屈としては、理解できる。それでも、エリオットは何も言えなかった。怒る気力もなかったし、正しいとも間違っているとも言えなかった。ただ、焚き火を見つめ続ける。炎の揺れを追っていると、考えなくていいはずの記憶が、勝手に浮かび上がってくる。
——母の声。
「ねえ、エリオット」柔らかい声だった。
怒ってもいない。泣いてもいない。だからこそ、逃げ場がなかった。
「私が死んだら、どうする?」
食事の最中だった。白いトレイの上に並んだ、味の薄い食事。居住区の、いつもの夕食。栄養は十分で、量も適切だった。母は、特別な顔をしていなかった。雑談の延長みたいに、軽く口にした。エリオットは、手を止めた。
「……どうって?」
「ひとりで、生きられる?」母は笑っていた。
不安を隠すための笑顔だと、エリオットには分かってしまった。分かってしまったことが、間違いだったのかもしれない。
「あの人、私のこと見てないし」
父のことを、そう呼んだ。
「私、死んだら、あなたが心配で」
その言葉が、胸の奥に沈んだ。エリオットは何も言えなかった。本当は、怖かった。本当は、やめてほしかった。不安を押し付けられているような気がした。そんな話を、子どもにしないでほしい。でも、それを口にする勇気はなかった。
「大丈夫だよ」
そう言うべきだと、分かっていた。母を安心させるのは、自分の役目だと思った。
「……大丈夫」
そう答えると、母は少しだけ安堵したように息を吐いた。
「よかった」
その一言が、胸に重く沈んだ。よかった、じゃない。エリオットは、子どもだった。
それでも、その日からずっと——自分が壊れたら、この人も壊れる。そう思うようになった。
病状が進むにつれて、母は弱っていった。身体より先に、心が折れていく。
「今日は、調子が悪いの」
「ごめんね」
「迷惑、かけてるよね」
謝られるたび、心がすり減った。迷惑じゃない。大丈夫。自分が我慢すればいい。そうやって、心にブレーキをかける癖がついた。選ばない。望まない。失敗しない。——そうすれば、誰も傷つかない。
母が亡くなった日のことは、よく覚えていない。ただ、病室の窓がやけに明るかったことだけが残っている。空は、異様なほど澄んでいた。医者は足りていなかった。薬も、時間も。
「……エリオット」
誰かが、名前を呼んだ。現実に引き戻される。焚き火の向こうで、ルーカスが立っていた。いつからそこにいたのか、分からない。
「眠れないか」
「……はい」
それだけ答えた。ルーカスは、それ以上聞かなかった。焚き火に薪を一本足し、静かに腰を下ろす。炎が、わずかに大きくなる。
「外はな、医者もいない」独り言のように言う。
「薬も足りない」
「だから、怪我をしないように生きるしかない」
それは嘆きでも、愚痴でもなかった。事実の確認だった。エリオットは、炎を見つめたまま言った。
「……それでも、ここにいるんですね」
「選んでるだけだ」即答だった。
「危ない方を、って意味じゃない」
「自分で引き受ける方をだ」
少し間を置いて、続ける。
「考えすぎると、動けなくなる」
「考えなさすぎると、死ぬ」
エリオットは、ゆっくりとうなずいた。
「……僕は、考えすぎる方です」
ルーカスは、少しだけ口元を緩めた。
「知ってる」否定しない。
胸の奥が、わずかに緩むのを感じた。母の声が、遠ざかる。焚き火の音が、今に戻してくれる。心にかかったブレーキは、まだ外れていない。けれど——外縁の夜は、居住区よりも、ずっと正直だった。




