表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
境界圏Ⅰ  作者: 斗斗斗 斗斗斗


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

6/12

第六話 ブレーキ

※AIの名称を変更しました

ケイロン→アストラ

 焚き火は、ほとんど音を立てなかった。薪が爆ぜることもなく、炎は低く揺れているだけだ。赤い光が地面を舐めるように照らし、影がゆっくりと伸びたり縮んだりする。誰かが動くたび、影も一緒に形を変えるが、その変化さえ控えめだった。


 フリンジの夜は、静かだった。居住区のように管理された静けさではない。音を消しているわけでも、禁止しているわけでもない。ただ、最初から音が少ないだけの夜だ。


 遠くで風が草を撫でる音がする。どこかで、金属が軋むような音が一度だけ響いた。それ以外には、何もない。人の話し声も、笑い声もない。眠っているのか、起きているのかも分からない。それでも、この場に人がいることだけは、確かだった。


 エリオットは毛布に包まり、焚き火の揺れを見つめていた。地下を這い出たときに身につけていた装備は、ほとんど残っていない。気づけば、身体から外されていた。予備電池はない。簡易の医療キットも、いつの間にか消えている。通信端末も、腕にはない。腰に残っているのは、水筒ひとつだけだった。軽く振ると、わずかに水の音がする。だが、どれくらい残っているのか、確かめる気にはなれなかった。残量を知るのが、怖かった。


「……返してもらえないんだな」


 自分でも驚くほど、静かな声だった。誰かに聞かせるつもりもなく、独り言に近い。すぐ近くで、誰かが短く答えた。


「必要なんだ」


 振り返ると、フリンジの一人が焚き火の向こうに立っていた。責める様子も、言い訳をする様子もない。


「助けた礼だ。もらっていく」


 それだけ言って、男は火の向こうへ戻っていった。説明もない。謝罪もない。だが、そこに悪意は感じられなかった。外では、物は生き延びるための部品だ。誰のものかより、今ここで使えるかどうかが優先される。理屈としては、理解できる。それでも、エリオットは何も言えなかった。怒る気力もなかったし、正しいとも間違っているとも言えなかった。ただ、焚き火を見つめ続ける。炎の揺れを追っていると、考えなくていいはずの記憶が、勝手に浮かび上がってくる。


  ——母の声。

「ねえ、エリオット」柔らかい声だった。

怒ってもいない。泣いてもいない。だからこそ、逃げ場がなかった。


「私が死んだら、どうする?」


 食事の最中だった。白いトレイの上に並んだ、味の薄い食事。居住区の、いつもの夕食。栄養は十分で、量も適切だった。母は、特別な顔をしていなかった。雑談の延長みたいに、軽く口にした。エリオットは、手を止めた。


「……どうって?」


「ひとりで、生きられる?」母は笑っていた。


 不安を隠すための笑顔だと、エリオットには分かってしまった。分かってしまったことが、間違いだったのかもしれない。


「あの人、私のこと見てないし」


 父のことを、そう呼んだ。


「私、死んだら、あなたが心配で」


 その言葉が、胸の奥に沈んだ。エリオットは何も言えなかった。本当は、怖かった。本当は、やめてほしかった。不安を押し付けられているような気がした。そんな話を、子どもにしないでほしい。でも、それを口にする勇気はなかった。


「大丈夫だよ」


 そう言うべきだと、分かっていた。母を安心させるのは、自分の役目だと思った。


「……大丈夫」


 そう答えると、母は少しだけ安堵したように息を吐いた。


「よかった」


 その一言が、胸に重く沈んだ。よかった、じゃない。エリオットは、子どもだった。


 それでも、その日からずっと——自分が壊れたら、この人も壊れる。そう思うようになった。 


 病状が進むにつれて、母は弱っていった。身体より先に、心が折れていく。 


「今日は、調子が悪いの」

「ごめんね」

「迷惑、かけてるよね」


 謝られるたび、心がすり減った。迷惑じゃない。大丈夫。自分が我慢すればいい。そうやって、心にブレーキをかける癖がついた。選ばない。望まない。失敗しない。——そうすれば、誰も傷つかない。


 母が亡くなった日のことは、よく覚えていない。ただ、病室の窓がやけに明るかったことだけが残っている。空は、異様なほど澄んでいた。医者は足りていなかった。薬も、時間も。


「……エリオット」


 誰かが、名前を呼んだ。現実に引き戻される。焚き火の向こうで、ルーカスが立っていた。いつからそこにいたのか、分からない。


「眠れないか」


「……はい」


 それだけ答えた。ルーカスは、それ以上聞かなかった。焚き火に薪を一本足し、静かに腰を下ろす。炎が、わずかに大きくなる。


「外はな、医者もいない」独り言のように言う。

「薬も足りない」

「だから、怪我をしないように生きるしかない」


 それは嘆きでも、愚痴でもなかった。事実の確認だった。エリオットは、炎を見つめたまま言った。


「……それでも、ここにいるんですね」


「選んでるだけだ」即答だった。

「危ない方を、って意味じゃない」

「自分で引き受ける方をだ」


 少し間を置いて、続ける。


「考えすぎると、動けなくなる」

「考えなさすぎると、死ぬ」


 エリオットは、ゆっくりとうなずいた。


「……僕は、考えすぎる方です」


 ルーカスは、少しだけ口元を緩めた。

「知ってる」否定しない。


 胸の奥が、わずかに緩むのを感じた。母の声が、遠ざかる。焚き火の音が、今に戻してくれる。心にかかったブレーキは、まだ外れていない。けれど——外縁の夜は、居住区よりも、ずっと正直だった。

 

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ