第五話 フリンジ
※AIの名称を変更しました
ケイロン→アストラ
外縁の地上は、思っていたよりも広かった。エリオットは崩れた壁の影に身を伏せ、息を殺した。肺の奥がひりつく。地下から這い出たときに、もう限界だと思った体力が、まだどこかに残っているのが分かった。それは余力というより、生き延びたいという衝動だった。理屈じゃない。意思でもない。ただ、止まれない。周囲に人の姿はない。少なくとも、見える範囲には。だが、それで安心できるほど、外縁は単純じゃなかった。
見られている感覚が消えない。皮膚の裏側をなぞられるような、説明のつかない違和感。視線というより、存在を測られている感覚に近い。風向きが、わずかに変わる。
瓦礫の隙間を抜ける音が、途中で歪む。
エリオットは、瓦礫の隙間からゆっくりと顔を出した。首だけを動かし、視界を切り取る。何もいない。壊れた建物。崩れた道路。絡みつく蔦。外縁で何度も見てきたはずの風景。だが、その「何もいない」は、居住区のそれとはまったく違った。居住区の無人は、管理された不在だ。ここにあるのは、意図的に消された気配。感染者じゃない。それだけは分かった。感染者なら、もっと雑だ。音を立て、動きを隠さない。存在を誇示する。ここにいる何かは、そうじゃない。
エリオットは立ち上がろうとして、膝が崩れた。地面に手をつき、荒く息をする。呼吸音が、自分でも驚くほど大きく聞こえた。——まずい。外縁では、音は命だ。立てた瞬間に、選ばれる。
「……」
すぐ近くで、何かが擦れる音がした。エリオットは顔を上げた。人影があった。一人じゃない。距離はある。だが、正確だ。そして、銃口が、こちらを向いている。
「動くな」
低い声だった。怒気はない。威嚇でもない。ただ、命令。エリオットは、ゆっくりと両手を上げた。速すぎても、遅すぎてもだめだと、体が理解している。
「……居住区から来ました」
言ってから、後悔した。ここでその言葉が、どんな意味を持つか分からない。だが、取り消す意味もない。返事はなかった。人影が、増えた。四人。五人。どれも、同じ距離を保っている。包囲じゃない。観察だ。囲んでいないのに、逃げ場がないと分かる立ち方。
そのときだった。少し離れた瓦礫の向こうで、低い唸り声がした。感染者。四つん這いに近い姿勢で、こちらへにじり寄ってくる。動きは鈍い。だが、音に反応している。誰かが、短く舌打ちした。
「……俺がやる」
次の瞬間だった。動きに迷いはなかった。
銃声はない。乾いた音。ナイフが、感染者の喉元に吸い込まれる。切るというより、差し込んで、引いた。身体が前につんのめる。追撃は一度だけ。倒れた個体は、二度と動かなかった。静かだった。あまりにも、静かだった。戦闘というより、作業。慣れすぎていて、感情が介在していない。血の匂いが漂う。誰も、それを気にしない。
「……慣れてるんですね」
エリオットは、思わず口にした。銃を下ろした男が、ちらりとこちらを見る。
「外をうろついてる連中はな」淡々とした声。
「俺たちは、フリンジだ」
その言葉を、エリオットは胸の中で反芻した。フリンジ。境界。端。居住区にも属さず、感染者でもない。外を生きる人間。
「一人か」別の声。
「……はい。はぐれました」
相談している様子はない。だが、判断は共有されているらしかった。やがて、最初の声が言った。
「感染してないな」断定だった。
どうして分かったのか、エリオットには分からない。数値も、検査もない。
「今は」
付け足すように、声が続く。その一言で、背中が冷える。“今は”。
「ここは、居住区じゃない」
誰かが言った。責めるでもなく、説明するでもなく、ただ事実を置くだけの言い方。
「助けて……もらえるんでしょうか」
エリオットは、そう口にした。自分でも驚くほど、声は静かだった。
沈黙。風が吹き、瓦礫の隙間で草が揺れる。
「……理由は?」
初めて、問いが投げられた。
「なぜ、助ける必要がある」
エリオットは言葉を探した。怪我をしている。迷っている。居住区に戻りたい。どれも、本当だ。だが、どれも理由にならない気がした。
「分かりません」
しばらくして、そう答えた。人影の一人が、小さく息を吐いた。
「そうか」
それ以上、何も言わない。しばらくして、銃口がわずかに下がった。
「今日は運が良かったな」最初の声が言う。
「ついてこい」
少し間を置いて、続ける。
「ただし——。居住区のやり方は、ここじゃ役に立たない」
エリオットは、うなずいた。どういう意味か、まだ分からない。だが、分からないまま進むしかないことは、はっきりしていた。彼らは一定の距離を保ったまま、歩き出す。誰も背中を見せない。誰も、安心させる言葉を口にしない。
しばらくして、焚き火が見えた。小さい。煙はほとんど出ていない。そこに、腰を下ろしている男が一人いた。こちらを見ているが、立ち上がらない。
「拾ったのか」男が言った。
声は低く、落ち着いている。
「偶然だ」誰かが答える。
男は、それ以上聞かなかった。視線が、エリオットに向く。値踏みでも、警戒でもない。ただ、人を見る目だった。
「居住区の人間だな」
「はい」
「そうか」
それだけ言って、男は焚き火に視線を戻した。少し間があってから、言う。
「ようこそ」
「朝まで無事なら、その先を考える」
それが、この場所のやり方らしかった。エリオットは焚き火の少し外に腰を下ろした。
暖かい。だが、安心ではない。それでも、不思議と呼吸は深くなった。外の世界は、まだ怖い。けれど、ここでは誰も、正解を押し付けてこなかった。
焚き火の音が、静かに弾ける。その小さな音だけが、いま自分が生きている証拠だった。




