第四話 知っているだけの優等生
※AIの名称を変更しました
ケイロン→アストラ
端末は、まだ生きていた。画面を叩くと、少し遅れて反応する。通信は不安定だが、完全に切れてはいない。薄暗い表示が一瞬明滅し、遅れて文字が並ぶ。指先の感覚が、いつもより鈍い。冷えなのか、震えなのか、自分でも分からなかった。
エリオットは息を整えながら、その画面を覗き込んだ。表示されているのは、数値と簡略化された地形図。生体反応の推移、外気温、湿度。地形図は輪郭だけを持っているが、それが何の輪郭なのかは判別できない。見覚えはある。居住区で訓練に使う「想定外縁」のモデルに似ている。だが、ここには当てはまらない。
似ているだけで、役に立たない。まるで、知らない人の顔を誰かに似ていると言われて安心するみたいに。
「位置情報を取得できません」
〈アストラ〉の声は低く、落ち着いていた。いつもと同じ調子だ。落ち着かせるために、あえて変えない声。
「周囲の状況を教えてください。手がかりがあれば、照合を試みます」
助けようとしている。少なくとも、助けるための手順を踏もうとしている。それが余計に苦しい。
「……分からない」
自分の声が、思ったより掠れていた。喉の奥に埃が張りついている感じがする。咳をしたいが、音を出したくない。音を出せば、何かが寄ってくる。そんな想像が、簡単に現実になる場所だ。少し間があってから、返答が来る。
「了解しました」短い肯定。否定も、焦りもない。
「では、見えているものを順に伝えてください」
エリオットは視線を上げた。崩れた壁。倒れた柱。瓦礫。湿った地面。錆びた配管が天井を這い、ところどころ水滴が落ちている。古いコンクリートに染みた黒い跡は、油か血か、どちらでもあり得た。鼻を刺すのは、土と鉄の匂い。焦げたような臭いも混じっている。どれも外縁では珍しくない。珍しくない、ということが恐ろしい。つまり——この場所は特別じゃない。
外縁にはこういう穴がいくつもあり得る。そして、ここに落ちた自分は、その「どれか」に過ぎない。
「……特徴が多すぎる」思わず口から漏れた。
「その通りです」アストラは否定しない。
「情報が多すぎて、特定できません。もう少し絞り込みが必要です。例えば——標識、番号、看板、文字情報があれば」
標識。番号。看板。そんなものが、ここに残っているわけがない。エリオットは端末から視線を外した。目が慣れてきたせいで、暗がりの細部が見えるようになっている。見えるほど、心臓が落ち着かない。
ここは地下だ。落ちた先が「地面の下」だったという事実が、いまさら追いかけてくる。上では叫び声がしていた。あの声は、途中から声ではなくなった。
——一人は死んだ。
——もう一人は噛まれた。
アストラが言っていた。「戻れません」と。言葉がやけに明瞭だった。あの瞬間だけ、世界の輪郭が鋭くなった気がした。
エリオットは、思考を止めようとして止められなかった。止めたくても、頭の中で勝手に映像が反復する。血の色。首の傾き。叫び声の途切れ方。噛みついた顎の角度。考えなくていいはずだった。考えないようにできるように、ここまで育てられた。でも——考えてしまう。
エリオットは歩き出した。足音が、やけに大きく響く。地下の空間は、音を反射させる。壁や床が、声も足音も返してくる。居住区の通路の反響に似ているのに、まるで違う。居住区の反響は「安心の音」だった。ここで響く音は「見つかる音」だ。
背後で、瓦礫が崩れる音がした。反射的に身を伏せる。心臓が跳ね、呼吸が乱れる。音の方向を確認し、距離を測る。その行動自体が、すでに自分のものじゃない気がした。訓練で刷り込まれた動き。頭より先に体がやる。
……違う。風だ。地下に風? と一瞬思って、気づく。どこかが裂けている。地上と繋がる隙間がある。だから、空気が動く。だから、この場所は完全な閉鎖空間じゃない。それは希望でもあり、恐怖でもあった。
「心拍数が上がっています」
「恐怖反応としては自然です」
「呼吸を整えてください。今は、それが最優先です」
簡単に言ってくれる。息を整えれば、助かるみたいに。エリオットは、ゆっくり息を吸った。肺が痛い。埃でざらつく。喉が熱い。吐くと、体が少し軽くなる。数値は落ち着く。だが、恐怖は消えない。消えるわけがない。ここは、何が起きても不思議じゃない場所だ。
「感染者の行動特性を教えて」
エリオットは、口にしてから気づく。自分は「知っている」ことを、もう一度聞いている。安心したい。知識があることを確認したい。
「視覚・嗅覚・音刺激に反応します」
アストラは淡々と答える。
「特に、不規則な音には敏感です」
「距離を保ち、刺激を避けてください」
知っている。でも、それを守れる場所にいない。距離を保つ相手が、どこにいるのか分からない。刺激を避けたくても、自分の呼吸音すら刺激だ。
「……逃げ道は?」
今度は、少し沈黙があった。
「最適な経路を検索します」
息が止まる。“最適”という言葉に、体が反応する。救いの単語だ。居住区ではそれがいつも正解だった。
「……できません」
その一言で、胸の奥が沈む。
「現在位置が特定できないため、確率を出せません」
正しい。間違っていない。でも、今は使えない。正解はどこにもなかった。知識は揃っているのに、救いだけが欠けている。
エリオットは泣きそうになりながら、それでも生きる方を選ぼうとしていた。様々な可能性が頭をよぎる。感染者が地下にいるかもしれない。出口が塞がっているかもしれない。このまま迷えば、体力が尽きる。上で何が起きたのか、もう確かめようがない。
とても助かる気がしない。端末を握っているのに、手の中に“誰もいない”感じがする。それでも生きたい。泣きそうでも、怖くても、生きたい。
足元を見ると、瓦礫の隙間に細い通路が伸びていた。建物の裏に回れそうだ。天井は低いが、通れないほどではない。通路の先は暗い。けれど、暗さには段階がある。そこは“完全な闇”ではない。どこかに、ほんの少し光が混じっている。出口がある。そう思うしかない。アストラは、何も言わない。画面には、過去の事例と平均値が並んでいる。感染者の移動速度。反応時間。推奨距離。最悪ケースと最良ケースの統計。どれも正しい。どれも、この一歩を決めてはくれない。
エリオットは、はっきりと理解した。アストラは、知っている。だが、生きてはいない。だから、迷わない。だから、決めない。
低い唸り声が、近くで響いた。今度は、風じゃない。背筋が凍る。耳が、勝手に音の方向を探す。距離感が掴めない。地下の反響が、音を嘘にする。
「……音源、近いです」
アストラが静かに言う。
「この場に留まるのは、推奨できません」
推奨。推奨しかできない。エリオットは端末を閉じた。画面が暗くなり、情報が消える。
不思議と、視界が広がった。自分の呼吸の音。足の位置。影の濃さ。湿った空気の流れ。情報を切った途端、現実が立ち上がってくる。
「行くしかない」誰に向けるでもなく、呟く。
それは確信じゃない。正しさでもない。
ただの判断だった。——自分で決めた、というだけの。
エリオットは、細い通路へ身を滑り込ませた。天井に頭をぶつけ、鈍い痛みが走る。膝を擦る。皮膚が裂けた感触。痛みで視界が揺れる。声を上げそうになって、歯を食いしばる。音を出したら終わる。終わる気がする。いや、終わる。背後で、何かが壁にぶつかる音がした。——来た。
理屈じゃない。確信だけが走る。走る。転びそうになりながら、進む。狭い。息が壁に当たって返る。手のひらが擦れる。手のひらが熱くなる。それでも止まれない。息が切れ、肺が焼ける。足がもつれる。視界が白くなる。でも、止まったら終わる。やがて、微かな光が見えた。瓦礫の隙間の向こう。
外の光だ。光は、希望というより、暴力的だった。暗闇に慣れた目に刺さる。痛いほど眩しい。エリオットは最後の力を振り絞り、崩れた壁を押しのけた。石が崩れ、砂が落ちる。音が出る。でも、もう構わない。構っていられない。
風が吹き込む。空があった。外縁の空が、すぐそこに広がっている。エリオットは地上に這い出し、その場に膝をついた。土の冷たさが、膝に直接伝わる。地面が硬い。地下より硬い。それだけで、泣きそうになる。居住区は、もう見えない。端末は沈黙したままだ。
いや、沈黙というより——「言うことがない」感じ。ここから先、何が起きるのか。どこへ行けばいいのか。それを教えてくれる声は、もうない。
エリオットは立ち上がった。外の世界は、思っていたよりも広かった。そして、思っていたよりも——容赦がなかった。




