第三話 崩された当たり前
外縁の空は、居住区よりも低く見えた。同じ空のはずなのに、境界を越えた途端、色が変わる。青というより、薄く濁った白。雲は近く、流れは速い。遮るもののない風が、直接肌を打つ。冷たいというより、無遠慮だった。
建物の残骸は整理されていない。崩れたまま、倒れたまま、片づけられる予定すらない。時間だけが積もり、埃と錆が層になっている。ここでは、過去が現在に混じったまま放置されていた。
調査班は四人だった。ハーランが先頭を歩き、エリオットはその少し後ろにつく。若い隊員が二人、左右に分かれて進む。隊列は広がりすぎず、詰まりすぎない。何度も繰り返された動きだ。
「範囲は第二圏外縁。予定時間は四十分」
端末から〈ケイロン〉の声が流れる。
「今のところ、特に変な反応はありません。このまま進めて大丈夫そうです」
軽い調子だった。問題がないときの、いつもの声。その声を聞くだけで、体の力が少し抜ける。誰も疑問を持たない。危険度が低いなら、問題はない。
「今回は早く終わりそうだな」
若い隊員の一人が言った。
「早く戻ろう」それは願いではなく、確認だった。
調査は淡々と進んだ。足跡。臭気。崩落の有無。端末に入力すれば、それでいい。判断はケイロンがする。人間は、考えなくていい。——そのはずだった。
建物の内部を進んでいた、そのときだった。踏み出した足に、わずかな違和感があった。ほんの一瞬。靴底が、沈むような感触。エリオットは反射的に足を止めた。アスファルトの表面に、細い亀裂が走っているのが見えた。蜘蛛の巣のように広がり、次の瞬間にも崩れそうな線。
「……待ってください」
声を出した瞬間、嫌な予感が確信に変わる。言い終わる前に、足元が鈍い音を立てて沈んだ。——崩落。
世界が傾く。重力が方向を失う。視界が回転し、体が宙に浮く。土と埃が一気に舞い上がり、肺に流れ込む。息が詰まる。
「落下を検知しました」
ケイロンの声が、やけに近く聞こえた。
「高さは……三メートル以上です」
「……動けますか。痛みは?」
問いかけは冷静だった。だが、答える余裕はない。エリオットは咳き込みながら、必死に息を整える。喉が焼ける。胸が痛む。だが、四肢は動く。
「エリオット!」
ハーランの声が、上から響いた。だが、その直後だった。別の方向から、異様な叫び声が聞こえた。短く、途切れ、すぐに別の音に変わる。骨がぶつかる音。肉が裂ける音。
「くそっ! 離せ! ぶっ殺してやる!」
「嫌だ! 助けてくれ隊長!!」
若い隊員の一人の声だった。瓦礫の隙間から、感染者が飛び出した。四肢の動きは歪んでいる。関節の角度もおかしい。だが、速度だけが異様に速い。距離が一気に詰まる。隊員は逃げきれなかった。押し倒され、地面に叩きつけられる。助けを呼ぶ声は、途中で潰れた。感染者の口が、首元に食い込む。悲鳴は、音にならなかった。
「……生体反応、消失」
ケイロンが淡々と言った。
「一名、死亡を確認」
誰も返事をしなかった。別の隊員が叫ぶ。
「こっちにも——!」
感染者が、今度は横から飛びかかった。肩に噛みつかれ、血が跳ねる。
「離せ!」
必死に振り払うが、感染者は執拗だった。歯が食い込み、皮膚が裂ける。骨がきしむ音が聞こえた。
「……噛傷を確認」
ケイロンの声が続く。
「感染リスク、高」
一拍置いて、補足する。
「……彼は、もう戻れません」
ハーランの声が荒くなる。
「くそ! 逃げろ! エリオット!」
同時に、金属がぶつかる音。さらに増える足音。感染者が、覚醒したように動き出していた。ぼんやりしていた個体が、一斉にこちらへ向かう。
「数が想定より多い」ケイロンが言う。
「周囲の反応が増えています。……音が原因ですね」
「このままだと、感染者が集まる可能性が高いです」
その言葉が終わる前に、床が崩れた。エリオットの足元が抜ける。——落下。闇。体が何かにぶつかり、転がる。背中に強い衝撃。息が、音を立てて漏れた。
「通信が不安定です」
ケイロンの声が遠くなる。
「位置情報が途切れました。……地下構造に落下した可能性が高いですね」
画面が暗転した。沈黙。それは居住区の静けさとは違った。誰も管理していない静けさだった。
エリオットは、ゆっくりと体を起こした。地下だった。崩れた通路。古い配管。湿った空気。
「……ハーラン?」返事はない。
端末が、一度だけ短く震える。
「状況を整理します」
「あなたは現在、単独状態です」
「地上との通信は、ほぼ遮断されています」
エリオットは、自分の呼吸音を聞いた。速い。浅い。逃げるべきか。隠れるべきか。戻るべきか。
「……最適な行動ルートを検索します」
「……だめです。情報が足りません。確率を出せない」
そして、静かに続けた。
「つまり」
「ここから先は、あなたの判断になります」
エリオットは壁に背を預け、周囲を見渡す。距離。遮蔽物。逃げ道。考えている。——考えてしまっている。それは、ここでは危険な行為だった。だが、今はそれしかなかった。頭上のどこかで、外縁の空が広がっている。居住区は、もう見えない。エリオットは、完全に外に出ていた。




