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境界圏Ⅰ  作者: 斗斗斗 斗斗斗


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第二話 居住区

 居住区は、整っていた。


 外縁に近い区画とは違い、通路の空気は澱みがなく、歩く速度も自然と揃う。急ぐ者も、極端に遅れる者もいない。壁は均され、凹凸は最小限に抑えられている。ひび割れは早い段階で補修され、古さが目に入る前に消えていく。ここでは、老朽化という現象そのものが管理対象だった。


 照明は柔らかく、影を作らない角度で配置されている。眩しすぎず、暗すぎず、眠気を誘わない明度。人の集中力と安心感が最も安定する数値に合わせて調整されている、と以前ケイロンは言っていた。


 ここでは、時間の流れさえ管理されているように感じられた。


 急ぐ必要も、立ち止まる理由もない。ただ、決められた動線を進めばいい。そうすれば、次の場所に着く。次の予定がこなされる。迷う余地はないし、迷わなくていい。


 人の足音が反響し、遠くで子どもの笑い声がした。誰かが走り、誰かがそれを叱る声が混じる。やがて笑いに変わる。安全であることが、音の数で分かる場所だった。


 外縁では、音は減る。風の音、瓦礫の崩れる音、遠くのうなり声。意味を持たない音だけが残る。


 ここでは、音が増える。それが、生きている証拠だった。端末が短く振動する。


「調査任務、問題なく終了しました。帰還を確認」


 〈ケイロン〉の声は、どこか軽い。事務的だが、冷たくはない。「お疲れさま」と言わない代わりに、そう聞こえる調子に整えられている。


「今回もスムーズでしたね。危険度は低めで記録しておきます」


 言い切りではなく、柔らかい断定。人が安心しやすい言葉遣いだ。エリオットは歩きながら、表示された要約に目を落とす。


 危険度・低。

 異常なし。

 次回調査は三日後。


 外縁で何があったかは、数行にまとめられていた。立ち止まった時間も、迷った瞬間も、胸の奥に残った違和感も、そこには含まれていない。


 必要なものだけが残されている。


 不要なものは、最初から存在しなかったかのように消されている。


「おはよう」


 横から声をかけられた。ミラだった。同期の中では、あまり目立たない。背も低く、声も小さい。だが、人の表情の変化を見逃さない。気づいても、深く踏み込まない。


「無事でよかった」


 それだけ言って、彼女は少しだけ笑った。


 エリオットはうなずく。


 無事。


 それはここでは、すべてに優先される価値だった。理由を問われない。説明も求められない。「無事だった」という結果だけが重要で、それ以外は付随情報にすぎない。


 居住区の中央ホールでは、簡易の配給が行われていた。人々は整然と列を作り、間隔を保って立っている。声を荒らげる者はいない。列が詰まれば、自然と速度が調整される。誰かが指示を出さなくても、全体が同じリズムで動く。


 量は十分で、味も悪くない。栄養は計算され、年齢や体格に応じて最適化されている。不足はない。だから、不満も少ない。


 ホールの一角では、回収された資材が整理されていた。金属、配線、部品。どれも一度は捨てられたものだが、ここでは“使える可能性”として並べられている。


 居住区は、拡張を続けている。


 そのために、外縁へ人が出る。


 壁面のスクリーンには、今日の状況報告が流れていた。


「感染者の活動域に大きな変化は見られません」

「居住区全体の安全度は、引き続き安定しています」


 〈ケイロン〉の説明は、分かりやすかった。不安を煽る言葉は選ばれない。必要以上の情報も出てこない。安心に必要な分だけが、切り取られている。


「助かるよね」


 ミラが言う。


「余計なこと、考えなくて済むし」


 彼女はそれを、悪い意味では言っていなかった。むしろ、肩の力が抜けたような声音だった。


 エリオットは答えなかった。考えなくていい、という言葉が、胸の奥に引っかかる。考えなくていい代わりに、考えなくなるのは、どこからだろうか。


 ホールを抜けたところで、ハーランが待っていた。腕を組み、通路の壁にもたれている。人の流れを邪魔しない位置だ。見張るでもなく、迎えるでもない。ただ、そこにいる。


「問題なかったか」


「はい」


 ハーランはエリオットの顔を一度だけ見て、うなずいた。


「無理はするな」


 それだけだった。


 だが、すれ違いざま、ハーランはエリオットの端末を一瞥し、歩調を緩めた。


「数値は?」


「正常です」


「……そうか」


 短い沈黙。


 ハーランはそれ以上何も言わなかったが、確認するようにエリオットの背中へ視線を向けてから、先に歩き出した。


 その仕草を、ミラは見逃さなかった。


「心配してるんだと思う」


 小さな声で言う。


「あなたのこと」


 エリオットは答えなかった。心配される理由が、自分でもよく分からなかったからだ。


 居住区の古い区画を通るとき、壁際に小さな花が供えられているのが見えた。誰のものかを示す表示はない。誰かが、誰かを覚えている場所。


 ハーランは、その前でほんの一瞬だけ足を止めた。立ち止まったと言えるほどではない。ただ、歩幅がわずかに狂った。エリオットは何も聞かなかった。ハーランも、何も言わなかった。


「次の任務まで休め」


 別れ際、ハーランが言う。


「外縁は……慣れなくていい」


 それは命令でも忠告でもなく、ただの願いに近かった。


 ミラは手を振って、別の通路へ向かった。


「またね」


 その一言が、居住区らしい優しさだった。


 エリオットは一人になり、割り当てられた居室へ戻る。


 整った部屋。必要なものは揃っている。温度も、明るさも、一定だ。端末には、次の予定がすでに表示されていた。


「三日後、外縁調査が予定されています」


 ケイロンの声は軽い。


「今回と同じ条件です。心配はいりません」


 迷う余地はない。

 選択肢もない。


 それなのに、胸の奥が落ち着かなかった。


 外縁で見た、何も起きなかった時間。

 あの沈黙が、頭から離れない。


 安全で、正しくて、優しい世界。


 それでも、どこかで息が浅くなる。


 エリオットは天井を見上げた。


 三日後。


 また外へ出る。


 その予定だけが、なぜかはっきりと現実味を持っていた。


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