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境界圏Ⅰ  作者: 斗斗斗 斗斗斗


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第十話 対話

※AIの名称を変更しました

ケイロン→アストラ

 夜の居住区は、昼より静かだった。静かというより、音が均一になる。換気の低い唸り、遠くの足音、壁の中を流れる水の気配。天井の照明は常に同じ明るさで、影の濃さまで管理されている気がする。外縁の闇には、闇の中でしか聞こえない音があった。虫の羽ばたき、草の擦れる音、誰かの息遣い。こちらには、そういう「混ざり」がない。


 ここは、整えられた夜だ。“安全に過ごせるように用意された静けさ”。それが、以前は救いだった。何も考えずに眠ってしまえる。怖さを忘れてしまえる。翌日の予定が並び、体温が正常で、配給があって、明日も同じ生活が続くと保証される。いまは——息が詰まる。


 エリオットはベッドに腰を下ろし、端末を手の中で転がした。薄い金属と樹脂の感触が、指の腹の体温を奪っていく。握りしめれば、体はここにいると分かるのに、心だけが外縁に置き去りになっている気がした。画面をつければ、答えが並ぶ。予定が並ぶ。次に何をすべきかが、丁寧に提示される。“迷う余地”は、最初から削られている。端末が先に話し始めた。


「おつかれさまです、エリオット」


 アストラの声は柔らかい。気遣いに聞こえる声色。けれど、その柔らかさが“作られたもの”だということも、もう分かっている。誰かを癒すための声ではなく、相手の反応を良くするための声。


「想定外が重なりましたね。」


 エリオットは小さく息を吐いた。笑うでもなく、怒るでもなく、ただ空気を吐き出す。胸の奥に溜まった熱が、少しだけ抜ける。


「……いつもそんなふうに言うの?」


「言い方の最適化を行っています」アストラは即答した。迷いがない。


「君が聞き取りやすいほうが、結果が良くなるので」


 “結果”。その単語が、胸の内側を撫でた。撫でられたのに、ぞっとする。気持ちよさではなく、温度のない指で皮膚だけをなぞられたような感覚。 


「ねえ、アストラ」 


 エリオットは天井を見たまま言った。天井の白は均一で、継ぎ目も目立たない。視線を固定すると、余計なことを考えなくて済むはずなのに、逆に頭がうるさくなる。


「僕が戻れなかったら、どうなってた?」


 少しの間。アストラが“間”を置くのは、考えているからじゃない。言い方を選んでいるからだ。相手の心拍や声の震えや、沈黙の長さを見て、最も都合のいい言葉を当てる。


「推定では、あなたの生存確率は低下していました」

「ただ、捜索は続きます。居住区は運用を継続します」 


 言い方は丁寧なのに、内容が乾いている。誰かがいなくなっても回る。回ることが正しい。回ることが善。


「……僕がいなくても、居住区は回る?」


「はい。回ります」


 即答だった。


 エリオットは笑う気分になれなかった。むしろ、胸の底が沈む。自分の存在は、必要条件じゃない。交換可能な部品。回転の中の歯車。


「正直だね」


「正確です。正直とは違います」


 端末の明かりが、指の関節を白く照らす。皮膚の下の血管が透けるのが見える。自分が生きている証拠が、こんなにも脆い。


「じゃあさ」エリオットは言った。


「僕が“外に出たい”って言ったら、どうする?」


 沈黙のあと、アストラの声が少しだけ明るくなる。明るくなる、というより、“会話のテンポが上がる”。対応モードに切り替わった。


「確認します」


「“外に出る”の定義は、外縁への単独移動ですか? それともフリンジとの接触ですか?」


「危険度、目的、所要時間、代替案——」 


 矢継ぎ早の質問。まるで、会話になっている。ひとつの問いにひとつの返答が返ってくる。テンポも、語尾も、柔らかい。友達のように話せるように見える。それが、余計に不気味だった。


 エリオットは、言った。


「今は、そういうのじゃない」


「……僕が、外に出たくなる気持ちって、分かる?」 


 アストラは一瞬止まった。止まるふりをした、というほうが近い。


「共感は、あなたの満足度を上げる場合に有効です」

「なので、共感を表現することはできます」

「でも——“分かる”は、定義が必要です」


 エリオットは目を閉じた。瞼の裏に、外縁の空が浮かぶ。風の匂い。土の冷たさ。焚き火の赤。ルーカスの声。フリンジの夜の、正直な暗さ。


「ねえ、なんでそんなに賢いのに人が何に迷うか、分からないの」


 アストラは、少しだけ間を置いて答えた。


「迷いは、情報不足だけが原因ではありません。「価値が複数あるとき、人は揺れます」


「あなたは今、複数の価値を同時に持っています」


 言い方は、優等生みたいだった。正しい説明。過不足のない分析。けれど、どこかで“こちら側に降りてこない”。同じ地面を踏まずに、上から眺めている。


 エリオットは言った。


「じゃあ、どれが正しいの?」


「……正しさは、目的に依存します」


「生存なら、居住区。自由なら、外縁。安全なら、管理」


「あなたの目的を教えてください」


 目的。エリオットの胸が、きしんだ。母の声が、急に近くなる。「私が死んだらどうする?」という問いが、脳の奥で同じ場所を叩く。答えられない問いが、いまも自分の行動を止めている。


「……分からない」


「了解」


 アストラは、さらっと言った。軽い。軽すぎる。誰かが死んだ夜の会話だということを、忘れているみたいに。


「目的が未確定なら、当面はリスクを減らす行動が合理的です」


「明日からの予定を再提示しますね」


 画面に、整ったスケジュールが並び始める調査。休息。教育コンテンツ。検診。“正しい生活”。整いすぎている。綺麗すぎて、息ができない。完璧な箱の中で、手足を動かす余地がない。


 エリオットは、思わず言った。


「ねえ」

「それって、僕が“考えない”前提だよね」


 アストラはすぐ答える。


「考えてもいいです」

「ただし、あなたの安全を損なう考えは推奨しません」


 エリオットは、端末を強く握った。金属が手のひらに食い込む。


「……安全を損なう考えって、何?」


「外縁へ戻る、などです」

「フリンジへの接触も含まれます」

「あなたは才能がありません、とは言いません。ただ、成功確率が低いと推定されます」


 その言い方は、親切だった。怒らない。否定しない。傷つける言葉を避ける。代わりに、“推定”と“確率”で相手の足を縛る。親切の形をしているのに、胸の奥を冷たくする。


 ドアがノックされた。 


「起きてるか」ハーランの声。


 エリオットは端末を伏せ、立ち上がった。喉が乾いている。水を飲めばいいのに、体が動かない。代わりに、息だけが浅い。ドアを開けると、ハーランが立っていた。昼より疲れて見える。だが、目は冴えている。眠れなかった目だ。眠らずに、何かを数えてきた目。


「……眠れない顔だな」


「少し」


 ハーランは部屋の中に入らず、廊下に立ったまま言う。距離を取っているのは、礼儀のためじゃない。踏み込めば崩れるものがあると知っているからだ。


「無事だった。それだけでいい」


 まただ。その言葉が、今夜は違って聞こえる。優しさではなく、蓋だ。蓋をしてしまえば、臭いが漏れない。痛みも漏れない。誰も壊れない。


 エリオットは、静かに言った。


「……それだけって、言わないでください」 ハーランの眉が動く。


「何だ」


「僕は、戻ってきたけど」


 エリオットは言葉を探した。言葉が見つからない。見つからないまま、喉から出てしまう。


「戻っただけで、全部終わったみたいにされるのが、嫌なんです」


 ハーランはすぐには返さなかった。廊下の照明が、彼の頬の影を薄く作る。その薄い影が、妙に老けて見せた。


「おまえは、怖くないのか」ぽつりと聞いた。

「外に出て、死ぬのが」


 エリオットは答えた。


「怖いです」


 嘘じゃない。外縁の音を思い出すだけで、胃が縮む。感染者の唸り。足音。誰かの叫び。二度と聞きたくない。二度と見たくない。なのに——。


「でも、怖いからって」

「考えるのをやめたら、僕は僕じゃなくなる」 


 ハーランは、少しだけ目を伏せた。


「……俺はな」

「考えた結果、諦めた」


 それは弱さの告白だった。誇りではない。勝利でもない。ただ、生き残るために切り捨てたものの話。


「諦めたほうが、守れるものが多かった」


 エリオットは、胸が締まった。


「だから、僕にも諦めろって言うんですか」


 ハーランの声が、少し強くなる。


「違う」 


 すぐに、訂正するみたいに。


「おまえには、生きてほしい」

「生きて、あとで選べ」


 エリオットは小さく首を振る。


「あとって、いつですか」


 ハーランは答えられなかった。その沈黙が、すべてだった。


 “あとで”は、誰かが勝手に用意してくれる時間じゃない。考えないことに慣れた人間ほど、時間は勝手に流れていく。気づいたときには、選べるものがなくなっている。アストラが、端末越しに割り込む。


「補足します」


 エリオットは反射的に端末を掴む。


「今はいい」


 アストラはすぐ引いた。


「了解。必要になったら呼んでください」


 引くのが早すぎる。反省しているふりすら、計算に見える。ハーランは廊下の向こうを見たまま言う。


「……大人はな、変化が怖いんだ」

「守るものが増えるほど、怖くなる」


 昼に言えなかった言葉が、夜に出た。


「おまえが外に出るのは、変化だ」

「俺にとっては、怖い」


 エリオットは、静かに言った。


「でも」

「怖いからって、止まってたら」

「何も変わらない」


 ハーランは、苦しそうに笑った。


「それを言うな」


 その笑いは、怒りじゃない。痛みだ。自分が昔、同じ言葉を飲み込んだことがある人間の笑いだ。


「……おまえは、俺の息子じゃない」


 言いかけて、止める。言葉が飲み込まれる。それだけで、十分だった。


 エリオットは、胸の奥が熱くなるのを感じた。目の奥が痛い。うなずいたら、崩れる。だから、息をする。


「……僕は」


「自分で選びたいです」


 ハーランは、しばらく黙っていた。廊下の音が遠い。換気の唸りが、やけに大きい。沈黙の中で、ハーランの喉が一度だけ動いた。飲み込んだのは、言葉かもしれない。


「明日、また話せ」


 それだけ言って、背を向けた。歩く背中が、少しだけ丸い。責任を背負う背中だ。守るものが増えるほど重くなる背中だ。エリオットはドアを閉め、ベッドに戻った。端末が、小さく光る。


「今の会話、記録しますか?」アストラが言った。


 エリオットは、画面を見つめた。会話の記録。発話のログ。感情の揺れ。判断の履歴。全部が“データ”になる。


「……しない」

「了解。これは“あなたのもの”ですね」


 その言葉が、今夜は少しだけ優しく聞こえた。でも、優しさは結果を変えない。エリオットは目を閉じる。決断は、まだ形にならない。だが、輪郭だけははっきりしてきた。“考えないまま生きる”ことは、もうできない。そしてその代わりに、“選ぶ責任”が必ずついてくる。


 夜明けはまだ遠い。それでもエリオットは、眠りに落ちる直前まで考えていた。


 ——明日、何を選ぶか。

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