第一話 正しい沈黙
梗概
人類は、感染症の蔓延と文明崩壊を経て、AI〈ケイロン〉によって管理された巨大な居住区で生き延びていた。
医療、教育、労働、娯楽に至るまで、あらゆる判断はAIが担い、人間は「正しさ」を選ぶ必要のない社会に適応している。外界には感染者が徘徊する外縁が広がり、居住区の維持と資源回収のため、限定的な調査任務だけが許可されていた。
主人公エリオットは、居住区で育った若い調査員の一人である。過去に精神的に不安定な母を支え続け、母の死を経験した彼は、「間違えないこと」「誰も傷つけないこと」を優先する思考の癖を身につけていた。
外縁調査中の事故により、エリオットは仲間を失い、地下へ転落して単独で外界に取り残されてしまう。AIは膨大な情報を提示するが、刻々と変化する現実の中で、エリオット自身が判断を迫られる場面が続く。
やがて彼は、居住区にも感染者にも属さない外縁の集団「フリンジ」と出会う。フリンジは資源不足と死の隣り合わせの環境で、正解のない選択を日常的に引き受けながら生きていた。そのリーダーであるルーカスとの対話を通じ、エリオットは「人間が生きるとは何か」「正しさと選択は同じなのか」という問いに向き合うことになる。
居住区へ帰還したエリオットを待っていたのは、安全と合理性を重視するAI〈ケイロン〉、そして彼を息子のように思いながらも変化を恐れる上司ハーランとの対立だった。
AIは人類の生存を最優先する一方で、後悔や迷いといった感情を不要なものとして扱う。エリオットは、自らの生と選択をAIに委ね続ける社会に違和感を覚え始める。
本作は、AIによって「正しさ」が保証された世界を舞台に、
人類が生き残ることと、人間であり続けることは同じなのか
という問いを描く。
迷い、恐れ、それでも選び続けてしまう存在としての人間の姿を、外縁と居住区の対比を通して浮かび上がらせていく物語である。
朝は、静かだった。静かすぎて、息をするたび、その音が自分の耳の奥に戻ってくる。まるで、自分が生きていることを音で確認させられているみたいだ。呼吸の間隔、胸の上下、指先に残る夜の冷え。どれも異常はない。異常がないことが、ここでは何より重要だった。
居住区の外れに近いこの区画では、音が少ない。壁の向こうはすぐ外縁だ。生活のざわめきはここまで届かず、代わりに風の流れが建物の隙間を抜けていく。崩れた建物の骨組みに絡みついた蔦が、朝の風に揺れている。かつて駅だったらしい場所だ。天井は半分以上が抜け落ち、案内板の文字は摩耗し、読む者を失ったまま残っていた。人の声はない。あるのは、風と、遠くで鳴く鳥の声だけだ。それでも、この場所は無人ではなかった。
詰め所の奥で、金属が擦れる音がした。装備を調整する音だ。規則正しく、無駄がない。軍隊のように緊張しているわけではないのに、たるんでもいない。ここで求められるのは、勇敢さよりも、事故を起こさない身体の動きだ。
外縁へ出るということは、敵と戦うことじゃない。余計な刺激を出さないこと、想定外を増やさないこと。つまり、なるべく“起こさない”ことが仕事になる。腕に装着した端末が、わずかに振動した。それは通知というより、始業の合図に近い。
「本日の調査任務を開始します」
穏やかな声が流れる。抑揚は最小限で、感情の揺れはない。それでも冷たいとは感じない。人間が不安にならない周波数と速度で、ちょうどよく調整された声だった。
〈ケイロン〉。人類が作り、人類を支え、人類の代わりに判断を整える存在。名前の由来は知らない。誰かが決めたのだろう。発音は短く、口に出しやすい。呼ぶたびに、こちらの心拍に合わせて返答の速度が変わる。まるで、人間の“気分”まで管理項目に含まれているみたいだ。
「調査範囲は第二圏外縁まで。不必要な接近は避けてください」
命令ではない。ただの案内だ。けれど、その“案内”の中には、あらかじめ正解が組み込まれている。正しい行動と正しくない行動が、先に分けられている。人間はそこから選ぶだけだ。選ぶ、というより、外れることを避ける。
エリオットは端末を一瞥した。体温、脈拍、血中数値。すべて基準値の範囲内で、緑色の表示が並んでいる。正常。それを確認して、ほんの少し肩の力を抜く。異常がないという表示は、この世界ではそれだけで価値があった。異常があれば理由を問われる。異常がなければ、それ以上は何も問われない。
「生体反応、安定しています」
ケイロンが淡々と告げる。安定。正しい。安全。そういう単語は、居住区の空気と同じ匂いがした。整っていて、角がなく、どこにも刺さらない。
「今日も平和そうだな」
背後から声がした。ハーランだった。装備を整えながら周囲を一度だけ見回し、その視線が最後にエリオットへ向く。いつもそうだ。全体を確認してから、彼を見る。確認の順番が、癖になっている。
「油断するな」
そう言いながら、ハーランはエリオットの襟元を直した。防寒用の留め具が、ほんの少しずれていた。無意識の動作だった。“無意識”で人の装備に触れるのは、距離が近い証拠でもある。だが、ハーランはそれを距離として認識していない。単に、事故の芽を摘んでいるだけだ。
「寒くないか」
「大丈夫です」
会話はそこで終わった。それ以上、言葉を交わす必要はない。必要以上に話さない。それが、この仕事の基本だった。
余計な言葉は余計な刺激になる。刺激は音になる。音は感染者を呼ぶ。そういう単純な連鎖が、外縁では命取りになる。
調査班は四人。エリオットとハーラン、それに若い隊員が二人。年齢も経験も違うが、やることは同じだ。端末を確認し、指示に従い、異常を記録する。
若い隊員の片方が、装備の留め具を最後に締めながら、軽く笑った。
「今回も、何も起きないといいですね」
希望というより、確認に近い口調だった。周囲に同意を求めるような言い方。“何も起きない”ことを願うのは、弱さじゃない。ここではそれが一番の強さになる。無事に戻り、報告を終え、次の任務まで生き延びる。それが連続して初めて居住区は広がり、資源は回収され、明日の配給は安定する。
「起きないのが一番だ」
ハーランが即座に返す。それで会話は終わった。何も起きない。それが正しい。
外縁へ向かう道は、舗装が途切れがちだった。割れたアスファルトの隙間から草が伸び、倒壊した建物の影が、朝の低い光を受けて長く地面に落ちている。歩くたび、靴底に小石が当たる感触が伝わってくる。規則的な足音。呼吸のリズム。自分たちがまだ秩序の中にいることを、身体が理解している。
文明は終わったが、世界は続いている。人間は、その縁で静かに生きていた。
居住区の内側は、見えない手で整えられている。壁の補修、配給、検診、教育、娯楽。必要なものが必要な順に並ぶように、毎日が管理されている。
その代わり、外に出なければならない。資源が足りないからだ。閉じた世界は安全だが、閉じている限り減っていく。部品も、薬も、バッテリーも、水処理のフィルタも。
だから、外縁調査がある。外から拾ってくる。回収して、運んで、居住区を少しずつ延命させる。拡大というより、維持だ。維持のための外出。その矛盾の上で、居住区は息をしている。
「ルールは分かっているな」
歩きながら、ハーランが言う。
「見るな。近づくな。刺激するな」
誰も反論しない。全員がうなずく。理解ではない。前提だ。ケイロンの画面にも同じルールが表示されている。太字で、強調されている。何度も見た文言だ。
それでも、声で言い直されると安心する。人間は、確認されると落ち着く。
調査は淡々と進んだ。崩落の有無、異臭、足跡。確認して記録し、送信する。それだけでいい。判断はケイロンが行う。人間は集めるだけでいい。
外縁の空気は、居住区より乾いていた。埃が舞い、光が一定じゃない。雲が速く流れ、影が短く伸びたり縮んだりする。落ち着かない。目に入る情報が多すぎる。
居住区では、目に入るものが少ないように設計されていたのかもしれない。壁の色、文字の量、照明の強さ。余計な選択を生まないために。
エリオットは、瓦礫の縁に残った足跡を一瞬だけ観察した。大きさ、沈み込み方、歩幅。感染者か、動物か、それとも人か。分類しようとして、やめる。分類は彼の仕事じゃない。
仕事じゃないはずなのに、目が勝手に追う。自分の中に、まだ“考える癖”が残っているのが分かる。
若い隊員の一人が、ふっと笑った。
「考えなくていいって、楽ですよね」
誰も否定しなかった。エリオットも、何も言わなかった。楽だ。間違えなくて済む。責任を引き受けなくていい。
責任は、いつも後から重くなる。最初から引き受けなければ、重くならない。そういう発想が、居住区の空気の中に染み込んでいる。
そのとき、視界の端で何かが動いた。ほんの一瞬。影が揺れただけかもしれない。
エリオットは足を止めた。身体が先に反応した。風か。鳥か。瓦礫が落ちたのか。あるいは——。
「どうした」
ハーランが振り返る。声が低い。怒ってはいない。だが、空気が締まる。“止まる”という行為は、それだけで刺激になる。隊列が乱れる。足音が変わる。呼吸が変わる。外縁での変化は、全部目立つ。
「……いえ」
エリオットは答えながら、崩れた建物の奥を見た。人の形に見えた気がした。肩の線。頭の位置。だが、そこにはもう何もない。黒い穴のような影があるだけだ。
「問題ない」
ハーランはそれ以上追及しなかった。問題がないなら、進む。それが正しい。正しいという言葉が、ここでは道しるべになる。道しるべがある限り、人は迷わない。
隊列は再び動き出す。だがエリオットの意識だけが、わずかに遅れた。何も起きていない。それなのに、何かが始まりかけている気がした。
その感覚には、名前がなかった。記録する項目も、評価基準もない。だから誰にも説明できない。説明できないものは、存在しないことになる。存在しないことになれば、安心できる。
なのに、胸の奥に残る。ケイロンが、何でもないように告げる。
「周辺の危険度は低いままです。行動を継続してください」
その声は正しい。数値の裏付けがある。だが、エリオットはふと、思う。“低い”という言葉は、ゼロじゃない。危険があるという事実を、危険でない言い方に包んでいるだけだ。
外縁の空は、居住区より少しだけ広く見えた。雲の動きが速く、光の色が一定じゃない。陰影が落ち着かない。目を離すと、次に見たときには形が変わっている。エリオットはその空から目を離せずにいた。
空は変わる。世界は変わる。それなのに、居住区は変わらないふりをしている。ケイロンが再び短く言う。
「記録を更新しました。異常なし」
異常なし。それは最も安全な言葉だ。最も優しい言葉でもある。そして、ときどき——最も怖い言葉にもなる。
エリオットは、唇の裏側を噛んだ。自分の中に、説明できない違和感がある。それが“異常”として検出されないことが、なぜか不安だった。
隊列の前を歩くハーランの背中は、まっすぐだった。迷いがない。迷いを出さない。その背中が、今日に限って少し遠く見えた。
何も起きない。それが正しい。そのはずなのに——。エリオットは、まだ名前のない沈黙に、足を取られかけていた。




