【証拠はいらない】食べているときだけは
相談者は、四十代前半の女性だった。
体格は大きい。
服は地味で、色も形も目立たない。
ただ――座り方だけは、妙に行儀がよかった。
「……食べるのを、やめられなくて」
それが、最初の言葉だった。
「暴食、ですか」
「……やけ食いって言われます」
「でも……違う気がして」
彼女は、視線を落としたまま続けた。
「お腹が空いてるわけじゃない」
「美味しいものを食べたいわけでもない」
少し間があって、
「食べてるときだけ」
「幸せになれたんです」
俺は、何も言わなかった。
「ブス」
「デブ」
「豚」
淡々と、言葉が並ぶ。
「ずっと、そう言われてきました」
「学校でも」
「家でも」
怒りはなかった。
諦めに近い声だった。
「どうせ私なんて」
「何しても無駄で」
「笑っても、気持ち悪いって言われて」
彼女は、膝の上で手を組み直す。
「食べてるときだけ」
「何も考えなくてよくて」
「……生きてる気がした」
静かだった。
「痩せれば変わるって」
「努力が足りないって」
「みんな、簡単に言います」
俺は、ゆっくり口を開いた。
「で」
「痩せたら、幸せになれるか?」
彼女は、即答しなかった。
「……分かりません」
「だろ」
それだけだった。
「聞くぞ」
俺は続ける。
「食べるのをやめたら」
「今、何が残る?」
彼女は、しばらく黙っていた。
「……何も、ないです」
それが、答えだった。
「やけ食いじゃないな」
「え……?」
「生き延びるための方法だ」
彼女の目が、揺れた。
「満たされる場所が」
「そこにしかなかった」
「それだけだ」
責める必要はなかった。
直す話でもなかった。
「いきなり、やめなくていい」
「奪うな」
「……じゃあ」
「減らすとか」
「我慢するとか」
「そういう話じゃない」
俺は、机に指を置いた。
「他に」
「幸せになっていい時間を」
「一つ、作れ」
彼女は、戸惑ったように俺を見る。
「食べる以外で」
「安心していい時間だ」
「……そんなの、ありません」
「今はな」
それだけだった。
長い沈黙のあと、彼女は小さく言った。
「……証拠」
「いりませんでしたね」
「ああ」
「私」
「ダメだから食べてたんじゃなくて」
「生きてた」
彼女は、そう言って立ち上がった。
来たときより、姿勢が少しだけ楽になっていた。
ドアが閉まる。
⸻
事務所に静けさが戻る。
相棒が、ぽつりと言う。
「……食べるしか、なかったんだね」
「そうだな」
窓の外を見ながら、俺は思う。
幸せになれた時間を、
責める必要はない。
生き延びてきた証拠に、
理由はいらない。
だから――
もう、証拠はいらない。




