第8話 初めての戦い
森の中は、昼間だというのに薄暗かった。鬱蒼と茂る木々が太陽の光を遮り、湿った土と腐葉土の匂いが立ち込める。
俺とリナは、小さな足跡を追って慎重に奥へ進んでいた。
「本当に……この先で合ってるのかな」
リナの声には不安が滲んでいる。
「足跡は続いてる。きっと近い」
口ではそう言いながらも、俺の心は揺れていた。
前世の俺なら、こんな危ない場所に足を踏み入れることなんてなかった。面倒ごとは避け、常に逃げてきた。
それなのに今は――なぜ俺は進んでいるんだ? リナのためか、村のためか、それとも疑われている旅商人のためか。
答えはわからない。ただひとつ、「もう逃げたくない」という気持ちだけが、俺の足を動かしていた。
やがて足跡は小さな洞窟の前で途切れた。中から、カチャカチャと何かをいじる音が聞こえてくる。
「……中にいるね」
リナがごくりと唾をのむ。俺たちは顔を見合わせ、静かに中を覗き込んだ。
洞窟の奥には、盗まれた品々が山のように積まれていた。銀の燭台、装飾品、子供のおもちゃ。光を反射して、ぼんやりと洞窟を照らしている。
その上で満足げに腰を下ろしていたのは――。
「ゴブリン……」
緑色の肌、大きな耳、そして赤い目。その目が光を反射して、血のように輝いた。粗末な棍棒を手にした、小さな魔物。だが、鋭い爪と牙が、その小ささを裏切る殺気を放っている。どうやら光るものを集める習性があるらしい。
一匹だけなら、まだ何とかなるかもしれない。
俺はリナに目配せをして、「静かに盗品だけ持ち出して逃げよう」と合図した。リナも頷き、俺たちはそろりそろりと洞窟に入る。
ゴブリンは夢中で宝をいじっていて、こちらに気づいていない。俺は燭台に、リナはブローチに手を伸ばした――。
「へっくしゅん!」
洞窟に響いた、リナのくしゃみ。
ゴブリンがギョッと顔を上げ、赤い目を剥いた。
「ギギッ!?」
まずい。見つかった。
「逃げるぞ!」
俺は燭台を掴み、リナの手を引いて走り出す。後ろから怒声と足音が迫ってくる。
理解するよりも先に、身体が動く。
(ゴブリンの習性は光るもの……あの山を崩せば!)
「リナ、伏せろ!」
叫びながら、俺は近くにあった燭台を掴む。冷たい金属が手のひらに食い込む。心臓が爆発しそうなほど鼓動し、息が荒い。
――迷っている暇はない。
ゴブリン本人ではなく、その背後にある盗品の山に向かって、力任せに投げつけた。
ガッシャーン!
燭台は銀食器の山に命中し、けたたましい音を立てて崩れ落ちる。光るものが散らばる光景に、ゴブリンは本能的に気を取られ、一瞬だけ動きを止めた。
「今だ!」
その隙を逃さず、俺はリナの手を掴み、洞窟の外へ飛び出した。
太陽の光を浴びたゴブリンは目をくらませ、追ってはこなかった。
俺たちは息を切らしながら村の方へ走り続ける。
ようやく足を止めた時、リナが俺を見上げた。
「ユウ……すごかった。まるで動きを知ってたみたい」
彼女の声は震えていた。恐怖と、安堵と、そして少しの――尊敬のようなものが混ざっている。
「……たまたまだよ」
震える声で誤魔化す。
「でも、怖くなかった?」
「怖かったよ。だけど……ユウがいてくれたから」
リナは小さく笑い、俺の手をぎゅっと握った。その温もりが、震えを鎮めてくれる。
(それより、さっきのリナの動き……。ただの転び方じゃなかった。まるで、訓練された兵士のような……。いや、今は考えるのはよそう)
リナを守れた安堵と同時に、得体の知れない“時間を逆流させる力”への恐怖が心を支配していた。
それでも、盗品は取り返した。
ロレンツォの疑いを晴らし、この小さな事件に終止符を打つために。
理解より先に、覚悟が固まっていた。
握られた手の温もり。
震えが止まり、呼吸が落ち着いていく。
そして、ふと気づく。
逃げ腰だったはずの俺の足取りは、いつの間にか確かなものに変わっていた。
恐れるべきは力ではなく、それを使わないことだ――そう思えるようになっていた。




