第7話 紫の影
祭りの夜。焚き火が大きく燃え上がり、村人たちは歌い、踊り、笑い声を響かせていた。リナは広場の中央で「豊穣の祈り」を捧げ、子供たちは花飾りを手に走り回る。俺もその輪の中に混ざりながら、胸の奥にじんわりとした温かさを感じていた。
――俺は今、この村に受け入れられている。
前世で求めてやまなかった「居場所」が、ここにある。
昼間、旅商人ロレンツォから貰ったコンパスが、懐の中で心地よい重みを伝えている。妙に落ち着いた男だった。「君が自分の道を見つける助けになるかもしれない」――あの言葉が、まだ耳に残っている。
そんな安らぎを破るように、怒鳴り声が広場を切り裂いた。
「誰だ! うちの銀の燭台を盗んだのは!」
村人が真っ赤な顔で叫び、周囲に緊張が走る。すぐに別の声が重なった。
「うちの飾りもなくなってる!」
「子供のおもちゃまで……」
ざわめきはやがて一人に向けられた。
「最近村に来た旅商人だ……ロレンツォだろう?」
「よそ者の仕業に違いない!」
槍を持った男たちが、荷馬車のそばにいるロレンツォを囲む。
彼は落ち着いた様子で両手を広げた。
「待ってください。私は商人です。盗みなど働いておりません」
「だが他に誰がいる!」
「証拠はないが、怪しいのはあんただけだ!」
村人の目は疑念と恐怖に満ちていた。祭りの熱気は一瞬で冷え込み、広場に重苦しい空気が漂う。
思わず口を開いたのはリナだった。
「ロレンツォさんはそんなことしません! 昼間、あんなに優しくしてくれたのに! 私たちで確かめに行きましょう!」
その横で、俺も大きく頷いた。コンパスをくれた男が盗人だとは思えなかった。
「足跡を追えば、誰が盗んだか分かるはずです」
村長はしばらく考え込み、やがて頷いた。
「……よかろう。だが危険だ。気をつけるんだぞ」
こうして俺とリナは、村人たちの疑いを晴らすため森へ向かうことになった。
◇
祭りの喧騒から離れると、夜気は急に冷たさを増した。
そのときだった。
視界の端に、紫色の揺らめきがちらついた。炎でも月光でもない、どろりとした影のような光。それは生き物というより、空間の裂け目から滲み出した「何か」のように見えた。
「……なんだ、あれ?」
俺が立ち止まると、リナが怪訝そうに振り返る。
「ユウ?」
だが彼女には見えていないらしい。紫の光は森の奥でうごめき、四足の獣――狼のような形を成している。だが、その輪郭は不安定に滲み、紫色の靄が肉体の周囲を揺らめかせている。まるで、この世界の法則から外れた存在だと主張するように。
――風が、逆に吹いている。
影の周囲だけ、落ち葉が宙を舞い上がり、時を遡るように木の枝へ戻っていく。影の足元には、左右が反転した鏡像のような足跡が刻まれ、一歩進むたびに過去へ歩いているかのようだった。
(この感覚……俺の力と似ている。本来あるべきでない、歪んだ時間の流れ……)
紫の影が、俺を認識したかのように、その爛々と光る紫の瞳をぎらりと向けた。狼の顔。だが、その目には――人間のような、嘲りの色があった。
「リナ、危ない! 逃げろ!」
叫んだ瞬間、影がうなり声を上げて一歩踏み出した。土が黒く染まり、空気が震える。それは物理的な圧力ではなく、存在そのものが放つ不協和音だった。
次の瞬間、俺の視界が“逆再生”した。
襲いかかる未来が断片的に映り、心臓が凍りつく。だがそれだけではない。俺の力に呼応するように、紫の影がさらに濃くなったのだ。
「来る……! 俺の力に反応してるのか!?」
俺はリナの手を掴み、全力で駆け出した。背後で木々をなぎ倒す轟音が響く。
必死に走り抜け、ようやく祭りの灯りが見えたとき――影は未練を残すように揺らめき、やがて煙のように掻き消えていた。
肩で息をしながら振り返ると、リナが真剣な目で俺を見ていた。
「ユウ……今、何を見たの? それに、あの影は一体……」
答えられないまま、胸の鼓動だけが耳に響いていた。
理解より先に、恐怖が身体を駆け抜けた。
紫の影は、ただの魔物ではない。俺の力の根源に、そしてこの世界の秘密に、深く関わっている――その確信だけが、冷たい汗と共に背筋を伝っていた。
だが――それでも進むしかない。この力と向き合い、真実を知るために。




