第53話 居場所
王都を発って五日目、馬車の窓から見覚えのある景色が飛び込んできた。
緑の丘陵、揺れる麦畑の黄金色、遠くに霞む森の稜線。
そして、小さな村の入り口。木の門、石畳の道、懐かしい屋根の並ぶ風景。
あの日、俺がこの世界で目を覚まし、リナと出会った場所。
「……ただいま」
リナが震える声で呟いた。
その一言に、安堵と喜び、そしてほんの少しの不安が混ざっていた。
馬車が止まる。静寂が降りる。
畑仕事をしていた村人たちが顔を上げた。鍬を持つ手が止まり、種を蒔く手が止まる。
誰もが、夢でも見ているかのように俺たちを見つめた。
そして数秒の沈黙ののち——
「リナ!?」「ユウ!?」
歓声が上がった。
村人たちは農具を放り出し、笑顔で、涙で、俺たちに駆け寄ってくる。
その時、家の扉が勢いよく開いた。
エルナとグランが飛び出してきた。
「リナ!」
「お母さん!」
リナは母の胸に飛び込んだ。迷子がようやく帰り着いたように。
エルナは震える腕で娘を抱きしめた。
「おかえり……リナ……」
その声は涙で掠れていた。
グランは何も言わず、俺の肩を叩いた。
その大きな手の温もりが、すべてを語っていた。
――おかえり、と。
◇
夜。
リナの家でささやかな宴が開かれた。
村人たちが次々と訪れ、俺たちの無事を祝う。
何があったのかは詳しく話さなかったが、誰もが感じていた。
俺たちが何かを成し遂げて帰ってきたことを。
数週間後、俺とリナは村外れに小さな家を建てた。
村人たちが手を貸してくれた、木の香りのする家。
朝は畑、昼は子どもたちと遊び、夕方はリナと丘を歩く。
まるであの激しい日々が、遠い夢だったかのように。
◇
ある日の午後。
子どもたちが家の前に集まってきた。
「ユウ兄ちゃん、リナ姉ちゃん、冒険の話を聞かせて!」
「王都に行ったんでしょ? 魔物と戦ったの?」
期待に満ちた瞳が俺たちを見上げる。
リナと顔を見合わせ、微笑んだ。
「さあ、長い話になるぞ」
俺がそう言うと、子どもたちは草の上に座りこんだ。
そして、俺は語り始めた。
時間を巻き戻す力ではなく——
知恵と絆で世界を救った二人の旅の物語を。
砂漠の図書館での方程式。
海底神殿での対話。
そして、新しい封印を作り上げた希望の物語。
笑い声と驚きの声が、夕暮れの村に溶けていった。
その無邪気な瞳を見つめながら、俺は思った。
この平和、この笑顔。
それを守るために、俺たちは戦ってきたのだと。
五十メートルの制約も、この村ではもう問題にならない。
ここが——俺たちの居場所だ。
◇
ある晴れた夜。
俺とリナは丘の上に座り、満天の星を見上げていた。
天の川が夜空を横切り、風が草を揺らす。月はなく、星々だけが世界を照らしていた。
「綺麗……だね」
「ああ」
静かな夜。
リナがそっと俺の手を握る。
小さな手のひらから、確かな温もりが伝わってくる。
しばらくの沈黙ののち、リナがぽつりと言った。
「ねえ、ユウ……ちょっと、手を離してみて」
「え……?」
戸惑いながらも、彼女の真剣な瞳を見て、俺はゆっくりと手を離した。
最初は何も起きなかった。
風が吹き、星が瞬く。
だが十秒ほどして、頭の奥に鈍い痛みが走った。
魂が引き裂かれるような痛み。リナも苦しそうに顔を歪める。
「やっぱり……ダメだね……」
「頭が……痛くなる……」
「そっか」
俺は慌てて彼女の手を取り戻した。
触れた瞬間、痛みが霧のように消えていく。
代わりに、心が満たされていく。
「一生……こうやって手を繋いでいなきゃ、いけないのかな」
リナが笑みを浮かべながら呟く。
「そうだな。……不便だな」
少しの沈黙。
夜風が二人の間を通り抜ける。
「でもね」
リナが見上げた。
星の光が緑の瞳に映り込む。
「嫌じゃないよ」
「……俺もだ」
自然と笑みがこぼれた。
それだけで、すべてが報われる気がした。
その瞬間、懐かしい光景がふっと脳裏に浮かんだ。
前世の死の間際、光に包まれながら見た断片的な記憶。
結ばれた手、栗色の髪、笑顔。
そして、この世界でリナと出会った日。
初めて手を握った瞬間に見た幻——星空の下で笑い合う二人。
あれは幻じゃなかった。
あの声が言っていた。
『……居場所を探してみるか?』
科学者として、俺は「時間」を追い続けた。
だが本当の答えは、数式の中にはなかった。
俺の居場所は、ここにあった。
この温もりの中に。
この手のひらの中に。
離れられない二つの手。
それは呪いではなく、祝福だった。
闇の中で見つけた光。
長い旅の終わり。
いや、ここからが——本当の人生の始まりだ。
「これからも、よろしくな」
「うん!」
リナの笑顔は、星空のどの光よりも明るかった。
(この後、二人は五十メートル以上離れることはなかった。
だがそれを不自由と感じたことは、一度もない。
同じ速さで年を取り、同じ日、同じ時刻に穏やかに人生を終えた。
――手を繋いだまま。)
―――【第一部 完】―――
前の人生では、一人で死んだ。
けれど今は、一人じゃない。
これが、きっと——幸せというものなんだ。




