第51話 最後の対決
王都に戻って三日後、異変が起きた。
朝、目覚めた瞬間に感じた。
——空気が、揺れている。
街の魔法陣が次々と暴走し始めていた。
照明が点滅し、光が暴れ、闇が侵食していく。
治療魔法は効かず、患者の傷は塞がらない。
防御結界には亀裂が走り、今にも崩れそうだった。
「これは……」
バーネット医師の顔色が変わる。青ざめた頬、震える手。
「封印全体が……崩壊し始めている」
その言葉に、全員の血の気が引いた。
◇
王宮の緊急会議。
国王が玉座に座り、アリシア王女が傍らに立つ。
セリア隊長が険しい顔で控え、俺とリナも呼び出された。
伝令が駆け込む。足音が次々と響く。
「北の森で、魔物が異常増殖!」
「西の鉱山で、魔力が暴走!」
「東の海で、嵐が発生!」
会議室が騒然となる。だが、その混乱の中でも、誰も口を挟めなかった。
「全て——封印の崩壊が原因だ」
バーネット医師の声が震える。
「三つの欠片を破壊したことで、均衡が崩れたのです」
「このままでは……どうなる?」
国王の声は静かだが、確かに恐怖を押し殺していた。
「千年前の混沌が……再び訪れます」
医師の言葉が落ちた瞬間、空気が凍る。
「時間が歪み、因果律が崩壊し、世界そのものが……壊れます」
沈黙。誰も動けなかった。
その時——。
扉が、音もなく開いた。
冷たい風が吹き込み、空気が張り詰める。
「やはり……そうなったか」
ゆっくりと、黒い影が入ってきた。
軋む床、重い足音。——ロレンツォだった。
黒衣の裾が揺れる。武器は持っていない。
ただ一人で、堂々と歩み出た。
「ロレンツォ……!」
セリアが剣に手をかける。
「待て」
俺はその腕を掴んだ。
「……待て」
ロレンツォの瞳を見つめる。赤く、深く、静かだった。
そこにはもう狂気はなかった。ただ、悲しみと——諦めだけがあった。
「俺の計画は、成功した」
彼の声は静かだった。
「三つの欠片が消え、封印は綻んだ。あと少しで完全に崩壊する」
「それが……お前の望みか」
俺は問うた。
ロレンツォは沈黙し——やがて頷いた。
「封印が崩れれば、観測者の力は解放される。
次の世代は、もう苦しまなくて済む」
「だが」
リナが一歩前に出た。
その小さな声が、静寂の中でよく響いた。
「世界が壊れたら……意味がないでしょう?」
ロレンツォの表情がわずかに揺れた。
「世界は……適応する」
だが、その言葉は自分を納得させるための呟きに過ぎなかった。
「混沌の後に、新しい秩序が生まれる。それが——進化だ」
「本当にそう思ってるの?」
リナの声は優しかった。責めるでも、否定するでもなく。
ただ、真実を問う声。
ロレンツォの唇が震えた。
リナは静かに、言葉を続けた。
「エリーゼさんも、そう言うかな?」
その名前が出た瞬間、彼の顔が歪んだ。
胸の奥に封じていた痛みが、堰を切って溢れ出す。
「……その名を出すな……」
「きっと、言うよ」
リナの瞳に涙が滲んだ。
「『世界を壊さないで』って。『あなたは間違ってる』って」
沈黙。時間が止まったようだった。
「……分かっている」
ロレンツォがかすかに呟いた。
「エリーゼなら……俺を止めただろう」
握られた拳が震える。
「だが、もう……彼女はいない」
「だから俺は、自分の信じる道を行く」
その背中には、底知れない孤独があった。
◇
「一人で?」
俺が問うと、ロレンツォは振り返る。
「……ああ。俺には、もう誰もいない」
「違う」
即座に否定する。
「お前には、まだ選べる道がある」
ロレンツォの瞳がわずかに揺れた。
「俺たちは、ゼノンに会った」
その名を聞き、彼が息を呑む。
「第一代観測者……? 伝説の存在だろう」
「本当にいた。千年間、封印を守り続けた男だ」
リナが頷く。
「彼は言った。『封印を、進化させろ』と」
「進化……?」
俺は語った。
ゼノンが見た千年前の惨劇、百人の犠牲、封印の意味。
破壊ではなく、理解と継承のための封印。
ロレンツォは黙って聞いていた。
やがて、微かに息を吐く。
「封印を……進化させる……」
バーネット医師が前へ出た。
「ロレンツォ。お前の目的は間違っていない。だが方法を誤った」
「破壊ではなく、創造で救える道がある」
俺は言った。
「力を制限するだけじゃなく、正しく使うための封印を作る」
「一人で抱え込むんじゃない。絆で支える封印を」
リナも言葉を重ねた。
「それを、私たちと一緒に——作ろう」
ロレンツォは目を伏せ、震える声で呟く。
「俺を……許すのか」
「許すとかじゃない」
俺は首を振る。
「理解したいんだ。お前の痛みも、願いも」
リナがそっと微笑む。
「破壊じゃなく、救いを選ぼう。あなたの中にも……まだ光はある」
その瞬間、ロレンツォの頬を一筋の涙が伝った。
「……俺は、ただ……エリーゼを救いたかっただけだ」
「分かってる」
俺は彼の肩に手を置いた。
「彼女はもう戻らない。でも——未来は、まだ救える」
リナの声が柔らかく響く。
「次の世代の“エリーゼとロレンツォ”を、救うために」
その言葉が、ロレンツォの心に届いた。
「次の……世代を……」
彼は顔を上げた。その瞳には、初めて希望の光が宿っていた。
「俺に……できるのか」
「できる」
バーネット医師が力強く頷く。
「お前の知識が必要だ」
アリシア王女も前に出た。
「王国も全力で支援します」
俺は手を差し出した。
「一緒にやろう、ロレンツォ」
長い沈黙。
そして——彼は、その手を握った。
「……ああ」
「一緒に、やろう」
◇
それから始まった。
新しい封印を創造する、前代未聞の計画。
ロレンツォは二十年分の研究をすべて開示した。
封印構造、魔法陣、古代文字。
破壊のために積み上げた知識が、創造の礎に変わる。
「これは……すごい」
バーネット医師が目を見開く。
「ロレンツォ、お前は……ここまで」
「破壊のためだったが、創造にも使える」
ロレンツォは静かに言った。
皮肉だが、それが真理だった。
だが——。
「創造には、莫大な力が要る」
ロレンツォの声が低く響く。
「ユウ、リナ。お前たちの魂に、限界を超える負荷がかかる」
「下手をすれば……戻れない」
「それでも」
俺は言った。
「やるしかない」
リナも頷く。
「二人でなら、きっと大丈夫」
ロレンツォは目を細め、わずかに笑った。
「お前たちは……俺が選べなかった道を歩いているな」
◇
三日後。
王都の中央広場に、巨大な魔法陣が描かれた。
ロレンツォの設計。王国魔術師総出の結晶。
その中心に、俺とリナが立つ。
「準備はいいか」
ロレンツォの声が響く。
「ああ」
「この魔法陣は理論上完璧だ。だが、結果は保証できない。
負荷が魂を砕く可能性がある」
「それでも」
俺は言った。
「行くしかない」
闇の中でしか光を見つけられないのなら——それでも進む。
リナが手を握る。温かい、小さな手。
「ユウ……」
「大丈夫。俺たちならできる」
それは強がりかもしれない。
だが、信じたかった。
ゼノンの言葉も、ロレンツォの涙も、無駄ではなかったと。
光が、溢れ出す。
地面が震え、風が唸り、空が裂ける。
——魂が焼けるように痛い。
それでも、離さない。
リナの手を強く握り返す。
「行こう、リナ」
「うん、ユウ」
どんな結末が待っていようと、もう迷わない。
怖くても、逃げない。
希望は、きっと——この先にある。




