第48話 海への船出
砂漠を抜けた時、目の前に広がったのは――青い海だった。
港町ポルトリーチェ。
白い帆船が並び、カモメが鳴き交わし、潮風が頬を撫でる。
波の音が、優しく胸を叩く。
「やっと……」
リナが深く息を吐いた。
「涼しい場所に……着いた……」
その声には、安堵と生の実感があった。
三日間の砂漠行。灼熱と乾き、無限の金色の波。
だが、俺たちは“力ではなく知恵で封印を解く”方法を手に入れた。
「船の手配は整っている」
アリシア王女が港を見渡し、一隻の大型帆船を指す。
白い帆、王国の紋章。堂々たる姿だ。
「王国の船が待機中。南の海域まで五日間の航海になる」
「五日か……」
セリア隊長が海を見つめる。青い水平線、果てしない世界の境界線。
「その間に、次の試練の準備をしないとな」
「ああ」
胸の奥で心臓が高鳴る。
最後の欠片――それが、もうそこにある気がした。
白い帆が風をはらみ、ロープが軋む。
港が遠ざかり、潮の匂いが濃くなる。
「初めての……海」
リナが船首に立ち、風を受けていた。
銀の髪が揺れ、緑の瞳がきらめく。
「前世でも、海は好きだったの?」
「ああ。研究に疲れた時、よく海を見た」
静かな海、落ちる夕日。波の音が、心を戻してくれるようだった。
「波の音を聞いていると、心が落ち着いた」
「私も好き」
リナが笑う。
その瞬間、水の精霊たちが舞い上がった。
青く透き通る小さな光たちが、潮風の中で踊る。
航海二日目。
バーネット医師が、古文書の断片を持ってきた。
「海底神殿――正式には『対話の神殿』と呼ばれていたらしい」
「対話?」
「砂漠が“知恵の試練”だったように、海は“対話の試練”だ」
波が船体を叩く。
羊皮紙の上に、古代文字が震えていた。
「『封印の守護者と対話せよ。力ではなく言葉で説得せよ』」
「説得……魔物を?」
カイルが首をかしげる。
「いいや。守護者は“古代の観測者”の意識体だ」
甲板に、静寂が落ちた。
千年前の観測者――俺たちと同じ存在。
「彼らの理を理解し、説得できれば欠片は自ら崩壊する。
だが、拒まれれば……敵になる」
三日目の夜。
海は静かだった。月明かりが波に映り、銀の道を作っている。
「ロレンツォなら、きっと対話なんて考えない」
俺は呟く。
「彼は一人で戦っている。でも、俺たちは違う」
「対話は、一人じゃできないもんね」
リナが微笑む。
「相手を理解して、自分を伝えるには――絆がいる」
「そうだ。だから、俺たちならできる」
その言葉が、波の音と一緒に心に染みた。
航海四日目。
風が変わった。海が荒れ始める。
「嵐が近い!」
船長の声が響く。
帆を下ろし、ロープを引き、船員たちが走る。
波が甲板を叩きつけ、白い飛沫が夜空を染めた。
――だが、違う。これは自然の嵐じゃない。
海面が紫に濁り、瘴気が立ち上る。
空気が腐り、風が重くなる。
「封印の影響……」
アリシアが呟く。
その瞬間、海中から気泡が浮かび上がった。
音が消え、世界が止まる。
そして――海が裂けた。
巨大な影が浮上する。
「な、なんだ……あれは!」
カイルが叫ぶ。
――海蛇。
全長は船の三倍。紫の鱗が闇に光り、瞳が俺たちを射抜く。
「封印の守護者か……」
セリアが剣を構える。
「待て!」
俺は叫んだ。
「攻撃するな! これは試練だ!」
海蛇の瞳が、俺を見つめる。
その奥に、確かな理性の光があった。
「お前は、封印を守っているのか」
海蛇は、ゆっくりと頷いた。
次の瞬間、映像が流れ込む。
――千年前の崩壊。
時間が歪み、都市が崩れ、人々が苦しむ。
そして、封印が生まれた。
その中心に立つ、一人の観測者。
「お前も……観測者だったのか」
世界を守るために、自らの形を捨てた存在。
千年の孤独に耐え、世界を見続けてきた魂。
「お前の決意は尊い」
俺は頭を下げた。
「だが今、世界は新たな危機に晒されている。
ロレンツォという男が、力で封印を壊そうとしている」
海蛇は黙って見つめていた。
リナが震える足で前に出る。
「私たちは、力で壊すんじゃない」
「理解したいんです」
その声は震えていた。
けれど、確かな光を持っていた。
海蛇は――ゆっくりと頭を下げた。
礼をするように、穏やかに。
そして、海へと沈んでいく。
嵐が止む。
風がやみ、波が穏やかになる。
紫の海が、再び青を取り戻す。
「試練の……第一段階か」
セリアが呟く。
俺は頷いた。
「次は、神殿の中だ」
五日目。
水平線の向こう、白い石造りの神殿が見えた。
海の底に、眠るように佇む。
「あれが……海底神殿」
リナが息を呑む。
「水中呼吸の魔道具を準備しろ」
アリシアが命じる。
「ユウ、リナ、セリア、私――四人で潜る」
「了解」
俺はリナの手を握る。彼女も握り返す。
「うん。一緒に」
そして、俺たちは青い海へと飛び込んだ。
闇の中でしか、光を見つけられないのなら――
それでも進む。
……本当に“対話”だけで、何とかなるのか?
千年前の守護者を説得できるのか?
わからない。
けれど、海蛇は確かに“頷いた”。
言葉が通じる世界を、信じたい。
その想いだけを胸に――俺たちは、海の底へ向かった。




