第47話 砂漠の試練
出発の朝、王都の門前には多くの民衆が集まっていた。
人々の囁き、不安そうな顔、祈るような瞳。
「ユウ様……お気をつけて」
老婆が震える声で言う。
「封印を……どうか、お願いします」
男が深く頭を下げた。
俺は無言で頷いた。
この重圧の中では、言葉など薄っぺらい。
今回の調査隊は十名。
アリシア王女、セリア隊長、リナ、俺。
さらに選りすぐりの騎士たちと、バーネット医師、そしてカイル。
鎧の音、馬のいななき、荷物を積む音――出発の朝の喧騒。
「砂漠までは馬で五日の道のり」
セリア隊長が地図を広げた。
その指先が、東の空白地帯をなぞる。そこには小さく『蜃気楼の迷宮』と記されていた。
「その中心に、古代図書館がある。封印の欠片は、そこだ」
三日目の夕暮れ、地平線の彼方に砂の海が広がった。
黄金の砂丘が波のようにうねり、夕陽を浴びて光る。
「美しい……」
リナが息を呑む。その声には畏怖が混じっていた。
だが俺には別のものが見えた。
――時間の歪み。
砂漠全体が渦のように、過去と未来を溶かし合わせている。
観測者の力が、静かに警告を発していた。
翌日、俺たちは砂漠へ足を踏み入れた。
一歩ごとに靴が沈み、熱風が肌を焼く。
喉が渇き、息が重い。
細かな砂が靴の中にまで入り込み、体力を奪っていく。
そして――昼過ぎ。
「……おかしい」
セリアが立ち止まった。
「さっきも、この岩を見た気がする」
確かに、見覚えのある形。
周囲を見渡せば、同じ砂丘、同じ空。
デジャヴではない。本当に同じ場所だ。
「まさか……もう迷宮に?」
カイルが剣の柄に手をかける。
次の瞬間、砂の海が盛り上がった。
巨大な影が地中から現れる。
「全員、警戒を!」
叫ぶと同時に、カイルの剣が閃き、魔物は砂に沈んだ。
「さすがだな」
「こういう時のための剣だ」
彼が笑う。その笑みが、砂漠の緊張を少しだけ和らげた。
二日後。
蜃気楼の向こうに、それは見えた。
砂に半ば埋もれながらも、なお威容を誇る巨大な石造りの建造物。
古代図書館――。
「封印の欠片は、あの中に」
アリシア王女が小さく呟く。
重い扉を押し開けると、砂塵が舞い、暗闇が口を開けた。
中は円形の大広間。
天井は高く、壁一面に書架が並び、書物や水晶板が幾重にも積み重なっていた。
「すごい……」
リナが呟く。だがほとんどは朽ち果てていた。
広間の中央、紫色の水晶が静かに浮かんでいる。
「あれが欠片か……」
セリアが剣を抜こうとした瞬間、俺は止めた。
「待て。魔法陣だ」
水晶を囲む複雑な幾何模様、無数の古代文字。
「封印術……ではない?」
バーネット医師が古い水晶板を拾い上げる。
「『知恵の試練』と記されている」
「力では破壊できない。正しい手順で封印を解除しなければ、欠片に触れられない」
試しにセリアが一歩踏み出すと、見えない壁が彼女を弾いた。
「やはり……力ではダメか」
俺は魔法陣を観察した。
数式――いや、魔法と数学の融合だ。
「これは……時間の方程式?」
前世の記憶が蘇る。
研究室で見た無数の数式、時間と空間を記述する理論式。
「物理学と魔法の融合……」
「ユウ、これが読めるのか?」
バーネット医師が驚く。
「似たものを、前の世界で」
指で文字をなぞると、かすれた文が浮かび上がった。
『時間の流れを理解せし者のみ、封印を解く資格を有す』
――時間。
まさに俺の力の本質。
だが、式は複雑すぎる。焦燥が胸を締め付ける。
その時。
「ユウ、一人で抱え込まないで」
リナが隣に座った。
「魔法の部分なら、私が分かるかも」
リナが手を翳すと、精霊たちの光が魔法陣の一部を照らした。
「ここ、精霊語だよ。『時の流れは一方通行にあらず。観測者の目には、すべての瞬間が等しく存在する』」
「時の流れは……一方通行じゃない?」
――そうか。時間対称性の式。
「リナ、この記号は?」
「『精霊の流れ』。魔力が時間と共にどう変わるかを示してる」
二人で協力して、方程式を一つずつ解いていく。
俺は理論を、リナは魔法を。
パズルのように、少しずつ形が見えてくる。
「この文字は『因果』を意味する」
「では、この式は因果律の逆転……」
バーネット医師も加わり、解読が進む。
やがて――最後の式。
未知の記号が連なっている。
「これは……観測者と被観測者の一体化を示しているのか?」
観測によって時間が確定する、量子論の概念。
「二人で、同時に観測しよう」
俺とリナは、向かい合って魔法陣に手を置いた。
光が弾けた。
紫が金色に変わり、方程式が消えていく。
『知恵と絆を持つ者よ、汝に欠片を委ねん』
封印の光が収束し、欠片が降りてきた。
守護者のサソリは、静かに砂へと還る。
「やった……」
リナが微笑む。
「力じゃなく、知恵で」
「一人じゃなく、絆で」
俺は頷き、リナと共に欠片に手を伸ばす。
光が砕け、砂漠の風に溶けた。
図書館が揺れ、砂が流れ出す。
「急げ!」
セリアの声に押され、俺たちは外へ飛び出した。
振り返ると、建物が砂に沈んでいく。
千年の知識が、静かに眠りへ還っていった。
「消えてしまう……」
リナが呟く。
「でも、俺たちは受け取った」
俺は言った。
「この図書館が伝えたかったものを――力ではなく、知恵と絆で」
夜。
冷たい風が吹く砂漠の野営地。
俺は星空を見上げていた。
「眠れないの?」
リナが隣に座る。
「ああ、考えてた。もし俺が……お前を救えなかったら、ロレンツォと同じ道を選んでいたかもしれない」
リナは何も言わず、俺の手を握った。
「でも今は違う」
「うん」
「お前と一緒なら、別の道を歩ける。力じゃなく、絆で」
「私も同じ。ユウがいるから、強くなれる」
二人で、星空を見上げた。
その時、気配。
闇の向こうで、何かが笑ったような音。
「……ロレンツォか」
声を出すと、気配はすっと消えた。
翌朝。
俺たちは砂漠を後にした。
次の目的地は南の海――最後の封印が眠る場所。
だが、心の奥には確信があった。
力ではなく、知恵で。
一人ではなく、絆で。
「さあ、行こう」
セリアが先導する。
「最後の欠片を、正しい方法で破壊するために」
砂の地平線を越えて、新たな旅が始まる。
闇の中でしか光を見つけられないのなら――それでも進む。
……本当に、このやり方が正しいのか?
力に頼らずに、勝てるのか?
誰にもわからない。
けれど――リナと見つけた答えを信じてみる。
それが、俺たちの戦い方だ。




