第43話 精霊王の泉
山の頂に近づくにつれて、空気が、変わった。
ただの冷気ではない。もっと別の、言葉にできない何かが混じっている。
神聖で、荘厳で、畏怖を感じさせる気配。そして、心の奥底に、直接響くような静かな呼び声。
導かれている。
何かに、呼ばれている。
理解より先に、体が動いた。足が、勝手に動いた。意思とは関係なく、導かれるように、一歩、また一歩と進んでいく。
そして、霧の中に、それは姿を現した。
澄んだ泉。
視覚では見えない。だが、気配で分かる。光が違う、空気が違う、温度が違う、魔力の密度が違う。全てが、圧倒的に、違っていた。
俺は、泉の縁に足を踏み入れた。
その瞬間。
圧倒的な威圧感が、全身を包み込んだ。空気が重くなる、呼吸が止まる。
息が、できない!
体が動かない。筋肉が硬直する、心臓が止まりそうだ、肺が潰されそうだ。
息を吸う。冷たい空気が肺を焼く。それでも、前へ進む。
これが、精霊王の力か。
桁違いだ。リナの精霊の力が小さな焚き火なら、これは太陽だ。いや、それ以上の、圧倒的な存在。
『時の理を乱す者よ――よくぞ、来た』
声、ではない。音ではない。
それは直接、頭の中に、いや、魂そのものに響く、古く、強大な意思だった。
耳で聞くのではなく、存在の根源で感じ取る。まるで世界そのものが語りかけてくるかのように。
「俺は……ユウ……」
震える声で、俺は答えた。
「視力を、取り戻すために、来た……」
『愚かなる願いよ』
まるで氷の刃で心臓を突き刺されたかのように、冷たく鋭い響き。
『その目は、汝が世界に刻んだ傷跡。
理を侵した代償を、なぜ我に癒させようとする』
正論だ。
反論できない。俺が力を使い、理を歪めた。それは事実。
だが、それでも――退けない。
「仲間を……!」
声を振り絞る。
「リナを守るために、この目が、必要なんだ!」
『守る、か』
その声に、嘲りと、わずかな哀れみが混じった。
『汝はすでに、四度も理を歪めた。
均衡を揺るがすその行いを、なお続けるか』
胸が締め付けられる。
だが、次の瞬間――気配が、わずかに柔らいだ。
『……汝の魂には、精霊に愛されし少女の祈りが結びついている』
リナ。
その名を思うだけで、胸の奥に温もりが灯る。
『彼女なかりせば、汝はとうに消えていたであろう。
彼女こそ、新たな均衡点となるやもしれぬ。』
沈黙。風が止まり、時間が凍る。
『――ゆえに、試練を与えよう』
その声には、神託の響きがあった。
『汝が真に守るものを見極め、その覚悟を示せ。
さすれば、代償を我が負う』
希望が、灯る。
「どんな試練でも、受ける!」
『己の罪と、向き合え』
瞬間、意識が巨大な渦に引きずり込まれた。
白い虚無。重力が消え、現実が捻じ曲がる。
――実験室。
蛍光灯の光、金属の机、警報音。
火花が散る。煙が噴き出す。悲鳴、逃げる足音。
だが、一人だけ動かない人間がいた。
若き日の俺。
モニターにしがみつき、異常な速度でキーボードを叩く。
「データを……保存しないと……!」
若き俺は、知を救おうとして、命を見捨てた。
ドアが閉まり、孤独が残る。
沈黙が降りる。
『これが汝の本質』
胸が痛む。心臓が握り潰されるように。
「違う! あの時は……愚かだった!
だが今は違う!」
拳を握る。爪が皮膚を破る。
「仲間のために、戦っている!」
『本当にそうか?
力を使う快楽に、酔ってはいないか?
“守る”という名のもとに、支配を楽しんではいないか?』
喉が凍る。否定したい。でも――できない。
あの瞬間の万能感。
世界が従う感覚。時間すら支配できるという錯覚。
快感。確かに、それは存在した。
沈黙。
それでも――
「それでも、俺は選ぶ!」
震える声で叫ぶ。
「たとえ動機が不純でも、たとえまた間違えても――
俺は、リナと仲間たちが生きる世界を守る!」
『……よかろう』
厳格だった声が、春の陽光のように柔らかくなる。
『その覚悟、確かに受け取った』
白い虚無が晴れ、光が差し込む。
色が戻ってくる。
青、緑、白、茶、金。
世界が、再び色を思い出す。
その光が、俺の罪をも照らしていた。
「見える……!」
震える声で叫ぶ。涙があふれる。
視力が戻った。完全ではないが、確かに世界がある。
『それが今の我にできる限界だ。
残る力は、二度――いや、一度が限界であろう。
次に使えば、汝の魂は砕け散る。輪廻にも戻れぬ』
胸が冷たくなる。だが、声が続く。
『ただし――汝と精霊の娘の魂は、すでに共鳴を始めている』
「共鳴……?」
『幾度も共に危機を越えた。その絆が、二つの魂を結びつけている。
その行く末は、我にも分からぬ。だが確かに、運命は一つとなった。』
静寂。風が戻る。鳥が鳴く。
俺は泉に深く頭を下げた。
感謝と敬意と畏怖を込めて。
――そして、山を降りる。
精霊王の気配はもうない。代わりに、現実の冷たさが戻ってくる。
だが、見える世界がある。岩の形、木の幹、足元の草。すべてが愛おしい。
麓に着いた時。
冷たい悪意、明確な殺気。そして、どこか期待にも似た気配を感じた。
「思ったより早かったな、少年」
ロレンツォが、立っていた。
黒いローブ、紫の瘴気。
赤い目が獣のように輝き、満足げで、どこか寂しげに笑う。
「精霊王が、お前を認めたか」
彼は呟き、剣を抜いた。
「光を取り戻したお前が――どこまで戦えるのか」
……戦いが、始まる。




