第42話 ロレンツォとの再会
三日目の夕暮れ。
精霊王の泉は、もう目前のはずだった。
空気が変わった。濃密な魔力が、肌を刺すように感じられる。大地が脈打っている、まるで生きているかのように。心臓のように、規則正しく。
だが、俺は立ち止まった。
前方から、明確な殺気が迫ってくる。
いや、殺気だけではない。もっと複雑な感情が渦巻いている。憎悪、羨望、悲しみ、そして、奇妙なことに、期待。
「よく、ここまで来たな」
ロレンツォの声が、静かに響いた。
足音はない。だが、気配で分かる。観測者の力で、彼の位置が手に取るように分かる。俺の十歩ほど前に立っている。
「……お前が来ることは、分かっていた」
俺は答えた。剣を構えながら。
「もちろんだ」
ロレンツォは、穏やかに笑った。
その声には余裕がある。だが、かつて聞いた狂気は、今は影を潜めている。まるで、何かを成し遂げた後の、満足感のようなものが滲んでいる。
「封印を破壊してから、三ヶ月が経った」
彼は語り始めた。まるで旧友と語り合うかのように、静かに、ゆっくりと。
「世界は、確かに変わり始めている」
「……変わった?」
俺は問い返した。
「ああ」
ロレンツォの声に、満足げな響きが混じった。
「魔力の流れが活性化している。各地で新しい魔法が発見され、医療技術も飛躍的に進歩し始めた。人々は新しい力に目覚めている」
風が吹く。冷たい山の風。
「停滞していた千年が、ようやく、動き出したんだ」
その声は、誇らしげだった。まるで自分の研究成果を発表する科学者のように。
「だが、犠牲も出ているはずだ」
俺は言い返した。
沈黙。
図星だったのだろう。ロレンツォは何も答えない。冷たい山の風が、頬を撫でていく。
「魔力の暴走、魔物の増加、封印で抑えられていたものが溢れ出している」
俺は続けた。
「お前の言う『進化』の代償を、多くの無辜の人々が、命で払っているんだ」
「……そうだな」
ロレンツォは、静かに認めた。
その声には、後悔の色はない。ただ、事実を受け入れているだけだ。
「犠牲は出ている。確かに、多くの血が流れた。だが、それは必要な痛みだ」
「必要な痛み……?」
俺は思わず声を荒げた。
「人が死んでいるんだぞ!」
「そうだ」
ロレンツォの声が、確信に満ちた。
「停滞した世界では、誰も成長しない。進化しない。安全で、穏やかで、そして絶望的に無意味な日常を、ただ繰り返すだけだ」
山が、冷たい息を吐いた。その冷気が俺の頬を刺す。
「だが今は違う。人々は魔物と戦い、困難に立ち向かい、生き延びるために新しい力を手にし始めている」
ロレンツォの気配が、一歩近づいた。
緊張が高まる。空気が張り詰める。
「それこそが、進化だ」
俺は、歯を食いしばった。
そして、言葉を投げつけた。
「お前の妻は、エリーゼさんは、そんなことを望んでいたのか?」
その瞬間、空気が、完全に凍りついた。
理解より先に、恐怖が背を這い上がる。
ロレンツォの気配が、鋭く変わった。
怒気が、まるで刃のように立ち上る。空気が張り詰め、肌を刺す。
「……エリーゼの名を、軽々しく口にするな」
その声は、低く、危険だった。今にも襲いかかってきそうな殺気が満ちている。
だが、その殺気は、すぐに消えた。
「……だが、答えよう」
言葉が、途切れた。
長い、重い間が流れる。
「彼女なら、きっと、俺を止めただろうな」
その声に、かすかな笑いが混じった。自嘲の、苦い笑い。
「『あなたは間違っていますわ、ロレンツォ様』と、あの優しい声で、真っ直ぐに俺を見つめて、言っただろう」
その声が、遠くなる。二十年前の記憶に、沈んでいく。
「だが、彼女はもう、いない」
その声が、氷のように冷たくなった。
「だから俺は、自分の信じる道を行く」
「それは……」
俺は、慎重に言葉を選んだ。
「……逃げているだけじゃないのか」
「……何だと?」
ロレンツォの声が、再び鋭くなった。
「彼女を救えなかった自分から逃げて、世界を変えることで、その後悔を正当化しようとしているだけじゃないのか」
俺は続けた。彼のいる方向へ、顔を向けながら。
「本当は、分かっているんだろう。エリーゼさんは、こんなことを望んでいなかったって」
答えは、返ってこない。
ただ空気だけが重く沈み、時が止まったように感じられる。
冷気だけが、二人の間を流れていく。
やがて。
「……面白いことを言う」
ロレンツォが、笑った。
だが、その笑いには、深い苦みがあった。
空気が、凍りつく。
「お前に何が分かる」
その声が、震えた。
「二十年間……毎日、毎晩、後悔と共に生きてきた俺の気持ちが」
「分からない」
俺は正直に答えた。
「あなたの痛みの全ては、分からない」
「でも、俺も同じ道を辿りかけた」
リナのことを思い出す。彼女を守るために、何度も力を使った。魂を削った。
「リナを守るために、俺は何度も時間を巻き戻した」
俺は拳を握りしめる。
「そのたびに、魂が削られた。視力も失った。次使えば、消滅する」
「だからこそ、封印を破壊すべきだったのだ」
ロレンツォが言う。
「そうすれば、お前の力は制限されず――」
「違う」
俺は遮った。
「封印があろうとなかろうと、代償は変わらない」
間が空く。
「問題は、力の使い方だ」
「使い方?」
「そうだ」
俺は剣を下ろした。
戦う気はない。今は、対話をしたい。
「お前は、力を使って過去を変えようとした。でも、俺は――」
過去を変えようとした男と、未来を選ぼうとする俺。その差が、運命を分ける。
「未来を選ぼうとしている」
「未来を?」
ロレンツォの声に、かすかな興味が滲む。
「ああ」
俺は頷く。
「過去は変えられない。エリーゼさんが死んだ事実も、封印が作られた事実も」
言葉を続ける。
「でも、未来は選べる。同じ過ちを繰り返さないために、俺たちは学べる」
「綺麗事だな」
ロレンツォは冷笑する。
「お前はまだ若い。まだ、本当の絶望を知らない」
「知らないかもしれない」
俺は認める。
「でも、リナと一緒に歩む未来を、俺は諦めない」
その言葉に、ロレンツォは何も言わなかった。
ただ、空気だけが静かに流れている。
やがて、彼がゆっくりと口を開いた。
「……ユウ」
その声は、珍しく穏やかだった。
「お前は、俺が二十年前に選べなかった道を歩んでいる」
「どういう意味だ?」
「エリーゼが死んだ時、俺には二つの選択肢があった」
ロレンツォは語る。
「彼女の死を受け入れ、悲しみと共に生きていく道。あるいは、封印を憎み、世界を変えようとする道」
彼の声が、かすかに震える。
「俺は、後者を選んだ」
「だが、お前は、リナを守りながら、未来を見ようとしている」
羨望と、悲しみと、そして、少しの希望が混じった声。
「それが正しいのか、俺には分からん」
ロレンツォは告白する。
「だが、見てみたい」
「何を?」
「お前が、どこまで行けるのか」
その声は、まるで師が弟子を見守るような響きだった。
「俺が選べなかった道を、お前が歩ききれるのか」
そして、気配が遠のき始めた。
ロレンツォが、去ろうとしている。
「待て」
俺は呼び止める。
「精霊王の泉へ、俺を行かせるのか?」
「ああ」
彼は答える。
「お前の視力が戻れば、より面白くなる」
その声には、奇妙な期待が込められている。
「だが、勘違いするな」
空気が、再び冷たくなる。
「俺は、お前の味方ではない」
「分かってる」
「俺の目的は変わらない。封印を完全に破壊し、世界を進化させる」
その声は、確固たる意志を含んでいる。
「そのためなら、いずれお前とも、本気で戦うことになる」
「その時は――」
俺は剣を握りしめる。
「全力で止める」
「期待している」
ロレンツォは、笑った。
その笑いには、敵意と、そして奇妙な親愛の情が混ざっていた。
「だが、ユウ」
最後に、彼は言った。
「一つだけ、忠告しておく」
「何だ?」
「精霊王の泉では、お前の覚悟が試される」
その声が、遠ざかっていく。
「本当に、リナと共に生きる覚悟があるのか。そのために、何を捨てられるのか」
「それが、試されるだろう」
気配が、消えた。
ロレンツォは去った。殺気も、悪意も、全てが消えた。
俺は、一人、山道に立っている。
白い虚無の中で。音だけが世界を教えてくれる。
だが、心は、少し軽くなっていた。
ロレンツォとの対話で、何かが整理された気がする。
彼は敵だ。倒すべき相手だ。
だが、同時に、俺がたどり得た別の道を歩む者でもある。
愛する者を失い、絶望し、世界を憎んだ、もう一人の観測者。
俺は、そうはならない。
リナと共に、未来を選ぶ。
そのために、今は、光を取り戻す。
俺は、再び歩き始めた。
精霊王の泉へ、試練の場へ、覚悟を試される場所へ。
……覚悟。
何を失っても、進むしかない。
怖くても、迷っても。
それでも前へ。
答えは、自分で掴む。




